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「みんなの新武将/西晋・東晋/東晋」(2022/04/25 (月) 01:54:43) の最新版変更点
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#CONTENTS
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*注意点
基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。}
当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。}
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。
&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。}
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
*西晋(265~316)
「[[西晋>みんなの新武将/西晋・東晋]]」を参照
*東晋(317~420)
安東将軍として[[建業]]に進出した司馬睿が、[[洛陽]]陥落後に南遷貴族や江南土豪の支持を得て樹立。
王導の尽力で江南勢族と北来貴族の支持を集め、陽羨周氏を制圧して北主南従の体制を確立したが、
江南に基盤を持たない司馬氏の指導力は脆弱で、貴族層による共和体制が行なわれた。
347年に成漢を滅ぼして蜀を併合し、383年には淝水の役で前秦を大破して南北朝の大勢を確立したものの、
地方に対する統制力に欠け、揚州の北府軍と荊州の西府軍の伝統的な対立に加え、
王敦の乱、孫恩の乱、桓温・桓玄父子の専横と簒奪などが続いて、安定性に欠けた。
国内では琅邪王氏・陳郡袁氏・陽夏謝氏ら門地二品を頂点とする貴族制が確立され、江南開発の進展に伴い
大土地所有・荘園経営が発達した。貴族文化も開花して、詩の陶淵明、画の顧愷之、書の王羲之など中国屈指の文化人を輩出した。
桓玄平定の後は北府軍を掌握した軍人の劉裕が急速に抬頭し、南燕・後秦の征服による洛陽回復などの声望を背景に、420年に簒奪が行なわれた。
**司馬睿(景文)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|57|32|68|79|86||B|B|B|C|B|B|276|322|
【シバエイ(ケイブン)】
東晋の初代元帝。[[司馬懿]]の曾孫。
15歳で父の爵位を継ぎ琅邪王となった。
八王の乱が起きると参謀・王導の進言で混乱する洛陽を離れて山東の封国に赴いた。
永嘉の乱が本格化すると建康に下り、北来貴族と在地豪族を糾合して力を蓄えた。
劉曜によって長安が陥落し、捕虜となった愍帝崩御の報が届くと皇帝に即位して晋朝を再興した。
王氏の権勢が強まったため、側近の劉隗と刁協を重用して牽制を図るが、
王敦の叛乱を招き、首都・建康を失陥して謝罪。憂憤のうちに病死した。
**司馬紹(道畿)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|83|76|80|85|61|明鏡|A|B|A|B|B|B|299|325|
【シバショウ(ドウキ)】
東晋の二代明帝。司馬睿の長子。
幼少の頃から頭脳明晰であり、父に寵愛され世子となった。
その後、皇太子となり、王敦が反乱を起こした際には
自ら鎮圧に向かおうとするが、側近に諌められる。
皇帝に即位した後は、王敦らの反乱を鎮圧して体制構築に奔走。
宰相王導を重用して東晋の基盤を築くが、在位わずか3年、27歳にて早逝した。
**司馬承(敬才)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|71|59|76|74|73|看破|B|C|A|B|A|A|264年|322年(不自然死)|
【シバショウ(ケイサイ)】
西晋・東晋の皇族。司馬懿の弟・司馬進の孫。
篤実・品行方正で知られ、西晋の時代には広威将軍・安夷護軍として雍州安定郡に駐屯し、
その後は洛陽に戻って311年に洛陽が陥落した際には脱出に成功して荊州の山簡を頼り、
山簡の死後は司馬睿に帰順して軍諮祭酒となり、長安の愍帝から帰還を求められたが、
従わなかった。
司馬睿の即位によって左軍将軍・散騎常侍となって有力な藩屏として重んぜられ、
次いで湘州刺史となるが、王敦の反乱によって王敦に加担した武将らによって城を
包囲され、抵抗の末に捕らえられて殺害された。
**薛兼(令長)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|父|
|39|36|72|83|75|指導|C|C|B|C|B|B|?|322年(自然死)|[[薛瑩]]|
【セツケン(レイチョウ)】
西晋・東晋の政治家。呉の[[薛綜]]の孫で[[薛瑩]]の子。
呉の滅亡後に西晋に仕えて散騎常侍となり、同じ呉の出身である紀瞻・閔鴻・顧栄・賀循
らと共に「五俊」と称された。
その後も西晋にて比陽国相・太子洗馬・懐県令を歴任して功績を挙げ、東海王司馬越に仕えた後は
司馬睿に仕えて東晋の成立により太子少傅・尚書として皇太子司馬紹(後の明帝)の指導に当たった。
祖父の薛綜に父の薛瑩も皇太子の教育係であった為、三代続いて皇太子の指導に当たる事となった。
**賀循(彦先)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|53|45|76|84|83||C|B|B|C|B|A|260年|319年(自然死)|
【ガジュン(ゲンセン)】
西晋・東晋の政治家・学者。[[賀斉]]の曾孫で賀邵の子。
父が[[孫皓]]によって処刑された際に臨川郡に流されたが、呉滅亡により赦された。
礼儀正しく学問を好み、三礼に通じていた。
西晋の会稽内史に務めていた際は西興運河を開墾し、会稽郡から銭塘江までの運河を
開通させ、後に中央に栄転したが司馬倫の帝位簒奪で官を辞した。
張昌の乱の討伐には参加したが、陳敏の乱の際には江東の諸豪族が陳敏に従う中で頑なに仕官せず、
その後しばらくして東晋の司馬睿に仕えて宗廟の祭祀に関する決まりの制定等、東晋の学者の中心
として活躍した。
**紀瞻(思遠)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|81|67|86|74|78|論客|B|A|A|C|A|S|253年|324年(自然死)|
【キセン(シエン)】
西晋・東晋の武将・政治家。呉の紀陟の子。
幼い頃から読書に親しみ、また詩や音楽等多彩な芸にも親しんだ。
陸機とは親しくしばしば議論を行い、陸機が死亡した際は残された娘の
為に結婚の世話をして仕送りも送った。
当初は西晋に仕えて陳敏の討伐に活躍、その後は司馬睿に仕えて京口の
守備軍を率いて石勒の進行を防いだ。
司馬睿の即位後は侍中を経て尚書となり、その後は高齢と病の為に引退を
願い出たが、司馬睿は才を惜しんで中々引退させなかった。
親愛武将:陸機、陸雲、顧榮、司馬睿
**王敦(処仲)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|85|74|78|18|29|怒髪|B|A|B|C|C|A|266|324|
【オウトン(ショチュウ)】
西晋の政治家。東晋建国の元勲。琅邪王氏の出身。王導の従兄。
八王の乱の中で恵帝が復位すると[[洛陽]]に駆けつけた。
揚州刺史に赴任すると、従弟の王導が司馬睿を擁して身を寄せている。
江南の軍権を司って各地の反乱を鎮圧させた。
東晋が建国されると大将軍となるが、軍権が削られようとしたため武昌で起兵する。
[[建康>建業]]に進軍し石頭城を陥落させたため、元帝は王敦の軍権を認めざるを得なくなった。
しかし、丞相を自任し専横を極め、明帝の代に討伐の勅命が出され親征軍に敗れた。
病没後に、墓を暴かれ屍を晒されている。
**王導(茂弘)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|75|40|86|94|95|能吏|B|B|A|C|S|A|276|339|
【オウドウ(モコウ)】
両晋の政治家。魏の[[王祥]]の末裔で琅邪王氏の出。
西晋時代、琅邪王司馬睿に晋滅亡を予測し、[[建康>建業]]へ移るよう進言した。
五胡の乱の際、劉淵の漢軍に晋の都[[洛陽]]は陥落し、皇族は半ば全滅したが、
唯一江南に逃れ無事だった司馬睿の後見となり、東晋を成立させる。
宰相として多くの人材を推薦し政権基盤を安定させ、従兄の王敦に長江中流を制圧させた。
後に王敦は造反するが、自身は失脚せず執政を続け、成帝の代には司徒として大権を担った。
東晋の簡文帝は、桓温に対し、[[諸葛亮]]と並び皇帝を輔弼した忠臣の例に挙げたという。
**周訪(士達)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|89|88|79|55|78|急襲|S|A|A|C|B|S|260|320|
【シュウホウ(シタツ)】
東晋の武将。
若い時から沈着剛毅で、陶侃と親交を持った。
司馬睿の元で揚烈将軍となる。
華軼の討伐では馮逸を破り、華軼の水軍も破って江州(九江)を東晋の版図に加えた。
杜弢の反乱では王敦の麾下で水軍を率いて戦い、流れ矢で前歯を折りながら勇戦した。
杜曾征伐を命じられると、杜曾の勇猛から正攻法を避け800の精鋭を率いての奇襲を仕掛けて鎮圧した。
王敦が荊州刺史を自任したことに怒り、[[襄陽]]で練兵を行い北伐を企図しながら王敦に対する抑えとなる。
しかし周訪、祖逖と軍の重鎮が相次いで没したため、王敦の専横が始まった。
**祖逖(士稚)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|95|66|88|63|85|心攻|S|A|S|B|A|A|266|321|
【ソテキ(シチ)】
東晋の将。
[[司馬炎]]の死後、八王の乱に際し長江の南に避難し、司馬睿が推戴されると東晋に仕えた。
以後は積極的に北伐を主張するが東晋に承認されなかったため、
約2千名の義勇軍だけで北伐して次々と勝利を収め、黄河以南を全て東晋へ奪回し、
後趙の石勒にも連戦連勝するが、名声を憂えた元帝に戴淵と代えられた。
後、東晋の朝廷では政争が起こり、国難の中、中原の回復を憂えて病没した。
長江を渡る際、「北方を回復しない限りは生きてこの河を渡らず」と誓った事で知られ、
南宋の文天祥の『正気の歌』でも詠われた。
**郭璞(景純)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|10|8|80|57|69|風水|C|C|C|C|C|C|276|324|
【カクハク(ケイジュン)】
東晋の占師、文学者。
博学で巫術・天文・陰陽に通じ、古の京房や管輅も郭璞には及ばないとされた。
河東が異民族よって荒廃するという占いにより、江南に避難した。
王導に招かれ、的確な助言を行ったために重用される。
晋王司馬睿に対して銅鐸の発掘と湧水を宣託し、これを晋再興の瑞兆とした司馬睿は帝位に就いた。
王敦が謀反を起こした際に「成無(成功しない)」と占ったため、怒った王敦により処刑された。
文学者としては「江賦」を詠み、「山海経」「爾雅」に注釈を施している。
後代には風水思想の発案者として仮託されている。
**荀崧(景猷)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|79|60|78|80|72|鉄壁|C|B|A|C|A|B|263|329|
【ジュンスウ(ケイユウ)】
西晋・東晋の武将、政治家。[[荀彧]]の玄孫。
志は清純で文学を好み、王敦や陸機らと交友を持ち、司馬倫に仕えた。
永嘉の乱で[[洛陽]]が陥落すると、母の屍を守って逃げるが賊に襲われて負傷し気絶した。
母を弔い喪があけると襄城太守となり、後に荊州の都督となる。
杜曾の乱で[[宛]]が包囲されると、娘の荀灌を遣わして援軍を求め、兵も兵糧も少ない中で宛を守り抜いた。
東晋が成立すると尚書僕射となり、刁協とともに中興儀礼を定めた。
蘇峻の乱では、王導とともに幼い成帝を護って幽閉先の石頭城に付き従う。
乱の平定後に病が篤くなり、没した。
生前の官位は金紫光録大夫のち右光録大夫。
**荀灌
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|父親|性格|口調|
|78|52|75|70|85|血路|A|B|B|C|B|B|303|?|荀崧|冷静|威厳|
【ジュンカン】
荀崧の娘で末子。荀彧の六世孫。
荀崧が平南将軍として[[宛]]に鎮守していた際に、杜曾の乱によって城を包囲された。
13歳だった荀灌が襄城太守の石覧のもとへ救援を求め、数十名の兵を率いて城を脱出する。
賊の追撃を受けるが兵士を励まして戦って進み、無事に石覧のもとに辿り着いた。
独断で更に周訪にも救援を求め、三千の援軍により宛が救われた。
その後の事績は不明。
※荀灌が援軍を求めたのは晋書荀崧伝では平南将軍で宛に鎮守し、襄城太守を石覧が務めている時。
しかし、晋書列女伝では荀崧が襄城太守で、石覧が平南将軍と真逆になっている。
**庾亮(元規)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|60|51|76|92|70|規律|B|C|B|C|C|B|289|340|
【ユリョウ(ゲンキ)】
東晋の政治家。東晋の宗室の外戚。
容姿が美しく、風格を備え、善談と老子・荘子を好んだ。
明帝に王導と共に後事を託され、中書令となって法治主義に基づいて政治を行った。
王導を凌いで権勢を誇ったが、厳格に過ぎたため陶侃ら諸将からは反感を買っている。
蘇峻の乱で成帝とともに捕えられるが、幽閉先から脱出し陶侃に援助を求める。
陶侃と協力して蘇峻の乱を平定すると、自らは責任をとって中央から退き蕪湖に駐屯した。
北伐を企図するも、邾城を失陥したため計画のみに終わる。
王導死後に中央への召還を固辞して死去した。
※「庾」では認識されないので、代わりに「臾」などを用いる。(PC版)
**陶侃(士行)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|87|80|79|85|84|威圧|S|A|A|B|B|S|259|334|
【トウカン(シコウ)】
西晋・東晋の武将。呉の出身。
劉弘の配下として厚く信頼され、[[襄陽]]での張昌の乱を平定し、武昌を攻めた陳敏を破った。
永嘉の乱で天下が乱れる中、頻発する反乱の鎮圧に奔走する。
東晋の代になると王敦に推挙され荊州刺史となるも、荊州平定の功績を王敦に疎まれ広州刺史に左遷される。
以後も広州や交州を鎮めて統治し、王敦が乱を起こして失脚すると荊州刺史に復帰しかつての領民から喜ばれた。
蘇峻が首都の[[建康>建業]]を陥落させ成帝を捕えた際には、義軍の盟主として蘇峻を攻め敗死させている。
**郗鑒(道徽)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|84|73|76|69|85|名声|B|S|A|C|B|A|269|339|
【チカン(ドウキ)】
西晋、東晋の政治家。
最初は趙王・司馬倫に仕えたが、簒奪の野望を察して職を去った。
永嘉の乱で中原が乱れると故郷に帰り、戦災に苦しむ人々に施しを与えた。
郷里の人々から盟主に推されて千家余りを率いて魯の嶧山に避難した。
司馬睿に帰順すると石勒の軍が攻め寄せ、孤立無援で飢餓も起きたが、
味方から内通者は現れず、逆に数万の避難民が新たに帰順してきた。
王敦と蘇峻が立て続けに叛乱を起こし首都・建康を陥れると、
鎮圧に中心的役割を果たして司空に昇進。のちに大尉に進み71歳で病死した。
※「郗」は認識されないので、代わりに「希」などを用いる。(PC版)
**諸葛恢(道明)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親|
|63|53|72|84|81|仁政|B|C|A|C|C|B|284|345|[[諸葛靚]]|
【ショカツカイ(ドウメイ)】
東晋の政治家。[[諸葛誕]]の孫、諸葛靚の子。
山東で官吏を務めていたが、八王の乱等で西晋が混乱すると江東に逃れる。
王導・庾亮らに次ぐ名声があり、王導から黒髪の若いうちに高位を得ると予見された。
琅邪王司馬睿(後の東晋の開祖元帝)の主簿として事務を取り仕切る。
西晋の愍帝が[[長安]]へ召喚したが、司馬睿は拒否し[[会稽]]太守に任じた。
会稽で善政を敷き、元帝からその政治手腕を「政清人和」と表彰された。
王敦の乱では王含を討つ功績を上げ、後将軍となる。
その後も、吏部尚書、散騎常侍、尚書令などの要職を歴任した。
**王羲之(逸少)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|25|24|58|66|86|風水|C|C|C|C|C|B|303|361|
【オウギシ(イツショウ)】
東晋の政治家・書家。右軍将軍。書聖と称された史上最高の書家。
琅邪王氏の出で、王導や王敦らから将来を嘱望されていた。
[[会稽]]に赴任後、山水に恵まれた土地柄に惹かれ清談の風に染まったが、
飢饉に際し、中央への租税の減免を要請するなど統治にも力を注いだ。
後、病気を理由に官を辞して隠遁し、会稽の地で、悠々自適の生活を過ごし、
各地を巡って古書を見、寝食を忘れて仙道に精進し、楷書・行書・草書の各書体に一家をなした。
「書道の革命家」「書道の最高峰」と評され、書道を一個の芸術として確立した人物。
**姚襄(景国)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|78|90|67|51|85|血路|A|A|C|S|C|C|331|357|
【ヨウジョウ(ケイコク)】
東晋の武将。離反後は独立勢力を率いた。後秦の姚萇の兄。
腕の長さが膝下まで届くほどあり、武芸多才で雄武を賞賛されていた。
父の姚弋仲が東晋に通じており、その没後に前秦を南下し、
前秦軍と一進一退を繰り広げながら東晋領の[[寿春]]に辿り着く。
北伐に消極的な中でも屯田と練兵を続けるが、殷浩に疎まれ幾度も刺客を放たれる。
殷浩の北伐の際に東晋から離脱し、東晋軍を撃ち破って[[許昌]]で独立する。
桓温の討伐を受け大敗するが、敗残兵や民衆は姚襄を慕い付き従った。
その後、故郷を目指し関中に侵攻するも、前秦の鄧羌に敗れ戦死した。
**沈勁(世堅)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|80|76|54|13|58|不屈|B|S|A|C|C|C|?|365|
【シンケイ(セイケン)】
東晋の武将。
父・沈充が王敦の腹心で叛乱に関与したことから、父の汚名を雪ぐことを志した。
王胡之の推挙で仕官が許され、 前燕の南下に際して洛陽を守備。
2千未満の兵力ながら壮士を募って何度も前燕軍を撃退した。
兵糧が尽きても尚も僅かな兵力で留まるが、衆寡敵せずまもなく捕虜となった。
慕容恪から仕官の誘いを受けるが、慕容虔が後の患いとなるから殺すよう進言したため処刑された。
慕容恪は自国へ帰還後にその才を惜しみ「沈勁を殺した事を天下に恥じる」と述べた。
**桓温(元子)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|91|75|82|81|85||S|B|A|A|A|A|312|373|
【カンオン(ゲンシ)】
東晋の将。
父の仇を弔問と偽って江家に乗り込み、その息子3人を殺して仇を討ったという。
荊州刺史に起用され、四川の成漢を滅ぼし声望を高め、北伐では西晋の旧都[[洛陽]]を奪還した。
前燕が勢力を拡大し洛陽が奪われると三度目の北伐を行うが、前燕の慕容垂の軍に大敗する。
司馬昱(簡文帝)を擁立するも、簡文帝は翌年に病死する。
簡文帝は臨終に際し桓温に禅譲しようとも考えるが、謝安らの反対で取りやめ、
桓温に対し「[[諸葛亮]]や王導のように」と遺詔した。
桓温はなおも禅譲を目指すが、謝安らの反対により失敗して死去した。
特技候補
踏破:益州を制圧した観点から
威風:北伐で前燕、前涼などの周辺王朝を震撼させた観点から
駆逐:益州と洛陽から異民族を駆逐し晋の旧領を回復した観点から
徴税:大規模な土断法を実施して東晋財政に寄与した観点から
**郗超(景興)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|32|18|87|64|46|妙計|B|C|B|C|B|B|336|377|
【チチョウ(ケイコウ)】
東晋の政治家。大尉・郗鑒の孫。
桓温と深く親交を結び、その幕僚として補佐した。
父の手紙を改竄して桓温が北府の実権を握れるよう策謀したり、
廃帝を廃して簡文帝を擁立するよう薦めるなど、桓温の東晋内外における勢力拡大に貢献。
枋頭の戦いでは、補給の難しさから速攻で[[鄴]]を目指し兵糧は現地調達するか、
もしくは来年の夏を待って兵糧を十分に貯めてから攻め入るよう進言したが容れられず、結果桓温は慕容垂に大敗した。
桓温に重用されていたため、朝廷における権勢は一時王坦之、謝安ら門閥出身者を凌いだという。
※「郗」は認識されないので、代わりに「希」などを用いる。(PC版)
**習鑿歯(彦威)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|13|5|73|64|76|なし|C|C|C|C|C|C|?|383|
【シュウサクシ(ゲンイ)】
東晋の政治家。
博学にして文筆の才能で誉れ高く、桓温にも高く評価された。
長らく桓温の下で属僚を務めたが、簒奪を狙う桓温の前で簡文帝を褒めた事で左遷された。
桓温の野望を阻止するために『漢晋春秋』を著して蜀漢正統論を主張した。
襄陽が前秦の版図となると道安と共に苻堅に召されて厚遇されたが、病で帰郷した。
まもなく襄陽が東晋に戻ると朝廷から典国史に任命されたが、職に就く前に病死。
臨終間際にあってなお自身の蜀漢正統論に向けられた異議への反駁を上疏した。
**桓石虔
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|74|95|65|39|63|威風|S|B|B|S|B|A|?|388|
【カンセキケン】
東晋の武将。桓豁の子。桓温の甥。幼名は鎮悪。
勇猛果敢で抜群の素早さ、身のこなしを誇り、格闘戦で猛獣すら手玉にとるほどであった。
桓温の北伐に従軍し、関中で叔父の桓沖が前秦軍に囲まれ窮地に陥ったときには、
単騎で数万の包囲を突破して無事に桓沖を救出した。
この芸当に敵軍は震撼し、「桓石虔が来るぞ」と言えば敵国の数多くの病人が恐怖から病が癒えたという。
その後は、[[寿春]]の叛乱征討で功績を上げ、益州が前秦に征服されると巴東を回復した。
淝水の戦いに際しては、前秦軍に対する牽制として樊城を掠している。
**謝安(安石)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|44|17|85|89|93|沈着|C|C|B|B|B|B|320|385|
【シャアン(アンセキ)】
東晋の宰相。
将来を嘱望されたが、若い頃は出仕せず王羲之と交流を深め、清談に耽った。
41歳で初めて仕官し、桓温の司馬となり、簒奪の野望を見せる桓温に対して強硬に反対し、
結果桓温の寿命が先に尽き、東晋は命脈を保つことになる。
華北を統一した前秦の苻堅が中国の統一を目指し50万の大軍で南征すると、
征討大都督に任ぜられ、弟の謝石・甥の謝玄らに軍を預けてこれを大破した。
この功績で太保となり北伐を計画するが、皇族の権力者司馬道子に止められる。
司馬道子らに警戒されて左遷され、広陵歩丘で病没した。
※沈着は、桓温が自身への禅譲に反対する謝安、王坦之を殺害しようと2人を呼んだ際に、
同僚の王坦之が冷や汗をかいて衣服をびっしょり濡らす一方、謝安は泰然自若として桓温に対したエピソードから。
**謝玄(幼度)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|85|75|14|56|水将|B|A|A|B|B|S|343|388|
【シャゲン(ヨウド)】
東晋の将。謝安の甥。
孝武帝の時代、前秦の苻堅が南下して国境を脅かしていた。
謝玄は、叔父・謝安から江北諸軍事・兗州刺史を委任され広陵から出陣、
淮水の南で前秦の軍を破る功績を挙げた。
さらに苻堅は、弟の苻融・苻方・梁成・慕容暐・慕容垂らを先鋒とし、
自ら大軍を率いて再び南下する。
謝玄は北方からの避難民を再編して「北府軍」と称し、
率いて洛澗を攻撃し、前秦軍の先鋒・梁成を討った。
続いて淝水に進み、前秦軍を撃破、苻融を戦死させる大勝利を得た。
**謝石(石奴)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|80|75|68|72|47|強襲|B|A|A|C|A|S|327|389|
【シャセキ(セキド)】
東晋の武将、政治家。謝安の弟。
前秦の淮南侵攻では水軍を率い、謝玄らの勝利に貢献した。
苻堅の大群が南進すると征虜将軍仮節・征討大都督となり、
謝琰・謝玄・桓伊らを率いて抗戦する。
朱序が投降勧告の使者として赴くと、前秦軍の先鋒を撃って士気を奪うという朱序の作戦を容れる。
苻堅を挑発して淝水を渡河すると見せて前秦軍の先鋒を後退させると、
その勢いに乗じて前秦軍を攻め、大破した。
中軍将軍・尚書令となると、学校を復興して教育に力を注いだ。
軍功や治績を上げる反面、強欲で豪奢だったため評判は良くなかった。
**朱序(次倫)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|89|78|87|60|77|機略|S|B|A|C|B|S|?|393|
【シュジョ(ジリン)】
東晋、前秦の武将。
司馬勲の反乱を鎮圧し、司馬勲を捕縛した。
桓温の北伐に従い、前燕の傅顔を撃破する功績を上げる。
苻堅の南進により[[襄陽]]を包囲され1年に渡って防衛するが、
配下の李伯護が内応して開城したため前秦に捕えられる。
苻堅は朱序を厚遇したが靡かず、淝水の戦いでは東晋の謝石に内応し、
前秦軍の中で「秦軍敗れる!」と叫び回って混乱させ、東晋軍に勝利をもたらした。
東晋復帰後は[[洛陽]]を守備し、西燕の慕容永の侵攻を迎撃して敗走させ上党まで追撃した。
さらに、その隙に洛陽を攻めた後燕の翟遼も反転して撃ち破った。
**劉牢之(道堅)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|83|90|37|10|57|威風|S|A|A|B|B|S|?|402|
【リュウロウシ(ドウケン)】
東晋の武将。
驍勇を以て謝玄の募兵に応じ、精鋭を率いて先鋒を務め、百戦百勝の盛名を誇った。
淝水の戦いでは前秦の将・梁成を斬るなど功績を上げた。
華北の混乱に乗じて北伐し、[[鄴]]まで到るが後燕の慕容垂に敗れ退く。
王恭の参軍を務めるが、王恭が叛乱を起こすと司馬元顕の調略で寝返り王恭を斬殺した。
孫恩の乱を配下の劉裕(後の宋の武帝)の活躍もあって鎮圧。
桓玄が司馬元顕に叛旗を翻すと、劉裕ら部下の反対を押し切って桓玄へ寝返った。
その後、桓玄に対して叛乱を図り、3度の裏切りに劉裕らに見限られ、逃亡し自縊した。
※威風は、399年の孫恩の乱を討伐する際にその名前を聞いただけで反乱軍が潰走したエピソードから
**桓玄(敬道)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|71|69|79|60|24|捕縛|A|B|B|C|A|A|369|404|
【カンゲン(ケイドウ)】
東晋の武将、政治家。桓楚の皇帝。桓温の子。
桓温の簒奪の野心ゆえに警戒され重用されず、棄官して隠遁する。
司馬道子の政治に対する反乱の気が起こったため、
朝廷は広州刺史に任じて厚遇しようとするが、任地に赴かず王恭の反乱に呼応した。
反乱は失敗したが兵を退いたことを評価され、江州([[九江>九江港]])刺史に任じられた。
孫恩の乱に乗じて荊州([[江陵]])・雍州([[襄陽]])を奪い取り勢力を拡大。
[[建康>建業]]に侵攻して司馬道子を排し、東晋の実権を握る。
帝位を簒奪し楚(桓楚)を建国したが、劉裕(後の劉宋の武帝)に敗死し、約半年で滅亡した。
**顧愷之(長康)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|14|11|79|25|80|強運|C|C|C|C|C|C|344?|405?|
【コガイシ(チョウコウ)】
東晋の画家。中国絵画史上おいて重要な人物であり「画聖」と呼ばれる。
肖像画を得意としており、同時代の謝安は「顧愷之の絵は、人類史上始まって以来のものだ」と絶賛された。
若くして桓温の幕僚となり、画才・文才を高く評価された。
その一方で熱中癖がある変人でもあり、
「才絶(文才の極み)」「画絶(画才の極み)」「痴絶(阿呆の極み)」の三絶を備えていると言われていた。
桓温の死後は、謝安や桓玄らの有力者の庇護を受けながら渡り歩き、最後には東晋を滅ぼす劉裕に接近して官職を得た。
残念ながら現在では顧愷之が描いた絵は散逸して残ってはいないが、模写された作品ならいくつか残っている。
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*注意点
&color(Red){協議の結果、みんなの新武将の項目は別サイトに移転しています。}
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