「倭・日本(中世)」(2014/03/31 (月) 01:37:04) の最新版変更点
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#CONTENTS
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*倭・日本(中世)
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。史料での初出は紀元前150年頃とある。
「倭」というのは国号ではなく、あくまで史料の中での表記であるという説が有力である。
三国志の時代では、女王卑弥呼が魏に朝貢し「親魏倭王」の称号を授かった。その後ヤマト政権を経て
朝廷中心の国家体制が構築され、7世紀後半に天武天皇によって「日本」の国号が定められた(異説あり)。
その後源平を始祖中心とする武士政権の時代が始まり、これが数百年続いたが、19世紀後半に終了し、
以後は天皇ひいては国民を中心とする政府が現代まで存続している。
**源頼朝
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|
|78|70|89|96|86|強運|B|C|A|B|C|C|||冷静|
【ミナモトノヨリトモ】
鎌倉幕府の初代将軍。平治の乱で敗れた源氏の嫡男として伊豆に流罪となるが
平氏は高倉宮以仁王が平家追討を命ずる令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、その動きを知り自分が危機の中にある事を悟った頼朝は挙兵。
関東を平定した後に平家、奥州藤原氏を滅ぼし、朝廷から征夷大将軍に任命された。
**源範頼
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|85|83|76|67|80|威風|A|A|B|S|C|B|1150|1193|冷静||
【ミナモトノノリヨリ】
平安末~鎌倉初の武将。源義朝の六男。頼朝の弟。
頼朝軍の総司令官を務めた。源平合戦では義経の活躍が有名だが、
本軍を率いた範頼も堅実な用兵で一度も敗北する事なく平家討伐を成功させている。
一般に凡将のイメージがあるが彼を平凡と扱っている資料は14世紀に記された『源平盛衰記』のみであり、
信憑性は低いとされる。なお彼も平家滅亡後に義経同様、頼朝に幽閉・殺害された。
**源義経
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|97|99|88|20|87|疾走・飛将|A|B|B|S|C|B|1159|1189|||
【ミナモトノヨシツネ】
平安末の武将。源義朝の9男。頼朝の弟。
兄・頼朝の挙兵に奥州より駆け付け、木曽義仲の討伐や平氏討伐に功績。
余人の思いも寄らぬ斬新な奇作の数々や、時には無謀とも思える戦術を駆使し、瞬く間に義仲、平氏を滅亡に追い込んだ。
正に後世の英傑たる指揮官であったが、軽率な行動と政治力の欠如が、
朝廷から距離を置きたい頼朝の足枷となり頼朝と対立。
極端な合理主義的思想から名誉を重んじる武士たちからは嫌煙され、従う兵もなく奥州へ逃げるが欺かれて殺害された。
現在において悲劇の英雄として人気が高い。
**北条義時
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|69|65|97|94|89|百出|B|B|B|C|C|C|1163|1224|||
【ホウジョウヨシトキ】
鎌倉幕府の二代執権。北条時政の次男。嫡男の戦死後に後継者に指名され、
父とともに源頼朝を支える。源頼朝の死後は権謀術数を発揮し、父親である時政をも
廃して北条家の権力拡大に多大な功績をのこした。3代将軍源実朝が暗殺されると
幕政をほぼ一手に牛耳り、これを異とする後鳥羽上皇ら朝廷軍と交戦。
武家政権を日本の頂点に確立し、武家政権の祖とも言われる。
**北条泰時
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|75|52|80|93|84|能吏|B|B|B|C|C|C|1183|1242|||
【ホウジョウヤストキ】
鎌倉幕府の三代執権。裏切りイメージの強い北条氏にあって中国伝説上の名君・尭舜と比較され、
人々から「まことの賢人」と評された名君。御成敗式目を制定し、仁政を敷いて源頼朝が築いた鎌倉幕府を
更に発展させた。承久の乱では幕府軍の司令官として17万の大軍を率い、朝廷軍を打ち破る。
この勝利は朝廷と幕府の優位性を決定づかせ、武士の台頭を改めて諸国に知らしめた。
**少弐景資
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|77|82|65|62|71|射手|A|C|A|C|C|C|1246|1286|||
【ショウニカゲスケ】
鎌倉時代中期の武将。藤原秀郷を祖とする。
元冠襲来の文永の役において九州連合軍の総大将としてモンゴル軍4万の兵と対する。
モンゴルの集団戦法に翻弄され大敗するも、撤退の最中モンゴル軍の副司令官を射落とす大功をあげた。
来る弘安の役に際しては北九州の防備計画を練り上げ、前回の失敗を生かした鉄壁の防御陣地を完成させる。
17万のモンゴル軍が襲来すると前線指揮官として堅実な守備に徹し、モンゴル軍を決して上陸させなかった。
長く海上を漂ったモンゴル軍は季節通りの台風に引き裂かれ、一夜にして海の藻屑と消えたという。
後に兄との内紛で敗死した。
**足利尊氏
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|90|68|82|83|88|遁走|A|A|A|B|C|C|1305|1358|||
【アシカガタカウジ】
室町幕府の創始者。源義家を祖とする清和源氏の末裔。
後醍醐天皇の決起に呼応して鎌倉幕府を離反。討幕に功績をあげる。
討幕後は武士を蔑にする後醍醐天皇と対立。北畠顕家、楠正成らに敗北を繰り返し九州まで追われたが、
多々良浜の戦いで10倍の兵力を覆し再起を果たす。その後、上洛を果たし征夷大将軍に就任した。
戦前の皇史観では極悪人と評されたが、何度敗北しても人望を失わない優れた将器の持ち主であった。
**護良親王
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|85|74|79|54|86|威風|A|A|C|C|C|C|1308|1335|||
【モリヨシシンノウ】
建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子。
比叡山で兵法を会得し、武芸の腕は余人を圧倒。天台座主始まって以来の変わり者と評される。
朝廷軍の軍事指導者として討幕軍を組織し、赤松円心の子・則祐らと共に各地を勇戦。
鎌倉幕府打倒の悲願を達成した。戦後は征夷大将軍に就任するも、
足利尊氏との政争に敗れて失脚。鎌倉に幽閉され殺害された。
**楠正成
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|87|73|91|43|82|百出|S|A|A|C|C|C|?|1336|||
【クスノキマサシゲ】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。大楠公。
後醍醐天皇を助け建武の新政の原動力となった。
武士とは思えない奇想天外な戦術で鎌倉幕府の大軍を翻弄し散々に打ち破る。
鎌倉では彼を「天王寺の妖霊星」と呼んで恐れたという。
倒幕後はかつての戦友・足利尊氏と対立。一時は尊氏を九州まで追いやったが、湊川の戦いで敗北。
新田義貞の殿となり戦死した。尊氏はその死に涙したという。
**新田義貞
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|71|86|68|70|45|強行|A|C|C|S|C|C|1300|1338|||
【ニッタヨシサダ】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。源氏の出。
新田宗家を相続するが、以前から鎌倉得宗家とは折り合いが悪く、
領国問題から後醍醐天皇と連携を取り、鎌倉幕府に対し挙兵。
北条高時を自害させて鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ。建武政権下では
鎌倉に残って戦後処理などを行うが、朝廷からはあまり重きを置かれなかったようである。
その後建武政権から離反した足利尊氏と抗争を開始、一時は尊氏を追いやるも最終的には敗れる。
湊川合戦の敗走後は北陸に遁走するが、やがて足利尊氏らに追い詰められ、最期は越前藤島で戦死した。
**北畠顕家
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|
|93|79|77|53|85|強行|A|A|C|S|C|C|1318|1338|||早熟・長|
【キタバタケアキイエ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。
「風林火山」の旗印を歴史上初めて使用した人物としても知れる。
建武の新政が始まると16歳でその鋭才を見込まれ奥州支配を任される。
足利尊氏の決起に際して、奥州から5万の兵力を率いて僅か20日で上洛。
豊島河原の戦いで20万の尊氏軍に2万足らずの兵力で勝利した。
湊川の戦いで南朝が大敗すると要請を受けて再度上洛。
度重なる遠征と連戦で軍団は疲弊し、奮闘虚しく敗死した。享年21歳。
**高師直
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|87|65|75|68|27|強奪|A|C|B|A|C|C|?|1351|剛胆|尊大|
【コウノモロナオ】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
足利尊氏の側近として倒幕に参加。後に尊氏を武士の旗頭に担ぎ室町幕府成立に多大な功績を残した。
幕府の成立後、尊氏の弟・直義と対立。観応の擾乱を引き起こし殺害される。
非常に野心家で権力を軽んじる傲慢な人物だったと言われ、
人妻であろうと奪えるものは奪い、主君だろうと天皇だろうと構わず背く中世最大の悪玉と称される。
**赤松円心
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|90|55|81|79|73|乱戦|A|B|A|C|C|C|1277|1350|||
【アカマツエンシン】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。もとの名を則村。
後醍醐天皇の挙兵に際し、護良親王の令旨を受けて参戦。
瀬川の戦いでは3千の兵力で20万の鎌倉幕府軍を撃破した。
建武の新政に反発し、足利尊氏に接近。
九州へ逃れる尊氏軍を助け、 追撃してきた追討軍を撃退して時間を稼いだ。
**足利義満
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|
|95|42|98|99|91|虚実・連環・論客|B|C|C|A|C|C|1358|1408|剛胆|剛胆|威厳|維持・長|
【アシカガヨシミツ】
室町幕府3代将軍。足利尊氏の孫であり、足利義詮の嫡男。
生まれる前に祖父を亡くし、数え年10歳で父を亡くした為3代将軍に就任する。
細川頼之や斯波義将らを巧みに操り幕府体制を整える一方、山名氏、土岐氏、大内氏などといった
有力守護大名を次々に討伐、削減し足利幕府の権勢を確立し最盛期を築いた。
また朝廷政治にも関与し、南北朝の合一を果たしている。中国・明との勘合貿易を進め
日本国王に封じられた。一説には皇位簒奪を企んでいたとも言われている。
**一休宗純
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|
|2|1|100|56|100|神算・洞察・論客|C|C|C|C|C|C|1394|1481|冷静|冷静|丁寧|維持・長|
【イッキュウソウジュン】
臨済宗の僧。後小松天皇のご落胤。母は藤原氏、日野氏、楠木氏とも。
6歳で京、安国寺に入門受戒し周建と名乗った。若干13歳で漢詩を作成し
京で高い評価を受ける。その後22歳で一休の道号を授与され、悟りの世界を開いた。
晩年は大徳寺の再興に尽力し、天皇から民衆まで幅広く慕われていたという。
自由奔放で縛られず、様々な階層の人間から広く慕われていたこともあり、
後世「一休咄」「一休さん」と呼ばれる説話の題材にもなった。
**今川了俊
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|94|82|85|68|72|威風・昂揚|A|C|S|B|C|B|1326|?|||
【イマガワリョウシュン】
足利一門今川家の出身。今川範国の次男。足利義詮に仕え、
義詮が病没すると義満に仕えた。1370年に九州探題に推挙され、九州にて南朝勢力と戦った。
一方で島津、大友、小弐ら日和見勢力にも剛柔合わせた対処を行い、大内氏らの援助もあって
1391年に九州をほぼ平定、1392年の南北朝合一により完全平定に至った。
しかし晩年は昵懇であった大内氏の幕府に対する反乱などから足利義満に警戒され、
駿河遠江の半国守護を兼任するに留まった。子孫は堀越氏、瀬名氏を名乗った。
**足利義政
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|
|32|9|57|74|59|楽奏|C|C|C|C|C|C|1436|1490|小心|丁寧|早熟・短|
【アシカガヨシマサ】
室町幕府8代将軍。足利義教の次男。
早逝した兄の義勝の後を受けて8代将軍に就任。将軍親政をこころざし、守護大名や
関東公方の内紛に度々介入、仲裁を行った。しかし側近勢力の分裂化や守護大名の
勢力拡大を抑えることができず、文正の政変で守護大名に反発され、将軍親政は頓挫した。
以後は政治主導の意欲を失い、守護大名同士の闘争を傍観。やがて将軍後継者同士の対立をも誘発させ
応仁の乱を引き起こした。9代将軍足利義煕が亡くなると後を追うようにして病を発し、後事を
10代将軍で甥の足利義材に託した。
**日野富子
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|
|1|3|71|6|5|強奪|C|C|C|C|C|C|1440|1496|剛胆|尊大|早熟・短|
【ヒノトミコ】
室町時代の人物。日野重政の娘。
8代将軍足利義政に嫁ぎ、足利義政の乳母や側室を追放し地位を確立。
義政との間に実子が誕生すると、やがて後継者と定められていた義視との対立に関与。
両軍の参戦大名に金を貸し付け、莫大な資金を蓄えていたと伝えられている。
応仁の乱後は実子の足利義尚が9代将軍に就任するが、夫の足利義政とは対立し後に別居。
兄の勝光とともに日野家の権勢を拡大させ、兄や義尚の死後も御台として幕政に重きをなした。
その後は10代将軍に足利義材を推挙するが、彼とも後に対立。明応の政変を起こし義材を追放した。その3年後に病没。
足利家はその後、追放された10代義材の勢力と、後釜の11代義澄の勢力にわかれ、室町幕府滅亡時まで尾を引いた。
**大内義興
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|
|94|86|81|89|84|連戦・強行|A|C|C|S|C|A|1477|1528|剛胆|剛胆|威厳|維持・長|
【オオウチヨシオキ】
室町時代の武将。大内政弘の子供として生まれ、
周防国をはじめ7か国の守護に任命される。中国地方から北九州にまで
またがる大勢力を確保しながら、10代将軍足利義尹を保護し、畿内に上洛して細川澄元らと争う。
自ら管領代となり室町幕府の実権を握っていたが、尼子経久の台頭や細川氏、足利氏との対立もあり
領国に帰還。以後尼子氏との戦いを展開する。毛利元就の帰参もあり戦いを有利に進めるが、まもなく病死。
**三好長慶
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|
|93|72|75|94|82|威風・楽奏|S|C|A|C|C|B|1522|1564|冷静|冷静|丁寧|普通・短|
【ミヨシナガヨシ】
三好元長の嫡男。父親が殺害された原因となった細川晴元に面従腹背で仕え
やがて主家を下剋上して主君である晴元を追放、勢力をほぼ簒奪する。
以後は13代将軍足利義輝を操り幕政を事実上掌握。朝廷からも重宝され
室町末期における事実上の天下人として君臨した。しかし反三好連合の反抗による弟達の死や
嫡男の夭折を境に心身を憔悴させ、甥で養子でもある三好義継に家督を譲り、しばらくして病没する。
**今川義元
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|
|87|66|85|91|88|名声・仁政|S|A|C|B|C|C|1519|1560|剛胆|剛胆|丁寧|維持・長|
【イマガワヨシモト】
今川氏親の五男。兄の氏輝死後、異母兄の玄広恵探との家督争いに勝利し、今川家当主の座に就く。
武田家と同盟を結び北条氏と凌ぎを削りながら、一方で尾張の織田信秀との戦いを展開。
のちに北条氏康と同盟を結び、松平広忠を傘下に据えて三河の領国化を進める。
内政面では今川仮名目録追加を制定し領国で検地を実施、外交面では武田晴信と長尾景虎との争いを仲裁している。
徳川家康を人質に取り手元に置いて重用、織田信秀の介入を防ぎつつ逆に尾張に介入するなど
軍事行動を有利に進めていたが、1560年に桶狭間山にて織田信長の攻撃を受け、落命。
**武田晴信(信玄)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|93|40|95|83|95|鬼謀・機略|A|B|S|S|C|B|1521|1573|冷静|威厳|
【タケダハルノブ(シンゲン)】
戦国時代の大名。日本の戦国七雄の1人に数えられる。
武田信虎の嫡男として生誕するが、父を追放して甲斐を統一。
その後は権謀術数を巧みに操り、信濃駿河などを席巻。
一方で上杉謙信や北条氏康としのぎを削り領土を拡張した。
大軍を率いて三方ヶ原で徳川家康を蹂躙したが、その直後に病死。
生来病弱であったと伝わっている。
**上杉輝虎(謙信)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|87|98|75|70|92|神将・猛者|S|A|B|S|C|C|1530|1578|剛胆|威厳|
【ウエスギテルトラ(ケンシン)】
戦国時代の大名。日本の戦国七雄の1人に数えられる。
長尾為景の四男として生誕。兄の後を受けて長尾家の当主になる。
その後関東管領である上杉憲政を迎え入れ、その養子として上杉家も継承した。
武田信玄や北条氏康らと度々争い、領土を拡張。
北陸地方でも戦線を伸ばす織田軍の伸長を食い止め有利な展開を進めた。
関東制圧に向かう直前に病死。実子はおらず、死後養子たちの当主を巡った争いが発生した。
**北条氏康
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|80|83|92|98|96|富豪・米道|S|C|B|A|C|B|1515|1571|冷静|威厳|
【ホウジョウウジヤス】
戦国時代の大名。北条氏綱の嫡男。
古河公方を擁しながら父親同様関東での拡大路線を継承。
里見、今川、武田、上杉と時に結び時に対立しながら領土を拡大する。
子供を養子に送って手堅い領国戦略を築きながら、
内政では領民の声をよく聞き、村々に至るまで徹底した政治体制を敷いた。
北条氏の滅亡後、その緻密な政治体制は徳川家康が参考にしたと伝わっている。
**毛利元就
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|94|62|99|93|96|虚実・百出|B|B|S|C|C|A|1497|1571|冷静|威厳|
【モウリモトナリ】
戦国時代の大名。日本の戦国七雄の一人に数えられる。
元は安芸を支配する弱小豪族にすぎなかったが、巧みな権謀術数と露骨な外交戦略の限りを尽くし、
大敵を平らげながら一代で中国地方を代表する大大名へとのし上がった。
大内、尼子といった戦国中期を代表する覇者たちに囲まれながらも、生涯戦績は戦国武将の中で
群を抜いて高く、その優れた知略、軍事手腕は後世に「謀神」「戦国最高の知将」の異名で評される。
三本の矢、百万一心の逸話で知られる名君であり、後世に長州藩の開祖として奉られた。
**山県昌景
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|74|95|65|78|89|騎神・猛者|A|A|C|S|C|C|1529|1575|剛胆|威厳|
【ヤマガタマサカゲ】
武田家臣。武田信玄、勝頼に仕える。
兄(叔父とも)の飯富虎昌とともに信玄を盛り立て、数々の合戦に参加。
信玄晩年には家中有数の重臣として重用され、文武にわたって武田の躍進に貢献。
信玄の死後も勝頼を補佐するが、長篠合戦で徳川隊の銃撃を受け、戦死。
その豪勇は「源四郎の赴くところ敵なし」と言われ、川中島では上杉軍に感嘆され
三方ヶ原では家康を敗走させ、美濃明知城戦では小勢で倍以上の織田軍に不利を悟らせ戦わずして撤退させた。
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