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天剛派」(2005/08/04 (木) 14:13:12) の最新版変更点

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*天剛派 漢王朝武帝の治世、張騫を西域に派遣し、大月氏などの国と連合して北方の匈奴の侵入を絶とうとした。政治方面では西域に関しては完全に成功したとは言えないが、経済、文化、芸術の方面では中原本土と西域諸国の交流が開かれた。  天剛派の起源は、張騫とのかかわりが深い。漢の武帝建元二年、張騫は初めて西域を訪れ、大月氏とともに共同して匈奴に対抗することを求めた。しかし西域の道は全て匈奴によって支配されており、張騫は河西で捕らえられ軟禁された。匈奴の単于は張騫が妻をもらって定住するように強要し、彼が中原に帰る考えを捨てるよう意図した。しかし十数年後、張騫は隙を見て長安に逃げ帰った。軟禁された十数年、張騫に付き添って西域に向かった百人余りの中の多くの人は、かの地で家庭を築き定住した。  天剛派を創立した崔瑩は、彼の祖先の崔剛が使節団の中の一人で、彼は現地で胡人の女性―苡絲(イシ)を妻にした。苡絲の父親は斧の名人で、彼女も父親の武芸を継承し、天剛派が両手斧錘を武器にした由来である。  張騫がチャンスを見つけて逃げたとき、崔剛も妻を連れて河西を離れた。しかし張騫が続けて西に向かい、皇帝の命令を遂行しようとしていることを知ったとき、崔剛は妻のことを考え、張騫にここで故郷へ帰ることを許してくれるように申し出た。義理と人情に厚い張騫は、崔剛のこの申し出を許可した。崔剛一家は恩嶺で張騫と別れ、北に向かい、天山に定住した。その後、数百年が過ぎた。世の中と隔絶した天山で、崔家の子孫は継承された武芸を狩猟や木の伐採にのみ使っていた。崔氏家族から崔逢亭と崔逢星の二人の男女が世に出ると、全てがしだいに変わり始めた。  逢亭と逢星の兄弟は小さな頃から中原の文化に興味を持ち、いつも家の年長者が止めるのを聞かず二人で山を降り、大唐の商人がよく往来する西州に行った。彼らは商人たちの話から、まばゆいばかりに繁栄した美しい中原を想像し、非常に憧れていた。先祖から継承した武芸の方面では、彼ら二人はまるで金剛尊者が再びこの世に現れたかのようで、花舞、気勢ともに見ているものがあっけに取られ、絶賛するほどだった。ある日、この兄弟はまた山を降り、この時揚州から来た若い商人―郭士堯を助け、彼らは親友となった。郭士堯の誘いに応じて、兄弟は月のない暗い夜を選んで山を降り、郭士堯が西州に残した下僕と合流し、彼と一緒に大唐揚州にやってきた。  逢亭と逢星は崔家が編み出した天剛斧と天剛錘を中原に持ち込み、多くの侠客に憧れる人間が続々と弟子入りして学んだ。郭士堯は二人に、人に武芸を伝えることを稼業とすることを提案した。兄弟は快く受け入れ、郭士堯の協力で道場を開いて武芸を伝え、弟子は日ごとに増えていった。  しかし二人は単純な環境で成長した子供であったため、世間の悪というものに対して自覚がなかった。彼らの弟子の中には、武徳に欠け、ただ勇者ぶることを好む者が少なくなかった。二人の無邪気さは天剛派の未来に不安定な要素を残した。  天剛派は両手斧と両手錘を使用し、二人が教える技はさらに西域の胡旋舞の特色を融合し、斧をうまく使う天剛派の弟子は「金剛」、錘を神業のように扱う弟子は「尊者」と呼ばれた。これらの名称は仏教の故事に由来するものであるが、事実上、天剛派と仏教は全く関係性はない。
*天剛派 尊者は錘、金剛は斧を使って攻撃。 初期ステータスと台湾でのスキルから、前衛の壁として活躍すると思われる。 注)敏捷は防御力、体質はHPに関係あるらしい

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