「どうしたのかが美ちゃん? 御影先生命のかが美ちゃんは、お師匠様の不甲斐無い姿を見てショックをうけちゃったのかな。ん?」
突然、凰先生が座っている私を後ろから抱きかかえるようにして、しなだれかかって来ました。
「先生……重いです」
口ではそう言いましたが、私は少しドキドキしていました。凰先生、同性の私から見てもキレイな人だし、それに、ちょっといい匂いがするんです。
「急に元気ないじゃない。いつもなら思いっきり睨みつけてくるくせに」
生徒に対して嫌味ですか?
「別に、なんでもありません」
「自分だけ仲間外れみたいで寂しいとか?」
「そ、そんなことないです」
この人は、時々すごく鋭い。本当は、ちょっとうらやましかったのです。
「まぁ、仕方ないさ。うちら三人は設楽やささなが生まれた頃からのつきあいなんだぜ」
「だから、鳳、あんた、その言い回しやめてって言ってるでしょ? うぁぁ、なんか一気に年齢が上がっていくような気がするぅ」
鈴置先生の言葉を聞いて、凰先生が大げさに苦しみだし、顔を左右に引っ張る。
「あはは。バカだろ、こいつ」
「うっさい。バカでけっこーですー」
「それにさ、ささなも紗月の従姉妹だからさ、うちら赤ん坊の頃から知ってるんだ」
「そうですよ、設楽さん。先生方、中学生のときから全然変わってないんですから。いい加減、もう少し成長して欲しいですよ」
「うわ、ささなが言うか。生意気になったもんだよー。こんなに小さかったのに」
「ささなは結構、蘭になついてたのよ。おしめも取り替えてもらってるんだから」
「も、もう! お姉さままで、そんなこと言わなくても良いじゃないですか!?」
「あら、真っ赤。恥ずかしいがんなくても良いわよ。あたしはけっこう楽しかったから」
四人の様子を見ていると、やはり私なんかが入り込む余地はないということを改めて感じてしまいます。落胆と言うよりは諦めに近い感覚ですが。
「あららら、かが美ちゃん、ますます顔色がさえないわね」
なんで凰先生はいちいち私の様子をうかがっているのだろう?
「まぁさ、かようにうちらは長い付き合いなわけでさ、そう言う面で設楽が競争しても難しいわけさ」
鈴置先生は、私に気を使ってくれてるんだろうけど、なにか言葉足らずな気がしますね。
「過ぎてしまった時間を埋める事は出来ないけれど、設楽さんがここで私たちと出会ったということは、たしかな縁があるということなんだと思うの。生まれた縁を大切に育てていきましょう」
御影先生……ありがとうございます。
「そうですよ。お姉さまの言うとおりです。設楽さんももっと仲良くなりましょう!」
ささな。本当に良い子だわ。すっかり慰められた私は、冷めてしまったお茶を口に運びました。
「そりゃもう、あれよ。もしも、もっと良く紗月のことを知りたいんなら、いっそ同棲しちゃうしかないわね」
突然の凰先生の突飛な提案に私はお茶を吹き出してしまいました。
「ぶっ!! な、なにをバカなこと言ってるんですか!?」
「あら、いいじゃない? 尊敬するお師匠様に二十四時間つきっきりで人生勉強させてもらえるのよ?」
「そうだな。同棲って言うと変だが、住み込みの修行だと思えば面白かもな」
「な、鈴置先生まで」
「紗月の下で修行って言ったら、やっぱり花嫁修業かしら?」
「そうだな。設楽は努力家だし、めきめき上達するぞ! まぁ、残念ながら師匠も今だ免許皆伝ならず、ってのが問題なんだが」
「いいやー、免許ならもう立派過ぎるくらいピッカピカのゴールドよ。ペーパーなだけで」
「ふ、二人とも、一言ずつ余計よ。気にしないでね、設楽さん。いつもの調子だから」
「は、はい」
……でも確かに御影先生から直接色々な事を教えてもらえるのは魅力的。一つ屋根の下で、御影先生に朝から晩まで、優しく手取り、足取り……なに考えてるの、私? でも。
「で、でもですね、御影先生」
「はい?」
「私、その、家庭的なスキルは全然ダメですし、普通のお勉強もまだまだ足らなくて不安なんです。それで、その、できましたら、個人的に教わりたいので、放課後などにお部屋の方に伺ってもよろしいでしょうか?」
い、言っちゃった。恥ずかしい。先生の顔をまともに見られない。真っ赤になってうつむく私に、御影先生は笑顔で答えてくれました。
「え? ええ勿論いいわよ。いつでもお待ちしてるわ。分からないことがあったら、いくらでも教えてあげる」
え、ええ? そんな、幸せ過ぎます!
『いつでもお待ちしてる』? 『いくらでも教えてあげる』?
そんな御影先生の言葉が、私の頭の中に渦を巻き始めました。
『失礼します、御影先生』
『設楽さん、ふふ、待っていたわ。上がって。今日はどうしたの?』
『はい。お勉強を教わりに来ました』
『ふふ……教わりたいのは、お勉強だけ?』
『え、ええ? 御影先生……』
『きれいな手。これは若いだけじゃないわね。今まであまり水仕事などしてこなかったのでしょう? いけない娘ね』
『えーと、はい。家庭的な事はあまりしてこなかったので。……その、そういうことも教えてもらえたらと』
『あなたがその気なら、あなたの知らない色々な事、私がいくらでも教えてあげる』
『み、御影先生』
『どうしたの?』
『そろそろ、手を離していただけませんか?』
『どうして?』
『は、恥ずかしいです』
『ごめんなさい。かが美さんの手、あまりに肌触りが良かったから』
『かが美……』
『名前で呼ばれるのは、嫌い?』
『い、いえ! 嬉しいです。とても、嬉しい』
『あなたも、私のこと好きな風に呼んで良いのよ。さ、遠慮しないで』
『え? さ、紗月お姉さま!』
『赤くなって、かわいい、かが美さん』
『あ、紗月、お姉さま』
「設楽さん、設楽さんってば! どうしたんです、ボーっとして。顔、赤いですよ」
ささなの声が私を現実に引き戻しました。少しの間、トリップしていたようです。
うあぁ、あーあー! 私ったら、何を考えてるの、何を!!
「ごめんなさい、なんでもないのよ。そろそろ用事を済まさなきゃね。あ、ん、御影先生、この間委員長に頼まれたんですけど……」
私は恥ずかしさを隠すために、意識的に真面目な表情を作って、わざとまっすぐに御影先生の顔を見ました。そのときです。私は鼻の奥から生暖かい何かが落ちてくるのを感じました。
「あ、あれ?」
右の鼻の穴から溢れたそれは、腿の辺りに落ちたのです。ポタ、ポタ。
「わわ、設楽さん! は、鼻血!」
私はとっさに鼻を抑えました。手のひらにヌルッとした感触を感じた途端、私の頭は真っ白になりました。
「な、なによこれぇ!」
一瞬、私は周りのみんなの顔を見てしまいました。驚いたように凝視する視線が私を追い込みました。
「う、あ、ああ、ち、違うんです、これ。あ、あの、そういうことではなくて……。ええ? な、なんで鼻血なんか」
そう言う私の声は、パニックで涙声になっていました。あんなやましい妄想をしたから、バチが当たったのでしょう。みんなの前でこんな醜態を晒すなんて。
そのときです。凰先生が立ち上がりました。
「私の出番みたいね。ハイハイ、パニくっちゃだめよ。ほら、かが美ちゃん、上を向いて、鼻の頭を抑えて、速やかにこっちに来て座る!」
私は凰先生の指示に促されるまま、ベッド脇の椅子に腰掛けました。
「蘭、大丈夫なの?」
「心配しないでよ、紗月。これでも保健の先生よ。みんな、ちょっと待っててね。かが美ちゃんの応急処置、ちゃっちゃっとしちゃうから」
凰先生はそう言うと、カーテンを閉めました。
「ほらぁ、いい歳して鼻血くらいで泣かないの」
凰先生はわざとらしく大きな声で言いました。私は一瞬バカにされたと思って睨みつけてしまいましたが、凰先生はそれを無視して急に顔を近づけると、小声で話し掛けてきました。
(かが美ちゃん。あんたね、なにしてんのよ。人の下ネタには眼向いて怒るくせに)
そして、いったん私から離れると、ピンセットや脱脂綿を用意し始めました。私は、自分のやましい妄想を全て見抜かれてしまったのが恥ずかしくて、悲しくて、でも鼻血が出ているからうつむく事も出来ず、ただ眼をつぶって鼻を抑え、上を向いていました。
「さ、見せて。ハイ、手をどけて。あららん、かわいい顔が台無しじゃない」
戻ってきた凰先生は私の顔や手を拭きながら、またも小声で話し掛けてきました。
(普段、勉強ばっかりして、鬱憤をためてるからそういう風になるのよ。たまには思い切りバカやって息抜きしなさいな)
(わ、私だって、まさかこんな事になるなんて、思ってなくて……)
凰先生に釣られて私も小声になってしまいます。
「そう大げさにとらないの。ただちょっとのぼせただけなんだから」
時折り少し声のトーンを上げる凰先生。よく聞くと、その言葉はフォローしてくれているようにも思えました。
(んー、もう。泣かないでよ。あたしはかが美ちゃんの気持ちを否定しようって気はさらさらないんだから)
(どういう意味ですか?)
「かが美ちゃんくらいの年頃はね、良くあるのよ。体温が高いから、調節が聞きにくいのね……」
(……でもね、憧れの人を過度に自分と重ねたり、ひん曲がった愛情を持っちゃったりすると、後がつらいわよ)
わかっているつもりでした。でも、今の状態では何も言えません。
「あたしもね、ちょっと経験あんのだわ。かが美ちゃんとはちょっと違うけどね」
(え? 先生も?)
「そうよ。あたしも大変だったんだから……」
(……私なんかさ、他人への依存だけで生きてきたみたいなもんだもの。今日もそうだけど、あの二人がいなかったらどうなっていたか)
(……凰先生)
(あんまし、自分を見失っちゃダメよ。難しいだろうけど。ま、悩んだら悩んだ分だけ大きくなれる、なんていう人もいるから。せいぜい悩みなさい)
いままで毛嫌いしていた凰先生が私のことを見ていてくれたことが申し訳なくて、嬉しくて仕方ありませんでした。
「はい、綿つめ終わり。もう大丈夫よ」
「……すみません。ご迷惑をおかけしました。皆さんにもこんな姿を見せてしまって」
「いいの、いいの。かが美ちゃんが悪いわけじゃないわ。みんなも気にしてないわよ、ね!」
凰先生はベッドの掛け布団を捲ると、うつむく私に軽くウインクしました。
(大丈夫よ、あの三人なら。揃いも揃ってニブチンばっかりなんだから。もうすこし他人の心のヒダってヤツを読みとって欲しいわよね)
私もひとつお辞儀をしました。それは、今日、カーテンの中で交わされた会話が二人だけの秘密であるという契約のようなものだったと思います。
「さて、少し横になった方が良いわ。窓開ける? 暖房効きすぎなのよ、この部屋は。普段は体温低いおばさんばっかり集まるから」
私が布団に入ると、凰先生はカーテンの向こうに出て行きました。私には向こうの声だけが聞こえて来ました。
「ホラ、あんたたち、少しは気を利かせなさい! 病人が出てんのよ」
「なんだよ。普段は一番気がきかないくせに」
「あれは気が利かないんじゃなくて、気を回していないの! ところでさぁ、紗月」
「なに?」
「かが美ちゃんのスカート、ちょっと血が付いちゃったんだけど、染み抜きとかできる?」
「ちゃんと見てみないことには分からないわね」
「あとでさ、持ってくように言うから、そんときはお願いね」
「ええ。いいわよ」
凰先生、ひょっとして私が御影先生の所に行く口実を作ってくれているのかしら? そう思ったところで私は本当にうとうとしてしまい、いつしか眠ってしまったのでした。
それからどれくらいったのでしょうか。私が眼を覚ましたときはすでに日が暮れていました。既に保健室はガランとしていましたが、机の所にはつっぷして居眠りをする凰先生の姿がありました。私が起きるまで待っていてくれたのでしょう。声をかけようかとも思ったのですが、寝顔が幸せそうだったので、置手紙だけして帰ってきたのでした。
凰蘭先生へ
本日はご迷惑をおかけしました。一言お礼をとも思ったのですが、お休み中のようでしたので、手紙で失礼します。ありがとうございました。今度、保健室の大掃除があるときは私にもお手伝いさせてください。お茶会も楽しみにしています。
設楽かが美
(おしまい)