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*降龍教 降龍教は、嶺南(現在の広東一帯)に伝わる流派で、その起源はおおよそ南北朝期にさかのぼる。隋王朝煬帝の時期に全盛期を迎え、その噂を聞いて学ぶ者はゆうに千人を越えた。  南北朝期、政治は乱れ、北方には鮮卑人による北魏政権が建てられ、漢民族王朝は江南に避難し、それぞれ宋、斉、梁、陳の四代の政権を樹立した。この時期の政治は安定していなかったため、民衆は生活への不安から強烈に宗教に慰めを求め、仏教、道教の隆盛を促進した。  南朝梁の武帝は晩年に仏法を狂信し、果てには三度出家するほどであり、その影響で天下において仏法が盛んになった。この時代、西域から訪れた高僧―菩提達磨(ぼだいだるま)が中原に入り、梁の武帝に謁見した。しかし菩提達磨は武帝の仏に対する考え方を受け入れることができず、北魏に向かったが、最後は嵩山少林寺に落ち着いた。菩提達磨が南朝にいた期間に、多くの人が彼に帰依したが、降龍教の創始者もそのうちの一人である。  降龍教はもともと宗教を名乗っておらず、仏法を修行する一般民衆の集団であり、厳格な肉体訓練を行うことで雑念を取り除き、仏教の理念を悟る組織であった。後に発展して隋の初期に、大量の経と講道(道を説くこと)を融合し、「尊者降龍」の故事を参考にして、戒めを持って修行する尊者が降龍の精神を真似て、正式に「降龍教」の名ができた。  しかし唐の初期、一部の教徒は規則を守らず、自分の武功をたのみに民衆を苦しめ始めた。さらには「入世修行(世の中で修行する)」の論をめぐり、内部分裂を引き起こすに至った。最後の掌門人(流派のリーダー)―釋安(しゃくあん)は年を取っていたので、晩年には仏法の修行だけに専心し、教内をまとめることに関心を持たなかったため、さらに降龍教の分裂を加速させた。  貞観10年、釋安が入寂した。釋安が生前に次の掌門人を指定していなかったため、掌門人の位をめぐって争いがおき、派内に血の雨が降り、降龍教はここに正式に分裂した。分裂後の降龍教は各地に分散し、あるものは復興を目指して弟子を広く集め、その武功はもはや秘伝のものとは言えなくなった。  降龍教の教徒は最初深い山の中で戒めを守って修行していたが、山中の猛虎野獣に対する自衛のために、両拳の使用を主とする武功を編み出した。分裂後、さらに拳に爪や鉤(かぎ)を装備するように発展した。このように最初は身を守ることを基礎とした技が、後に素手で人を殺すことができる武芸に発展していった。  世の人々は素手の降龍教の弟子を「羅漢」、鉤爪を使用するものを「夜叉」と呼んだ。
*降龍教 羅漢は素手(?)、夜叉はフックを装備する。 初期ステータスから腕力が他のキャラより飛びぬけて高いことより、前衛のアタッカーになるのでは ないかと考えられる。

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