7月15日~7月16日に、靖国神社に行ってきた。

15日の朝、家で東京に行く為の準備をしていたとき急に聞いた事もない音とともにアナウンスが流れた。

「7階にて火事が発生した模様、現在係員が確認中。」

初めての出来事でびっくりしたのと、新幹線の時間がないのですこし焦った。誤作動だったらいいのになと思いながら準備を続けていると、

「7階にて火災発生今すぐ非難してください。」

とアナウンス。まじかよと思いつつしばらくは回りの様子を伺っていたのだが、アナウンスが連続して流れるのでこれはやばいかもと思いとりあえず部屋からでた。俺はちょうど7階に住んでいるので辺りを見回したけれど、煙も上がってなく火なんてでている気配はなかった。けれどもしものことがあるのでマンションを出た。外には、非難した人たちがたむろっていた。俺もとりあえず待ってみた。

十数分後、アナウンスが止まり係員らしき人が出てきたので確認してみると、昨日の水漏れが原因で装置が誤作動したと言った。確かに昨日、水漏れが発生してエレベーターが停止していたのだが。(後日8階の部屋の洗濯機の蛇口がこわれて水漏れ起こっていたらしいのだが)。とりあえず大丈夫みたいなのであわてて部屋に戻り仕度をして新大阪に向かい、なんとか時間通りの新幹線に乗る事は出来た。しかし不気味な一日の始まりだ。

新幹線では読む予定だった本を読みつつ、気がついたら寝ていて品川あたりで目を覚ました。まるで時間を感じる事はなかった。東京駅に着き新幹線から出ると熱気がムッとやってきて凄く熱かった。東京っ熱いな。ヒートアイランド現象ってやつかな。着いた時間は12時頃だったので昼飯でもと思ったけど、靖国神社への思いが強かったのか「九段下駅」に直向かった。

「九段下駅」を出て左側を見ると靖国神社の大鳥居が見えた。大鳥居の周りには夜店と献灯がたくさん並んでいた。7月13日~7月16日は「みたままつり」が行われているので随分派手に見えた。

「みたままつり」とは、靖国神社がお盆にちなんで戦歿者246万6千余柱の「みたま」を慰めるため、戦後の昭和22年から始めたもので、今年で60回目。神社境内に飾られた29.000灯個を超す「懸雪洞(かけぼんぼり)」や大・小提灯の「献灯」は、東京九段の夜空を美しく彩り、今では東京はもとより、日本の゛夏の風物詩゛として、多くの人々に親しまれ、毎年30万人の人出で賑わう。

俺は、とりあえず大鳥居の前まで行った。あまりの大きさにすごく歴史を感じ身が引きしみる思いでいっぱいになった。この先には、日本の為に戦った英霊が多数祭られているのだと思いながら、一歩一歩進んだ。大手水舎に着いたので、水を汲んで左手から右手を洗いそして、左手で水を受けとり口漱いで身を清めた。隣にいたおっさんは、柄杓に直接口を着けていたので礼儀知らずの汚いやつだと思い不愉快になった。いい大人の癖に礼儀をしらないとは恥だな、自分はあの様にはならないようにしようと心に決めた。

第二鳥居を通り神門を通って拝殿についた。俺は初めて来たこともあり今までの部分を含めて多めの賽銭を入れた。神道の作法通り「二拝・二拍手・一拝」をした。日本の国の為に戦った人達への感謝とお礼を陳べました。その後、お守り等を買っている時に急激に雨がスコールの様に降り始めた。俺の予定では、礼拝の後はホテルにチェックインし夕方にもう一度靖国神社に参拝に行く事にしていたが、傘も持っていなかったので急遽予定を変更して遊就館へ向かった。

遊就館は、戦国時代以降の資料が数多く展示されている。入り口近くにはゼロ戦が展示されていた。子供のころならかっこいいと思えたかもしれないが俺の年代になっていると、これに乗って空を飛び敵(同じ人間)を殺しにいかなければいけなかったか思い複雑な気分だった。資料室に入る為に入場券を購入しゲートくぐって中に入った。映像ホールでは資料映像「私たちは忘れない」がある一定時間ごとに放映されているのだが、丁度開始時間に近かったので見る事にした。放映終了後、俺は日本が起こした戦争への認識が変わった。日露戦争で勝ったことは単に日本が大国に勝った日本は強かった、としか認識していなかったが当時植民地にされていた東南アジアの人々にとって、白人に褐色民族が勝った。それも大国ロシアに。褐色民族も白人に劣っていない。がんばれば、白人の支配から逃れる事ができると勇気を与えたことに凄く誇りをもった。東南アジアの大統領もこぞって日本の勝利に喜んだ。その中でもインドでの賞賛が強くそれがガンジーを奮い立たせインドの独立につながった。第2次世界大戦で日本が敗れた後も、東南アジアの独立運動が強く(以前なら白人には勝てない意識があり独立運動は小さかった)それぞれの国が独立していった。日本が真珠湾に攻撃したのもアメリカからの石油輸出の停止され、ABCD包囲網も発令され挙句の果てに日本が到底受け入れることができない「ハル・ノート」を最後宣告されたからである。石油の備蓄も残り半年分しかなく今後交渉を続けても石油が無くなるだけで戦わずして負ける、武士道に反する事なのでしたなく攻撃したのである。実は全てアメリカが仕組んだ作戦で日本が攻撃してくるのを待っていたのである。・・・と書き出すと長くなるのでこの辺で歴史について書くのは終わりにします。

資料室では膨大な資料と文脈が紹介されていて、1度行くだけでは頭に入ってこないと思い興味がある所に重点を当てて拝観した。特別攻撃隊の家族への手紙(遺書)を読んでいると涙が自然とこぼれた。これ程までに心のこもった手紙は初めて読んだ。俺は、日本に対してどれだけのことが出来ているのか・・・。まったく出来ていない事に悔しさをおぼえ、今後国の為になるようなことを積極的に行っていきたいと素直に思えた。資料館で一番衝撃を受けたのは「人間魚雷」実物を見た時である。魚雷にはわずかの操作用スペースがあるだけだった。まさに乗ったら最後で、後は敵の戦艦にぶつかり死ぬだけである。またしても涙が溢れた。しばらくその場に立ち尽くしたあとなんとも言えない思いを胸に抱いて資料室を出た。

資料館の出た所には、記念品や資料が売られていた。私は以前から読みたかった資料、国旗、旭日旗、ピンバッチ等を結構買って遊就館を出た。雨がやみ太陽の光がまぶしかった。

その後、パール判事の石碑等を見物し第二鳥居をでた。第二鳥居から第一鳥居には、みたままつりがあるのでたくさんの夜店が出ていた。その中で大阪では絶対見られないある食べ物を発見した。東京の人にはなじみがあるのかもしれないが私にははじめて聞く名前だった。「大阪焼き」(大判焼きのプレートにお好み焼きを作ったもの)である。興味を持った私は早速の夜店に行って1つ注文した。店主になぜ「大阪焼き」ていう名前なのか聞いたところ、「大阪では有名な食べ物だと聞いてるよ。」との答えが返ってきた。大阪人である私には絶対にない食べ物であることはわかったが、あえて店主にはつっこまかった。味は、普通のお好み焼きでまずかった。しかも分厚い分中が生焼けだった。東京の人で大阪に来たことがない人は絶対ある食べ物だと思っているにちがいない。なんか複雑な気分だ。しかし、良く考えてみると大阪の夜店には多分東京の人には知らない「東京コロッケ」があることを思い出した。「東京コロッケ」はジャガイモの粉を十円玉ぐらいに丸めて衣をつけて揚げたものである。これが結構うまいのだ。けれど最近はあまり夜店で見なくなった。あれと、ビールは絶対に合うと思うけど。東京には「大阪焼き」、大阪には「東京コロッケ」とどっちもどっちだな。私は「大阪焼き」を食べながら神社を後にした。

ホテルにチェックインし少しの休憩を取った。久しぶりにテレビを見た4ヶ月ぶりぐらいかな。私は引っ越してからテレビを持っていない。お金がないのではなく無駄にテレビに時間を使ってしまう、思わず見てしまうからだ。相変わらずくだらないね。

つづく。

最終更新:2006年08月21日 14:32