私には夢がある


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キング牧師


『私には夢がある。
いつの日にか、ジョージアの赤土の丘の上で、
かつて奴隷であった者たちの子孫と、
かつて奴隷主であった者たちの子孫が、
兄弟として同じテーブルに向かい
腰掛ける時がくるという夢を。
自由だ、ついに自由だ、全能の神よ、感謝します。
ついに我々は自由になったのだ。』

1963年8月23日リンカーン記念公園にて
「I HAVE A DREAM」より

 1955年、一人の黒人の夫人が白人の乗客にバスの席を譲らなかったため、逮捕され有罪になりました。当時、特に南郡地方では、黒人に対する人種差別が激しかったのです。次第に人間としての当然の権利を獲得しようとする黒人が増え、武力行使に及ぶ人々が現われました。そんな中、その人たちに暴力や憎しみの闘争ではなく、人間としての尊厳を保つ非暴力による抵抗を提唱し、先頭に立って闘ったのが、まだ若きマーチン・ルーサー・キングJr牧師でした。ガンジーの非暴力闘争に深い共感を抱いていた26歳のキング牧師は、彼らに非暴力による整然とした抗議運動を呼びかけました。それがバス差別がなくなるまでバスに乗らない「バス・ボイコット運動」だったのです。

 運動が始まると大勢の黒人たちは朝早く起き、雨の日であっても歩いて職場へ通いました。歩くのが難しい人のため黒人タクシーを集めて用意しました。キング牧師が、ある老婦人に「あなたはもう十分に歩きました。これからは車に乗ってください」といたわると、「足は疲れても、魂は安らぎを感じるのです。私は、私の子供や孫のために歩きます」と婦人は嬉しそうに答えました。バスはガラガラで走らなければならなくなり、市や警察はあらゆる嫌がらせをしました。

ボイコット運動が続けられて1年の歳月が過ぎた1956年、彼らの粘り強い闘いによって、ついにバス差別が撒廃されることになります。

合衆国最高裁判所が「差別は違憲」との判決を下したのです。この勝利は、長年差別に苦しめられてきた南部の黒人たちに計り知れない勇気と希望を与えました。翌年には、リトルロックの高校で教育委員会が初めて黒人の入学を許可し、9人の黒人学生が入学することになりました。

 1963年、ワシントンに結集した25万人の前で、キング牧師の「私には夢がある」の演説が行われました。それは歴史に残る演説として有名となり、学校では必ず教えられ、公民権とは何か、平等とは何かを考えさせる基本となっています。しかも、この集会に集まった人の4分の1は白人だったということからも、彼の運動がいかに幅広い支待を得ていたかわかるでしょう。

 そして翌年、ついに黒人の投票権を認める公民権法が成立します。同年、非暴力主義を貫いて、平等を達成した運動の措導者として、キング牧師にノーベル平和賞が授与されました。彼は自分の力ではないと、賞金のほとんどを諸団体に寄附したのです。

 しかし、黒人と平等になることを嫌う狂信的な白人もいました。彼らは必死になってキング牧師らの活動を妨害しようとしたのです。そして、とうとう1968年4月テネシー州のメンフィスの清掃組合のストライキの応援にきたキング牧師は、ホテルのテラスで彼らの一人が放った凶弾に倒れました。享年39歳。アメリカはキング牧師の偉大な生涯と、アメリカに正義をもたらした功績とを称え、キング牧師の誕生日(1月15日)を記念して、1月の第3月曜日を国民の祝日に制定しています。


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