漢代


漢代



樊噲

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78 95 38 7 69 護衛 B B C B C C BC.189
【ハンカイ】
前漢初期の武将。劉邦と同じ沛県の人で、劉邦とは妻が姉妹の義兄弟(樊カイが弟)になる。劉邦に仕えて武勲を挙げた。のちに舞陽侯となる。劉邦が咸陽を攻め落とした後、項羽の軍が函谷関で足止めされた。項羽は劉邦が、自分を出し抜いて王となる気だと思い、怒って殺そうとした。項伯・張良などの斡旋により、鴻門において弁明する機会が与えられた。樊カイは参乗として劉邦に付いていった。本営には劉邦と張良のみが中に入るのを許された。宴の席で、劉邦を暗殺しようとする剣舞が始まった。劉邦の危機を知った樊噲は、兵士が止めるのも聞かず本営の中に入り「祝勝の振る舞いがない!」と言った。その剣幕に剣舞は中止される。項羽は彼に大杯の酒と生の豚の肩肉を与えた。樊噲は酒を飲み干し、生のままの豚肉を平らげた。そして項羽に「咸陽を攻め落としたのは、出し抜こうとしたわけではなく、項羽の来るのを待っていたのだ」と釈明する。項羽はこれに黙り込んでしまう。劉邦と樊噲は脱出した。これらにより項羽は劉邦を討つ機会を失い、劉邦は虎口を脱する。その後、樊噲は対楚戦でも武勲を挙げ、漢王朝成立後は韓信を討つのにも功績を挙げる。樊噲は呂后の妹呂須を妻にしていたため、将軍のあいだでも王室の信頼が深かった。高祖の晩年に讒言によって捕らえられるが、高祖の死によって釈放される。その後、失意の中劉邦のあとを追うように没した。


曹参

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82 71 80 85 77 精妙 A A B A B B BC190
【ソウシン】
沛出身。字は敬伯。
の獄掾で、かねて劉邦と交流があって蕭何とともに劉邦擁立を進め、一族すべてが従軍した。劉邦が漢王とされると建成侯に封じられ、関中平定後は右丞相として韓信に従って功を重ね、天下平定後は平陽侯に封じられて斉王劉肥の丞相に遷された。B193年に相国の蕭何が没するとその遺言で後任とされ、在任三年で没し、懿侯と諡号された。晩年は蕭何と不和だったが、自らその及ばないことを認め、相国就任後は祖法を遵守して内治安定に貢献した。
ちなみに後漢末に登場した曹操であるが、彼の実家は曹参を祖先とする家(曹無傷を祖先とする家であるという説もある)だったが、祖父・曹騰が宦官だった為、御家存続のために夏侯嬰の子孫だった曹嵩を養子に入れ、曹の姓を名乗るということになっている。


呂雉

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7 3 86 81 24 言毒 C C C C C C BC180
【リョチ】
呂后。字は娥[女+句]。高祖劉邦の皇后。
劉邦が吏員だった頃からの伴侶であり、恵帝と魯元公主の生母。楚漢抗争の時期にはいちじ項羽によって捕虜とされるなど辛酸を嘗め、統一後は劉邦の側室の戚夫人とその子如意の抬頭に苦しんだ。韓信の捕縛や彭越の処刑を演出するなど謀略に長け、漢王朝初期の安定に少なからず貢献した。
 恵帝が即位すると皇太后として垂簾政治を行なったが、高祖晩年の寵愛を独占した戚夫人母子を惨殺して恵帝の政務放棄を招いたため、皇帝のことを代行して呂氏の封建を強引に進め、劉氏を圧迫し、反対勢力の多くを弾圧したが、民間は安定していたという。恵帝が没すると、少帝恭・少帝弘を立てて垂簾政治を続けた。
 呂后の死後は一族の呂産・呂録が畿内の軍権を握って実権を保ち、恵帝の治世後半から文帝即位までは呂后時代と呼ばれる。B180年に呂后が没すると、丞相陳平・太尉周勃らは禁軍の指揮権を呂産より奪い、斉王襄・朱虚侯章の兄弟と共に呂氏を鏖殺した。事後、代王恒が迎立され、少帝弘は廃弑された。


陳平

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71 47 98 94 81 鬼謀 A C A C S C BC178
【チンペイ】
字は仲。秦末漢初の政治家・軍師。陽武戸版の人。魏咎・項羽などに仕官するが続かず、最終的には劉邦に仕える。項羽との戦いで危機に陥る劉邦を多くの献策で救った。劉邦の遺言により丞相となり、呂氏一族を誅殺。劉氏の地位を守った。張良と双璧をなす策士。


酈食其

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38 20 84 92 80 論客 C C C C C C BC.203
【レキイキ】
漢の臣。B.C.208酈食其は劉邦と会見した。劉邦に陳留を襲って秦の貯蔵の粟を取ることを進言した。そこで酈食其は漢の陣営に迎え入れられた。B.C.207秦の丞相趙高は二世皇帝を殺すと、人を劉邦のところへやり、約束して関中の地を分け、 ふたりで王になろうと言った。劉邦は張良の計を用い酈食其と陸賈を秦将のもとへやって説得させこれを利益で釣って降し武関を急襲し、これを破った。劉邦はまた酈食其を斉王田広のところに遣って、漢の味方になるように説かせたので、田広は楚にそむいて漢と和睦し、ともに楚を討った。B.C.203韓信は蒯通の計を用い、不意を襲って斉を破った。田広は怒って酈食其を煮殺した。


周勃

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82 84 67 64 77 急襲 A A B A C C BC.169
【シュウボツ】
前漢王朝の将軍。周勃は薄曲(葦で編んだ蚕の敷物)を織って生業とし、葬式のあるときには簾を吹いて楽人をつとめたが、沛の材官(武卒)として強弓を引いた。高祖は項羽を破ってから、疑心暗鬼にとりつかれたが、周勃がこれに従い、虜にした総数は相国1人、丞相2人、将軍および2000石の大官それぞれ3人、軍2人と城3つを降し、郡5つと県79を定め、 丞相・大将それぞれ1人に及ぶという。


周亜夫

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88 86 75 71 80 急襲 A B A A C C BC.143
【シュウアフ】
前漢王朝の将軍。周勃の子。B.C.159冬、匈奴の兵3万が上郡に侵入し、また別に3万が雲中郡に侵入した。文帝は周亜夫を将軍として細柳に、宗正劉礼を覇上に、祝玆侯徐悍を棘門に駐屯させて長安を守らせた。文帝は各陣営をめぐって兵をねぎらったが、周亜夫の陣の令は整っていた。文帝は「ああ、あれが本当の将軍というものだ。 さきの覇上(劉礼)や棘門(徐悍)とは比べものにならない」と感嘆。匈奴を追い払い、文帝に愛された。後、景帝の治世になると、これとソリが合わず揉めた。そして周亜夫は免ぜられた。しばらくして周亜夫は禁中に召されて食を賜わった。料理は大切りの肉だけで箸もなかった。周亜夫は箸を持ってくるように言うと、 景帝はこれを見ながら笑って「何か足らぬものでもあるのか」と言う。周亜夫は冠を脱いでお詫びしたが、景帝が席を立ったので周亜夫は小走りに退出。景帝はこれを目送りし、「あの不快そうな者は、臣ではない」と言う。3月、周亜夫の子が、父を葬るために尚方の工官が作った甲・楯を買い、人夫を雇って苦役させたが、銭をやらなかった。恨みに思った人夫はこの違法を上書した。景帝はこれを吏に下し、訊問させ、周亜夫は取調べを受けた。廷尉は厳しく取り締まり始めた。周亜夫は食事しないこと5日、血を吐いて飢え死んだ。


劉徹

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70 51 88 91 94 心攻 B B B A C C BC156 BC87
【リュウテツ】
字は通。前漢の七代武帝。廟号は世宗。在位前141~前87。景帝の子。はじめ膠東王に封ぜられた。景帝後元三年(前141)、十六歳で即位した。当初は祖母の竇太皇太后に実権を握られた。自ら信任した儒者を太皇太后の怒りを買ったため退けたりした。祖母が崩ずると、次は王皇太后とその外戚の王氏・田氏が朝政を専断した。王皇太后が崩じると親政を開始した。対外政策では、従来の消極策を捨て、衛青や霍去病を登用して、匈奴を討たせ、北方に追いやった。東に楽浪郡ほか朝鮮四郡を置き、西に張騫を送って西域との交流を開いた。汗血馬を求めて、フェルガナ遠征まで行っている。内政面では、桑弘羊・東方朔らを登用し、諸侯の力を削ぎ、郷挙里選の法を立て、塩や鉄を専売にし、均輸法・平準法を公布して物価を統制しようとした。しかし、相次ぐ外征のため、文帝・景帝時代の莫大な蓄積を食いつぶし、さらに財政を破綻させ、多くの新税を導入して、農民を窮乏化させた。晩年、武帝のもとで辣腕を振るった江充が、皇太子と対立し、武帝死後のことを恐れて、巫蠱事件をでっち上げて皇太子を冤罪に落とそうとした。皇太子は江充を討とうとして謀反の罪を着せられ、長安市街での戦いに敗れ、自殺した。後、武帝は皇太子を悼んで思子宮を造営した。末子の弗陵を後継者に定め、霍光・金日磾・上官桀の三人に後事を託して崩じた。


李広

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90 97 71 27 89 飛将 A B S S C C BC119
【リコウ】
中国前漢時代の将軍。匈奴から飛将と恐れられた。呂布が飛将と称えられる起源は李広である。武帝の時代の紀元前129年、匈奴との戦いに敗れて捕虜となった。その後、脱出して長安に戻ったが、罪を問われ平民に落とされた。後、将軍として再び匈奴と戦うが戦果を得られず。紀元前119年の匈奴攻略の時には李広は高齢を理由に外されそうになった。李広はこれに猛抗議してようやく参戦が許された。しかし、前将軍であったのが、武帝の密命を受けた大将軍衛青によって搦手の軍に回された。李広は不服であったがそれに従い別方面から進軍したが、道に迷って匈奴との戦いに遅れた。衛青がそのことに対しての報告書を出そうと李広の部下を詰問したところで李広は、「成人してからこのかた匈奴と大小七十数回戦った。幸運にも衛青大将軍に従って単于の兵と戦える機会に恵まれながら、衛青がわしを後方の部隊に回したため道に迷って遠回りをする羽目になった。これが天命でなくてなんであろうか」と叫び、彼は自分の首を剣で斬り死んだ。

衛青

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92 93 61 8 70 騎神 B B A S C C ? B.C.106
【エイセイ】
字は仲卿。幼少時を奴隷として過ごす。霍去病としばしば比較される武将である。紀元前129年から10余年にわたり、天才的騎馬戦術をもって七回にわたり匈奴族を撃破し、功績によって大将軍にまで昇進。しかしその後、功績・人気に勝る霍去病に完全に取って代わられることになる。


司馬遷

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59 31 78 86 88 洞察 C C C C C C BC145
【シバセン】
茂陵出身。字は子長。父の司馬談は左馮翊夏陽(陝西)出身で茂陵に移住し、太史令まで進んだ。成人してからは各地の名所旧蹟を巡り、伝説・碑史を収集し、父の死後、太史令とされてB104年に太初暦を完成させ、史記を起稿した。B99年に李陵を弁護したことで宮刑とされ、数年後に出獄して中書令となり、史記を完成させた。没年は武帝末~昭帝初期に比定される。
「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻、計52万6千5百字からなる「史記」は、宮刑という屈辱に耐える司馬遷の悲壮なる魂の結晶である。
史記の列伝の最初に伯夷叔斉を次に管仲と晏嬰とを置かれている。この四人は全て君主に対して強い諫言を行って、かつ君主に殺される事の無かった人たちである。これらの古人と自分、古の君主と武帝を引き比べて思う所があったのだろう。


李陵

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88 94 82 27 85 弓神 B B S A C C BC.74
【リリョウ】
中国前漢代の軍人。匈奴を相手に勇戦しながら敵に寝返ったと誤解された悲運の将軍。司馬遷の知人でもあり、その司馬遷が宦官となった原因を作った人物でもある。同時に親友の任安も李陵を弁護したために、武帝によって処刑された。匈奴に帰順した李陵はその地で左賢王として生涯を閉じた。


桑弘羊

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15 8 87 96 68 徴税 C C C C C C BC.152 BC.80
【ソウコウヨウ】
洛陽の商家出身。算術に長け13歳で武帝の侍中とされ、財務官僚として認められてB119年に東郭咸陽・孔僅らと経済改革を企画立案し、以後、財務政策の中心となって均輸法を実施し、塩鉄専売・均輸平準法の施行を担当した。B100年には大司農令に進み、武帝の死に臨んで霍光・上官傑とともに遺詔を受け、御史大夫とされて政務の中心となったが、子弟の仕官を断られた事で霍光と不仲となった。B81年には塩鉄の専売と均輸平準法の存廃をめぐって賢良・文学らと激しく議論したが、一介の学士に過ぎない賢良・文学が熾烈に桑弘羊と論争しえた背景には霍光の支援があり、桑弘羊ら外朝勢力と霍光ら内朝勢力の政争が背景として伏在していたとされる。塩鉄会議の翌年、上官傑・燕王らと謀った簒奪が露見して誅殺された。
 専売制、均輸平準法は財政を好転させ、軍費調達をも可能とした一方で庶民の負担は確実に増大し、運用者の恣意によって非難を受けたが、処刑後もその財務政策が継続されたのも事実であり、塩鉄会議の進行を記した『塩鉄論』が、霍光に代表される内朝側の人間によって記録された点には注意を要する。


霍光

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61 39 92 97 88 仁政 C C C C C C BC68
【カクコウ】
漢代の政治家。兄の推挙で武帝の側近となり,武帝の死にさいし,大司馬大将軍に任ぜられた。前74年,昭帝は没した。後嗣がなかったため,武帝の孫・昌邑王を帝位に就けたが新帝は淫乱の所業が多く,漢朝の行く末を憂えた霍光は,わずか27日でこれを廃し,あらためて武帝の曾孫を擁立した。その功によって霍光は娘を宣帝の皇后にすえて外戚となり,一族はすべて高位高官に取りたてられた。政権を握ること20年にして病没。

王檣

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16 9 65 64 96 C C C C C C
【オウショウ】
王昭君と呼ばれる。昭君は字。
荊州南郡(江陵)出身。匈奴の呼韓邪単于、復株累若?単于の時代の閼氏(単于の妻)。楊貴妃・西施・貂蝉と並ぶ古代中国四大美人の一人。
前漢の元帝の時代、匈奴の呼韓邪単于が、漢の女性を閼氏(匈奴の言葉で君主の妻)にしたいと、元帝に依頼したところ(逆に漢王朝が持ちかけたという説もある)、王昭君が選ばれ、以後呼韓邪単于の閼氏として一男を儲けた。しかしその後、呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣(遊牧民に多く見られるレヴィレート婚)に習い、義理の息子に当たる復株累若?単于の妻になって二女を儲けた。
伝承によると、元帝は、匈奴へ送る女性を、後宮の中の一番醜い女性を選ぶため、似顔絵帳の中の一番醜い女性を選ぶことにした。似顔絵絵師に賄賂を贈らなかった王昭君は、一番醜く描かれていたため、王昭君が選ばれた。皇帝に別れを告げるための式で、王昭君をはじめて見た元帝は、王昭君の美しさに目を奪われたが、いまさら無しにすることは出来ず、しぶしぶ手放したという。

王莽

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36 49 86 60 68 C C C C C C BC45 23
【オウモウ】
皇后(孝元皇后)となった姑母の王政君の七光りで伯父達が侯爵に封ぜられ、高官に就いて裕福な暮らしを送る中で、父・王曼(おうまん)が早死にしたために候に封ぜられなかった王莽の一家のみが貧しく、王莽自身も苦学の末にようやく当時隆盛しつつあった儒学を修めた。
成人後は、叔父の王鳳、王商、王根の推挙と皇太后(孝元皇太后)となっていた姑母の王政君の引き立てで、順調に出世し、哀帝の在位期間を除き、国政の中枢に位置する事となる。その一方で、儒学と予言書に基づいた人気取りを目的とした政策で国民の絶大な支持を得、宰衡、安漢公、仮皇帝(摂皇帝)となった後、8年に漢を簒奪し新を興し、皇帝となった。尚、この時、太皇太后(孝元皇太后)として玉璽(伝国璽)を預かっていた王政君は、これを受け取りに来た王莽の使者に向かって、玉璽を投げつけ、散々に王莽を罵ったという。
王莽は周代の治世を理想としたが現実性がなかったため受け入れられなかった。また匈奴討伐や専売制の強化なども失敗し、新の財政は困窮した。
その後、漢の復興を望む農民反乱(赤眉の乱)などが続発し、王莽もその混乱の中で命を落とし、新は滅亡した。結果として後世から批判された王莽だが、当初は立派な善政をしこうという志を持っていたようである。しかし彼の理想とする政治は荒廃しきった国土で遂行するには到底不可能であった。次第に王莽は理想と現実の差に耐えられなくなり、さらに追い討ちをかけるように相次いで乱が起こったため疲れきった王莽はとうとう錯乱してしまった。晩年には政治を一切放棄して正体不明の神を信仰するようになったり、自分と一緒に呪文をとなえれば官位を与えると言いふらしたため、このおかげで総勢2000人もの人々が官位をもらったようである。このように晩年は完全に錯乱した王莽だが彼が成立させた官位制度の一部はその後も受け継がれたものもあり、一口に暴君だと言えない人物である。王莽死後、漢の一族の劉秀(光武帝)によって、漢朝が復興した。
(補足)中国史の流れをみると秦→前漢→後漢→三国時代→晋と分別されていることが多いが、一時的ながらも前漢と後漢の間に新王朝が成立していて「前漢→新→後漢→」となることに留意すること。

劉秀(文叔)

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94 84 90 97 100 心攻 A B B S C A BC.6 57
【リュウシュウ(ブンシュク)】
後漢の創始者、光武帝。
中国史上で唯一、一度滅亡した王朝の復興を旗印としてこれに成功した君主。器量人徳を慕って多くの優秀な人材が集まり、これらの家臣は光武二十八将とも呼ばれ、徳川二十八神将のモデルとなったと言われる。諸葛亮孔明は、光武帝は神の如き知謀を持ち常に参謀と意見が一致したため家臣が地味に見えるが、その二十八将から下は馬援に到るまでみな張良や韓信に劣らないとした。戦場では、その多くの戦いで最先頭に立ち、自ら得物を奮って戦う勇士であった。皇帝に即位後も、大軍を持ちながらなお最前線で騎兵を率いて戦う豪傑であった。一方、平時ではよく笑う気さくな人物だった。ジョークを好み軽率な発言も多い。そもそも挙兵以前に予言書により時の大臣の劉秀(光武帝とは別人=改名後の劉歆)が皇帝になるぞという話を話していたとき、「僕じゃないってどうしてわかるのさ」と発言して一同の爆笑を誘ったことがある。また外交の使者として来た馬援(馬騰・馬超の祖先)と面会した時、軽装で警護も付けずに現れた光武帝に馬援が「我が刺客であったらどうされます」と言うと、「そなたは刺す客ではなく説く客じゃ」などと洒落で返したという。
彼の妻、陰麗華は中国史でも数少ない賢夫人の一人であり、彼女のお陰で外戚問題が起こらず政治が安定した
「劉秀の政治方針とその時の状況について」
たびかさなる戦争によって当時の前漢最盛期と比べると、かつて六千万人ほどいた人口が劉秀の時代には二千万人ほどまで激減していた。これは前漢の前にあたる秦王朝代の人口とほぼ同じである。この国力低下に対する対策の一つとして劉秀は奴隷解放令を何度も出した。自由民を増やす事によって生産力の上昇と民衆の間の王朝に対する人気取りを狙った。また周辺諸国、特に匈奴に対しては懐柔策を取り、王の号を小国にも出した。戦争を避け、民力の回復を待ったのである。そしてさらに売人法、略人法(人身売買に関する法律)を公布し人身売買を厳しく規制した。建武十一年には「天地之性人為貴(この世界においては、人であることが尊い)」で始まる詔を発し、罪人を処罰する場合、相手が奴隷であっても良民であっても刑法上では平等であるという宣言をした。豪族の跋扈する郡には、董宣、樊曄、李章といった酷吏と呼ばれる人物を太守に起用し、横暴な豪族を制圧した。そのため犯罪数が前漢時代の五分の一にまで減少することになった。国家としての政治に関しては、税金は以前の三十分の一税にまで減税し、各地に沢山あった役所同士を統合させて半分以下に減少させた。さらに防衛上必要であった地方常備軍である材官騎士を廃止し、兵士を大量に民間へと流させることによって労働力を上昇させようとした。しかし戦乱時にいた将軍もほとんど解任され、軍隊は非常に小さな常備軍しか持たなかった。このように徹底した法家思想の政治方針で、太守はもちろん県令まで一人一人自ら面接して任命した。失態があると皇帝自ら棒叩きにあわせるという、細かくて厳しい法治政治を行った。このため劉秀の基準とする政治家としての線を合格して職務につけた臣は数少なく、時には下獄して死ぬものもいた。「礼は庶民に及ばず、刑は士人に及ばず」という昔から中国の根底に存在していた儒家思想は一切なく、徹底して庶民の立場に立った政治を行なった。劉秀の政治は徹底して庶民の立場に立ったものであり「以元元為首(庶民を最優先とする)」と称えられた反面、これによって冷遇された儒家たちからは大いに反感をかい「刑罰の根本が正しくない」と批判された。


鄧禹(仲華)

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眼力 AD.2 AD.58
【トウウ(チュウカ)】
光武帝の学友・功臣で「雲台二十八将」の筆頭に序せられる。
卓越した人を見る目を持ち、賈復、銚期、呉漢、寇恂を推挙した。
また、自身も河北平定戦・長安侵攻戦・関中侵攻戦と活躍する。
劉秀が即位すると若干二十四にて位人臣を極める大司徒を拝命し百万の兵を率いるが、
征西では延岑に敗れ、赤眉軍との長安攻防戦にも敗戦を繰り返し大司徒の印綬を返上。
劉秀亡き後は、明帝の太傅を務め、賓客として遇された。


呉漢(子顔)

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疾走 AD.44
【ゴカン(シガン)】
光武帝の功臣で「雲台二十八将」の第ニ位。
漁陽太守、彭寵の下にいたが、勇猛で知謀ありと鄧禹によって見出された。
幽州の突騎兵を率いて活躍し、劉秀が即位すると大司馬に任ぜられる。
平時は闘いに備え常に武具の手入れをしていて、数多くの戦いに転戦した。
忠義一途で光武帝からの信頼は厚く、命令違反も失策もあったが
自身が死ぬまでの二十年間もの間大司馬の要職にあった。


賈復(君文)

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威風 AD.55
【カフク(クンブン)】
光武帝の功臣で「雲台二十八将」の第三位。
羽山にて挙兵、将軍を自称する。更始帝が即位すると、宗族の漢中王・劉嘉のもとで校尉となるが、
劉嘉の紹介で河北を攻略中の劉秀に仕えた。
勇猛果敢な将軍で闘ってはしばしば負傷したが一度も敗れたことがない不敗の猛将。
敵陣に深入りして危険を冒すため、光武帝は遠征の任務を与えず、常に身近に置いた。
河北攻略・河南平定戦に活躍、赤眉を滅ぼし左将軍となるが、天下が定まると将軍職を返上、
膠東侯に封じられ、鄧禹・李通とともに国政を諮問された。


耿エン(伯昭)

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虚実 AD.3 AD.58
【コウエン(ハクショウ)】
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第四位。
上谷太守、耿況の嫡男。耿舒の兄。
河北で孤立する劉秀に帰順するように父に勧めて、自ら馳せ参じる。
二十一歳の初陣から三十一歳で引退するまで、
武勇と謀略の硬軟取り合わせた用兵で全ての戦いに勝ち続けた常勝将軍。
天下統一後、将軍職を辞するが、天下の大事に議論が分かれた時には召されて計略を尋ねられた。
その虚実見られる徹底した計略戦は、後世、魏の曹操も絶賛したという。


寇恂(子翼)

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能吏 AD.36
【コウジュン(シヨク)】
光武帝の功臣で「雲台二十八将」の第五位。
上谷の豪族。太守耿況に漁陽郡と連合することを説いて上谷を劉秀に帰順させ、
その一将として兵馬を率いて劉秀に合流した。
鄧禹の推薦で補給の拠点となる大郡の太守となり、
軍の食糧を供給し続けて前漢の名宰相蕭何に比肩される。
用兵や外交にも長け、文武の才を兼ねた。
宰相の才と評されるが、光武帝が天下統一する目前に病没する。


岑彭(君然)

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強行 AD.35
【シンホウ(クンゼン)】
光武帝の功臣で「雲台二十八将」の第六位。
新の棘陽県長。宛城を守り漢軍を苦しめるが劉縯に降伏を赦される。
劉縯亡き後、朱鮪の校尉となるが、後に劉縯の弟である劉秀軍に合流、河北平定に従軍する。
後に朱鮪の守る洛陽を攻め、朱鮪に信義を持って降伏を説得した。
規律高い軍隊を率いて電撃戦を展開し、征南大将軍として荊州方面の平定に力を尽くす。
秦豊を滅ぼし、隗囂を拒み、公孫述討伐に活躍したが公孫述の刺客のため倒れた。
受けた恩義を決して忘れなかった信義の将軍で、その死には敵味方を問わず涙したという。


馮異(公孫)

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洞察 AD.34
【フウイ(コウソン)】
光武帝の功臣で「雲台二十八将」の第七位。大樹将軍の異名を持つ。
王莽のもとで穎川郡を守っていたが、非凡な才を秘める劉秀を見抜いて降伏。
河内を守り、蘇茂・朱鮪の軍を撃破、赤眉戦では鄧禹と交代して大勝するなど大功を挙げた。
征西大将軍を拝命し、延岑を破り、長安を復興させ、蜀の公孫述の侵攻を退け、
西涼で反した隗囂を破った。隗囂の遺児、隗純を攻める軍中で病により陣没。
孫子兵法に通じ、謙虚で功を誇らず、進退は常識に適い、軍紀は整然であった。


朱祐(仲先)

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補佐 AD.48
【シュユウ(チュウセン)】
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第八位。
劉秀の親戚であり幼なじみで、また長安にともに留学した学友。
挙兵時からの古参で、昆陽の戦いから河北平定に奔走し、武勇優れた将軍として活躍した。
劉秀が皇帝に即位すると、建義大将軍を拝命、鄧奉、秦豊、延岑と戦い功を挙げる。
匈奴が攻めてくると南行唐に駐屯して防いだ。


祭遵(弟孫)

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明鏡 AD.33
【サイジュン(テイソン)】
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第九位。
穎川・穎陽出身。劉秀に容姿態度を気に入られて配下となる。
河北平定では軍紀の監察官として厳正に取り締まる。
将軍位に就いてからは軍紀厳正な部隊を率いて、鄧奉、彭寵、張遵、延岑と戦い破った。
隴西の隗囂と蜀の公孫述を防ぐ中、重病に罹り軍中に没した。
寡兵で敵を前に将軍が死亡したにも関わらず、士気高く敵を寄せ付けず棺で凱旋した。
光武帝は「祭征虜ほど国を思う臣下はいなかった」とたびたび嘆息したという。


景丹(孫卿)

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騎神 AD.26
【ケイタン(ソンキョウ)】
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十位。
上谷郡の長史。太守である耿況の命で耿弇・寇恂と共に劉秀に帰属した。
精強な烏桓突騎を率いて王郎軍を討ち、河北平定に活躍する。
劉秀からの軍事の信頼度は高く、皇帝即位後、驃騎大将軍に任ぜられる。
櫟陽侯に封ぜられ五校を河南で討つが、翌年病死した。大司馬の呉漢と並び賞される実力者。


蓋延(巨卿)

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AD.39
【コウエン(キョケイ)】
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十一位。
漁陽の護軍都尉。身長八尺の巨漢で三百斤の強弓を引く豪傑。
呉漢と共に謀って劉秀に帰順、河北の平定に貢献した。
劉秀が皇帝に即位すると虎牙将軍に任ぜられて、劉永・董憲を破り、
隗囂の病死後、西方の諸勢力を討ち平らげる。


銚期(次況)

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戟将 AD.34
【チョウキ(ジキョウ)】
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十ニ位。
身の丈八尺二寸、凄まじい容貌だが慎み深く威厳を備えていた。
馮異が穎川で降った際に、節義ある者として推挙される。
鄧禹の属官として兵二千を授けられて、薊撤退戦や河北平定戦で活躍。
信義を重んじ、決して降城を略奪することがなかった。
太中大夫、衛尉を歴任、洛陽の治安を守るが、建武十年病死した。
光武帝は自ら銚期の遺体に服を着せ棺に収めたという。


耿純(伯山)

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仁政 AD.37
【コウジュン(ハクザン)】
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十三位。
定陶郡太守、耿艾の嫡子。河北に渡った劉秀と面会し、兵の規律が整然なのを見て帰順を決意。
信都で孤立する劉秀の下に従兄弟の耿訢、耿宿、耿植ら一族郎党を率いて、馳せ参じた。
河北平定戦や東郡、泰山平定戦などで大功ある知略優れた将軍であったが、
いち早く文官へと転身し東郡太守として民衆に慕われる。


臧宮(君翁)

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AD.58
【ゾウキュウ(クンオウ)】
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十四位。
若くして亭長であったが、食客を率いて緑林軍に入り挙兵する。
緑林が南陽劉氏と連合すると、劉秀と共にし昆陽の戦いでも奮戦した。
河北平定戦・河内侵攻戦で活躍した。
のち、蜀の公孫述と戦い荊門を突破、沈水にて延岑と戦い大破し、
呉漢とともに公孫述をうち破り成都を平定する。
寡黙にして勤勉で、胆力のある勇将で生涯を将軍として生きた。


馬武(子張)

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AD.61
【バブ(シチョウ)】
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十五位。
盗賊集団である緑林軍の武将。人並外れた武勇を持つが、酒好きで度々事件を起こした。
更始帝派の謝躬の下にいたが、劉秀が謝躬を誅すと帰順。劉秀はこれを喜び左右に置いた。
攻める時は軍峰となり遮る者無く、破れた時は殿となり却って敵陣を陥れたという猛将。
明帝の時代にも、捕虜将軍となり、西羌を撃ち破る功を為した。


劉隆(元伯)

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屯田 AD.57
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十六位。
南陽の安衆侯・劉崇の宗室という名門出身。
更始帝の騎都尉となっていたが、河内で劉秀に帰参する。
統一戦で功があったが、不実申告の罪に坐して庶人とされる。
南越征伐では馬援の副将として復帰。徴弐を捕らえて斬った。
大司馬・呉漢が逝去しすると驃騎将軍として大司馬を代行し、
法に則って務めること八年、将軍の印綬を返上して、列侯として朝請を奉じた。


馬成(君遷)

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築城 AD.56
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十七位。
南陽棘陽の県吏。劉秀が更始帝に命じられて河北の調略に及ぶと、
官を棄て荷を背負い徒歩にて合流し、警備兵として従軍した。
統率力優れた将軍であり、淮南の李憲を平定する。
劉秀の親征に従い、群雄の一人である天水の隗囂も破っている。
以降は北辺の守備に従事。辺境の防塞設備を構築するなど働き続けた。


王梁(君厳)

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AD.38
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十八位。
漁陽郡の属吏で、更始帝によって彭寵が太守となると
同僚の蓋延・呉漢とともに合流して偏将軍を拝命した。
武勇優れた将軍として各地を転戦して活躍する。
予言書の影響で大司空に抜擢されるが、洛陽の運河増設工事を指揮に失敗、
辞職を願い出て済南太守となった。


陳俊(子昭)

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AD.47
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第十九位。
南陽の郡吏。劉秀が河北を攻略するに及び、劉嘉の推薦によって、
曲陽の県令を辞し劉秀の下に参じた。
劉秀に従って流軍の銅馬・五校の糧食を絶って滅ぼし、強弩将軍を拝命する。
後に東方の重鎮として全権を委任され民政ぶりが民衆に歌い慕われた。


杜茂(諸公)

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AD.
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第二十位。
劉秀の河北攻略に合流し、中堅将軍として活躍。
冀州では中郎将・王梁とともに五校を討ち、大将三十数人を投降させた。
河南に転戦し、後に匈奴への防備に当たった。


傅俊(子衛)

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AD.
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第二十一位。
昆陽の戦いをともにした古参の将軍。劉秀が河北攻略を始めると
傅俊は賓客十数人とともに邯鄲で合流、潁川の兵士を率いて活躍した。
光武帝の信頼厚く、陰麗華を貴人として迎え入れる使者として立てられる。
のち、岑彭とともに、揚州攻略に当たって秦豊を破り平定した。


堅鐔(子キュウ)

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鉄壁 BC AD
光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第二十二位。
穎川の郡吏。劉秀が河北攻略を始めると堅鐔を推挙する者があり、
河北にて偏将軍となり、武勇の猛将として流軍の掃討・城攻めで活躍する。
鄧奉が反旗を翻し、宛城で孤立すると光武帝の親征まで一年にわたり守りきった。
戦いでは敵襲に対し常に先陣を務め、兵士の犠牲を最小限に抑えたという。
その後、左曹に任ぜられて、常に光武帝に従軍した。


馬援(文淵)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
93 90 81 53 90 威風 A A B S C B BC14 AD49
【バエン】
茂陵出身。字は文淵。
戦国趙の馬服君趙奢の裔という。西漢代に馬通・馬何羅は武帝の巫蠱の乱平定に功があったが、後難を恐れて謀叛して誅殺され、西漢を通じて禁錮の家門とされた。
 馬援は北地で多数の牧馬・私兵を擁して王莽に登用され、まもなく隴西の隗囂に属し、光武帝に仕えることを勧めた。隗囂はまもなく公孫述に通じて光武帝に背いたが、馬援は光武帝に従って羌族を平定し、35年の隗囂平定にも大きく貢献した。交趾の徴姉妹が太守の横暴に抵抗して挙兵すると、41年に伏波将軍とされて討伐し、2年で鎮圧して新息侯とされた。以後も匈奴・烏桓撃退に転戦し、48年には武陵五渓の蛮族討伐に自推して起用されたが、作戦途中で陣没した。陣中で虎賁中郎将梁松の無礼を窘めたことから恨まれて讒言され、梁松は舞陰公主を娶って驕勢であり、追従して馬援を糾弾する百官も多く、一切の官爵を剥奪された。後に冤罪であるとの上書があって赦され、馬援の子や孫はあらためて昇進・封侯された。
 馬援の娘は皇太子妃とされており、明帝即位とともに皇后に立てられたが、政治的発言は控え、一族の登用・昇進を抑えるなど暦朝でも屈指の賢皇后と称され、馬氏による外戚の専横は起こらなかった。


班超

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
95 87 84 78 86 威圧 A A A A B C 32 102
【ハンチョウ】
班固の弟、班昭の兄、班彪の子。字は仲升。
弁・文章に優れたが、母の死後は西域経略に投じて73年の竇固の匈奴遠征に従軍し、伊吾攻略で認められて西域招撫を命じられた。[善β]善を手始めに、匈奴を背景とした諸国の背反に苦しみながらも疏勒・于[門+眞]など南路諸国を帰服させ、竇固の帰国後は勅命に背いて西域経略を続け、疏勒・莎車・亀茲・姑墨(アクス)・温宿(ウチュ=トゥルファン)などの離叛諸国・敵対諸国を征服した。
 「虎穴にいらずんば虎児を得ず」の人口に膾炙した格言は、[善β]善に進駐する匈奴の大使節団を急襲する際、部下を鼓舞するために口にした言葉。91年には西域都護に任じられて亀茲に都護府を置き、以後も焉耆・危須(クルラ)・尉犂を降して西域五十余国を統轄し、副使の甘英を大秦国に派遣して直接交流を図り、99年にはクシャン朝の遠征軍を撃退するなど大功があって、定遠侯とされた。班昭の仲介で101年に帰国を許され、翌年に洛陽に入城して持病の胸疾で9月に没した。
 以後の西域経営は人材を得ず、超の末子の勇の代にやや回復したのが例外で、その後まもなく諸国は離叛して匈奴に服した。


冒頓単于

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
97 98 84 49 95 騎神 B B S S C C BC.174
【ボクトツゼンウ】
頭曼単于の子として生まれた。当初は、父の後継者に立てられていた。しかし父の後妻が、男子を産み、頭曼の関心がこの異母弟に向けられると、冒頓は邪魔者扱いされ、月氏の元に人質として送られる。間もなく、頭曼は月氏が無礼であるとの理由で、月氏に戦争を仕掛ける。言うまでもなく、冒頓が月氏の手で殺害されるのを見越してである。しかし、この危機を悟った冒頓は、間一髪のところで脱出に成功し、父のもとに逃亡する。その後、父との関係は悪化した。私兵を秘密裏に養成していた冒頓は紀元前209年にクーデターを起こし、父、継母、異母弟及びその側近を抹殺した上で、単于に即位した。父の殺害に当たっては、事前に私兵に対して、「自分が矢を放ったらすぐさま同じ方向に矢を放て」と命令して数回訓練しておき、父が通りかかったときに冒頓がそこに向けて矢を撃ったので、配下の私兵が大量の矢を浴びせたのである。単于即位後、東胡を滅亡させ、月氏を西方に逃亡させた。さらに、秦末の動乱とそれに続く楚漢戦争で中国全土が混乱している隙に、頭曼の代に、始皇帝が派遣した将軍・蒙恬によって奪われていた旧領土を回復した。紀元前200年、40万の軍勢を率いて代を攻め、その首都・馬邑で代王・韓王信を寝返らせ、さらに白登山で劉邦の親征軍・32万を破り、漢と自らに有利な条件で講和した。これにより、約60年間、武帝が大規模な対匈奴戦争を開始するまで、匈奴は漢から毎年贈られる財物により、経済上の安定を得、さらに韓王信や盧綰等の漢からの亡命者をその配下に加えることで勢力を拡大させ、北方の草原地帯に一大遊牧国家を築き上げることとなった。これには成立したての漢王朝は対抗する手段を持たなかった。


徴側

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
88 72 81 58 90 鬼門 A B S B A S AD.43

徴弐

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
81 88 77 50 88 藤甲 B A S B A S AD.43
【チュンチャック】【チュンニ】
徴側・徴弐姉妹はハノイ郊外の富豪の家に生まれる。当時ベトナム北部は交趾と呼ばれ漢の圧政の元に支配されていた。40年、交趾太守に夫を処刑された徴側は妹の徴弐と共に挙兵、漢の支配下にあった65もの城を落とし王と称した。この乱に対し漢の光武帝は馬援を討伐の任に当たらせ大部隊を派遣した。そして43年、反抗も空しく徴姉妹の軍は壊滅し、姉妹は捕らえられ処刑されたとも自殺したとも言われる。徴姉妹はこの後ベトナムの英雄として語り継がれ、彼女らを祭る廟も多く造られた。


陰麗華

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
57 21 84 90 88 内助 C C C C C C 5 64
【インレイカ】
劉秀(光武帝)の妻。彼と同じ南陽郡(河南省)出身の豪族陰氏の娘。容姿は端麗で顔も美しく近所でも評判の美女であった。また幼いときから頭が良く、後の夫である劉秀もこの当時から陰麗華に対して好意を抱いていたようである。西暦23年に劉秀に嫁いでからは後漢の二代目皇帝になる劉荘(明帝)を産んだ。陰麗華は嫁いだ後も贅沢をせずに質素倹約につとめ、同時に自分の一族が国の政治に関与しないように努力するなど夫である劉秀を大いに助けた。このため二代目皇帝劉荘の妻である馬皇后(劉秀配下の名将馬暖の娘であり、彼女もまた夫のために尽くした賢夫人)とともに優れた皇后として称えられている。この200年後、三国志の舞台となる後漢末期は宦官が介入しすぎたために政治が大いに乱れたが、後漢皇帝一代目の劉秀、二代目皇帝の劉荘の時代は中国史上もっとも栄えた時代の一つである。




  • 毛利元就は -- (名無しさん) 2013-06-29 21:43:09
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