杉原千畝


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~日本のシンドラー、杉原千畝~

 みなさんは、6000人の命を救った男、杉原千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)という人物をご存知でしょうか。

 世界中の人から日本のシンドラーと称えられた、クリスチャン外交官です。

 杉原に関する書物は多く、過去テレビドラマ化されたこともあるので、一度は聞いたことのある名前ではないでしょうか。彼が活躍したのは,今からちょうど70年前のことです。時は第二次世界大戦の真っただ中。世界が戦火にのまれて行く中、ヨーロッパの地は最悪の状況にありました。特に、ナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺、ホロコーストはその最たるもので、犠牲者の数は600万ともいわれており、多くのユダヤ人が命を落としました。

 そんな状況の中、ヨーロッパの中の一国リトアニアで日本領事代理を務めていた杉原のもとにも、その余波はやってきました。1940年の7月のことです。杉原がいつものように領事館で働いていると、まわりにユダヤ人たちが集まってきたのです。その数はみるみる増え、人々は口々に叫びます。「ビザを出してくれ」「俺たちを助けてくれ」。

 ナチスドイツの目を盗んで逃げてきたユダヤ人たちが、ヨーロッパから逃れるためビザを求めて、杉原のもとに押し寄せたのです。杉原は、本国の外務省にビザ発行の許可を求めますが、許可はおりませんでした。日本とドイツは同盟を結んでいたので当然です。杉原は悩みます。このまま放っておけば、目の前のユダヤ人たちは、いずれ殺されてしまう。しかし、日本の外務省はビザの発行を認めない。ビザを書けば、彼らは助かる。でもビザを書くことは、自分の身の安全すら危うくなること…。しかし、主の御手は杉原を強め、歴史は動きました。

 杉原は、自分の身の安全を捨てて、ビザを書いたのです。本国から再三の退去命令を受けながらも、目の前のユダヤ人たちのため、1ヶ月余りの間、ビザを書き続けたのです。その間に発行されたビザの枚数は、記録されているだけでも2000あまり。6000人以上の人たちが、そのビザにより救われたといいます。目の前の人を救いたいという思いが、杉原に行動させたのです。

 帰国後、杉原はその責任を問われて外務省を解職となりましたが、このように語ったそうです。

「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私には彼らを見殺しにすることはできなかった」「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」。


 一年を終えようとする今、私たちが周囲の環境や状況に翻弄されずに、本当にすべきこと・貫くべきことはなんでしょうか。来年も素晴らしい年となるよう、過去の偉大な人物に思いを巡らすのも乙なものです。

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