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「みんなの新武将/春秋時代」(2022/04/25 (月) 01:58:19) の最新版変更点
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#CONTENTS
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*注意点
基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。}
当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。}
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。
&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。}
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
*春秋時代(B.C.770~B.C.403)
犬戎に敗死した幽王の廃太子・宜臼が、諸侯に擁立されて[[洛邑>洛陽]]に再興した王朝が東周である。
桓王が率いた連合軍が繻葛の役で一諸侯である鄭に惨敗し、周王の威信は大きく損なわれ、
自立化に進む諸侯を統制する実力に欠けたが、統一と権威の象徴として周室は存続した。
斉の桓公が[[管仲>管夷吾]]の補佐を受け覇者となってからは、有力諸侯が諸侯を盟下にする覇者の時代となる。
春秋五覇は斉桓、晋文以外は異説があり定まっていない。
この時代の超大国は山西の晋と湖北の楚であり、他に有力な国は山東の斉と陝西の秦で、
他の諸侯は晋・楚いずれかの盟下に入り、晋と楚が諸侯の所属をめぐり覇を争った。
B.C.546年に晋と楚の和睦がなると、晋では有力家臣の六卿が内部抗争を始め、楚は呉の台頭に遭い滅亡寸前に追い込まれる。
韓・魏・趙による三晋分裂により続く戦国時代と分けられるが、どの年をもって区分とするかには諸説ある。
春秋時代の名称の典拠は、[[孔子>孔丘]]が著した史書の『春秋』である。
**顔回(子淵)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|28|15|86|89|82|仁政|C|C|C|C|B|C|B.C.514|B.C.483|
【ガンカイ(シエン)】
春秋時代の儒者。顔淵。魯の人。
[[孔子>孔丘]]の最高弟子である孔門十哲の一人で、孔子や兄弟弟子も認める随一の秀才。
顏回は名誉栄達を求めず、孔子の教えを理解し実践することを求め、生活は極めて質素であったという。
このことから老荘思想発生の一源流とみなす説もある。
学派の後継者と看做されていたため、その将来を嘱望されるも夭折した時には孔子の落胆は激しく、
「ああ、天我を亡ぼせり」と慨嘆したことは有名である。
今なお、彼の名は「最高の弟子」の比喩として用いられる。
なお末裔には[[顔良]]、顔之推、顔真卿などが居る。
**養由基
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|87|98|75|60|85|弓神|A|S|S|A|C|C|?|?|
【ヨウユウキ】
春秋時代の楚の将。
春秋五覇の楚の荘王に仕え、勇将・屈蕩と共に車右として用いられた。
荘王の快進撃に尽力し、覇者の座を晋から奪った邲の戦い等で活躍した。
荘王の没後、後継の共王の家臣として仕え、晋の厲公の復讐戦の鄢陵の戦いに従軍したが、
不興を買ったため、晋軍の策もあり、楚軍は惨敗を喫した。
それに乗じた呉の攻勢を、伏兵を用いて庸浦で打ち破り、呉の公子党を捕虜とした。
後、養由基は宮廐尹に任じられ、歴史の表舞台から去った。
その入神の弓術は故事成語「百発百中」「猿号擁柱」の語源となった。
**曹沫
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|78|89|66|53|71|槍将|S|A|B|A|B|B|?|?|
【ソウカイ/ソウバツ】
春秋時代の魯の将軍・刺客。
魯の荘公の命で、曹沫は将軍として斉軍と長勺の地で戦い、
斉軍が三度太鼓を打った後に進撃し、敵の轍の跡を調べてから追撃して完勝した。
質問されると、曹沫は敵の勇気の不足と、轍の乱れから伏兵の無いことを見破ったことを答えた。
後に[[管仲>管夷吾]]に破れ、斉と講和を行う際、曹沫は匕首をとり斉の桓公を壇上で脅迫して魯領の返還を迫った。
桓公が承諾すると曹沫は匕首を捨て、北面して臣下の席についた。
貴重な生還した刺客であるが、このために却って桓公の声望を高めてしまった。
**姫重耳
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|85|86|93|96|威風|S|A|A|B|C|C|B.C.697|B.C.628|
【キチョウジ】
春秋時代の晋の君主。春秋五覇の一人、晋の文公。
献公の子で、東方の要衝蒲城を守備していたが、献公の寵姫驪姫の策動で軍を向けられると、
無抵抗で亡命生活に入る。
諸国放浪後、秦の穆公の支援で帰国して即位。
秦の武力で反対派を一掃した後は富国強兵に腐心し、周王室の内紛を鎮めて鄭から襄王を還し、
曹・衛を撃って宋を救い、北上した楚軍を城濮で大破して方伯とされた。
冬には践土に襄王を招いて諸国と会盟。斉の桓公と並んで春秋五覇の筆頭とされる。
その波乱万丈の流浪譚は広く知られ、多くの逸話が残されている。
//姓と氏は姫姓晋氏。
**熊侶
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|97|68|85|92|94|洞察or眼力|S|A|A|B|B|A|?|B.C.591|
【ユウリョ】
春秋時代の楚の王。荘王。穆王の子。名は呂、旅とも伝わる。
太子時代は賢明で期待されたが、即位後すぐに反乱に遭う。
乱平定後、父王の喪中の3年間には政治を投げ出し遊蕩に浸り、鳴かず飛ばずの語源となったが、
喪が明けるや否や、王と共に遊興に耽った者や奸臣達数百人を車裂刑で誅殺すると、
人事を一新して国力を充実させ周辺諸国を併合・圧迫した。
[[洛陽]]近郊まで軍を進め、周の九鼎の軽重を問い、周王の位を奪う構えを見せた。
さらに晋軍を大破し、宋を降伏させ、諸侯の殆どを威令の下に置いた。
尊王の志はなかったが、その権威は天下を覆い、春秋五覇の一人に数えられることがある。
**士会(季)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|92|87|93|96|92|名声|S|A|A|A|B|B|?|?|
【シカイ】
春秋時代の晋の政治家。范武子。士缺の子。
武勇に優れ、文公の車右に任じられる。
襄公の後継問題で宰相・趙盾の背信に怒って秦に亡命すると、秦軍を指導して晋を苦しめた。
郤缺の策略により晋へ連れ戻されると、卓越した軍事的手腕を晋でも発揮。
楚との会戦で晋軍は大敗したが、士会の指揮する上軍のみは損害を出すことなく退却に成功する。
宰相となって制定した「范武子の法」は、晋で長く尊重された。
春秋左氏伝は、「士会が宰相になると盗賊は晋から逃げ出した。晋の歴代の宰相の中でも最高である」と絶賛している。
**夏姫
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|22|7|58|24|9|傾国|C|C|C|C|C|C|?|?|
【カキ】
春秋時代の鄭の公女。
夏氏に嫁いだ姫姓の女なので夏姫という。
陳の大夫・夏御叔に嫁ぐが、夫の没後、陳の霊公らと密通を重ねる。
夏御叔の遺子の夏徴舒は、事実を知り叛乱を起こすが、
楚が陳の内乱に介入したため、徴舒は憤死。
楚の荘王や将軍の子反が夏姫を娶ろうとしたが、大夫の申公巫臣が忠告して止めた。
夏姫は連尹襄老に嫁ぎ、次いでその子・黒要と通じた。
後、巫臣は夏姫と策を巡らし、口実を作って二人とも晋に亡命し、
怨んだ子反は巫臣が楚に残した一族を族滅させた。
**国僑(子産)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|84|35|94|99|93|明鏡or仁政|B|B|B|C|C|C|B.C.585|B.C.522|
【コクキョウ】
春秋時代の鄭の政治家。穆公の孫。七穆の一。公孫僑。
早くから内外に期待され、宰相子皮の推挙で後任となった。
有力者の駟氏・良氏を懐柔する一方で土地・税制・軍制改革を実施し、
合理的な人事刷新・貴族特権の制限などを行うほか、
中国史上初の成文法を制定し、祭政一致から法治主義へ国制は改まった。
これは晋の賢臣叔嚮らに批判されたが、鄭の国力は内外で大いに高まった。
子産の施策は法術と徳治の中庸で、後世の法家とは一線を画しており、
[[孔子>孔丘]]は晩年の子産に私淑して当代最高の賢人として尊崇した。
//姓と氏は姫姓国氏。別氏で公孫。
**晏嬰(仲)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|86|44|98|100|97|深謀or能吏|B|B|B|B|A|C|?|B.C.500|
【アンエイ(チュウ)】
春秋時代の斉の政治家。晏子。
短躯だが忠勇に溢れ、清貧と常に社稷を重んじ中立を維持したため、斉の内紛を見事に乗り切る。
景公に信任されて宰相の地位に就き、司馬穰苴を推薦し、王の放縦を「牛頭馬肉」と諌めた。
暴君として知られる楚の霊王を論破し、同時代から聖人扱いされた。
その治績は[[管仲>管夷吾]]と並称されるが、[[孔子>孔丘]]の仕官を拒んだため、儒家から批判されることもある。
司馬遷は「晏子之御」と言うほど晏嬰を尊敬し、彼の策を称えた「梁甫吟」は、[[諸葛亮]]も愛唱した。
その思想書として『晏子春秋』がある。
**田穰苴
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|95|84|89|60|89|駆逐|S|A|A|S|B|B|?|?|
【デンジョウショ】
春秋時代の斉の将。田完の後裔。
大司馬に任ぜられたことから、司馬穰苴の名で知られる。
晏嬰によって推挙され、斉の軍を再編に取り掛かる。
出自の低さから寵臣の荘賈を後見役に望んだが、当の荘賈が軍規を乱したため処刑し、
「将、軍に在っては、君令も受けざる所有り」と、厳粛な軍規を示した。
兵と苦楽を共にし、斉の軍の強化に成功。晋・燕の軍を撃破し、失地を皆回復した。
自身は讒言で失脚したが、その末裔は後に斉を簒奪するに至るほど隆盛した。
兵法書『司馬法』の著者とされる。
**孫武(長卿)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|100|65|100|96|99|神算|S|S|S|S|S|S|B.C.535?|?|
【ソンブ(チョウケイ)】
春秋時代の斉の将。孫子。[[孫臏]]の先祖。
元は斉の貴族だったが江南へ亡命し、『孫子』を耽読した呉王・闔閭によって招かれた。
闔閭の側室で模擬部隊編成を行ったが、彼女たちが命令に従わなかったため、軍規に従って処刑した。
闔廬は甚だ不興であったが、以後孫武の軍事の才の確かなことを認め、正規の将軍に任じた。
その後、呉は楚・斉・晋を悉く威圧して諸侯の間に名を挙げたが、
それらの功績は孫武と伍子胥の働きによるものであった。
兵法書『孫子』の作者と伝えられ、[[曹操]]の注釈・再編版が伝わる。
**伍員(子胥)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|90|87|86|84|88|強行|S|S|A|A|B|A|?|B.C.484|
【ゴウン(シショ)】
春秋時代の呉の将。伍子胥。
楚の出身だが呉に亡命し、孫武と共に呉王闔閭を補佐し、呉を強国とした。
楚へ復仇の出兵をして勝利し、平王の亡骸を鞭打った。
これが「死屍に鞭つ」の語源になった。
その後、隣国の越との戦いで越王勾践の軍師范蠡との謀略戦に敗北し、
呉軍は大敗し、闔閭も死去。
後継者の夫差の復讐を助け、越軍に大勝したが、間もなく両者の関係は悪化した。
彼は呉の将来を案じるが、そのため却って夫差の不興を買い、賜死。
死して猶呉の敗亡を見届けようとした、激情の人であった。
**勾践
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|素質|
|92|65|78|83|77|能吏|B|C|A|B|B|S|?|B.C.465|早熟・長い|
【コウセン】
春秋時代後期の越の王。越王勾践。春秋五覇の一人。
呉と越は不倶戴天の敵で、呉王闔閭は越へ攻め入るが、范蠡の奇策に大敗、闔閭は戦傷死した。
子の夫差が即位し、この恨みを忘れぬよう薪の上で就寝し、
伍子胥の補佐で呉を再建、越を滅亡寸前まで追い詰めた。
勾践は范蠡の進言に従って呉との講和を行い、この屈辱を忘れぬよう、
部屋に苦い肝を吊るし、それ舐めて呉への復讐を誓った。
この話が「臥薪嘗胆」の典拠である。
越は国力を回復し、隙を見て呉に攻め込み、遂には呉を亡ぼした。
勾践は諸侯を会盟して覇者となったが、その途端に多くの臣下を殺害している。
**范蠡(少伯)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|81|33|98|92|95|百出or富豪|A|A|B|B|S|S|?|?|
【ハンレイ(ショウハク)】
春秋時代の越の謀臣。陶朱公。
越の重臣として内外で活躍し、檇李での大勝もその作戦指揮による。
呉王夫差への謀略では伯嚭を篭絡して伍子胥を死に追いやり、
美女西施を献上して呉に大事業を強いさせる等、呉を内部より弱体化させた。
平行して越の軍備強化に努め、呉の討滅に成功。
しかし、勾践の本性を危惧すると斉に亡命し、商業で巨富を得て宰相に迎えられたが、
再び家財を処分して西施と陶に移住し、朱公と称して再び巨万の富を築いたという。
陶朱公は牧畜で財を成した猗頓とともに、古代の大富豪の代名詞とされた。
**施夷光
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|22|2|79|27|99|傾国|C|C|C|C|C|C|?|?|
【シイコウ】
春秋時代の越の伝説的美女。西施。
越王勾践、呉王夫差の呉越の争いの際に、
越王勾践の参謀である范蠡の戦略に従い、呉王夫差の女となる。
その結果夫差は骨抜きになり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされた。
西施のその後については諸説あり、陶朱公の下へ嫁いだとも言われる。
「西施の顰に倣う」など、その美貌を語る逸話は数多い。
**予譲
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|66|81|85|62|84|不屈|S|A|S|B|C|C|?|B.C.453?|
【ヨジョウ】
春秋時代の晋の刺客。
范吉射・荀寅に仕えたが重用されず、 智伯荀瑶に仕え、智伯から国士と評価された。
智伯は韓氏・魏氏と連合し趙毋卹を狙うが、韓氏・魏氏の裏切りに斃れる。
予譲は敵討ちを決意し、厠の壁塗りに変装して趙毋卹暗殺を企てるが、殺気を感じた趙毋卹に見破られる。
一度は赦免されたが、己の身を潰して変装し、再び暗殺に望むが再び露見してしまう。
国士として智伯に殉じることを決めた予譲は、復讐の代用として趙毋卹の衣服を斬った後に自害。
仄聞した趙の兵士達は予譲のため滂沱したという。
**趙毋恤
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|79|65|86|88|63|機略|B|C|A|S|S|C|?|B.C.425|
【チョウムジュツ】
春秋時代の晋の政治家。趙無恤とも。趙襄子。
父の喪が明けるや、姉婿の中山君を宴席で謀殺し姉を自殺させた。
范氏・中行氏の遺領分割や出公追放にも与ったが、智伯とは不和で、
智伯への都邑割譲を拒んで[[晋陽]]を水攻されたが、
魏・韓氏を離叛させて智氏を滅ぼし、その領邑を分割した。
これが戦国時代の始まりとされる。
この時、智伯の頭蓋骨に漆を塗って杯とし、晒し物にしたという。
庶腹から宗家を襲いだ為、嫡長を代に封じ、その遺児の浣(献子)を後嗣とした。
※「恤」の字は「卹」とも書かれる(どちらも同義の字)。
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*注意点
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