ヒゼキヤ王の祈り


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ヒゼキヤ王の治世6年に、北イスラエル王国はアッシリアにより滅亡されました。そしてこの物語はヒゼキヤの治世14年の話です。私達はこの時代、アッシリアという国が北イスラエル王国を滅ぼし、また南ユダ王国にも攻撃の手が迫るという国家的な危機の中で、いかにしてヒゼキヤがこの危機を乗り越えたのかを見ることができます。私達は実は、この記事は列王記下、歴代誌下、そしてイザヤ書にまで同じ記事があることを見つけることができます。実に旧約聖書で3か所も同じ内容が残されています。主がこの歴史的な主の勝利の出来事をいかに心にとめておられるかが分かります。

19:14ヒゼキヤはこの手紙を使者の手から受け取って読むと、主の神殿に上って行った。ヒゼキヤはそれを主の前に広げ、19:15主の前で祈った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。19:16主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて御覧ください。生ける神をののしるために人を遣わしてきたセンナケリブの言葉を聞いてください。19:17主よ、確かにアッシリアの王たちは諸国とその国土を荒らし、19:18その神々を火に投げ込みましたが、それらは神ではなく、木や石であって、人間が手で造ったものにすぎません。彼らはこれを滅ぼしてしまいました。19:19わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください。」

これがヒゼキヤ王の祈りでした。
ヒゼキヤの決心を見よう。彼は18章13節からを見てみれば、攻め込んできたアッシリアに対して恐れにとらわれました。そして貢物を治めて何とか国を滅ぼさないで欲しいと、懇願したのでした。その時、本当に人間臭い方法でヒゼキヤはこのアッシリアの攻撃に向き合ったことが分かります。
今度はそうではありませんでした。貢物を納めるのではない。人間的な方法でやるのではない。ヒゼキヤは主の神殿に上って、主の前で祈ったとあります。主に対する祈りの勝負に専念しましょう。
本当の危機に際して、霊的に目を覚ますことが大切です。
人間臭い知恵と計略に陥りがちである。特に賢ければ賢いほど、人間的な知恵と計略に陥りやすいです。イスラエルの歴史を見てみましょう。最も知恵のある王様がいました。それがソロモンです。彼はその天才的な知恵を用いて国を治めました。その中の一つが、政略結婚です。エジプトから妻をめとりました。確かに周辺の国との関係は良好になるでしょう。しかし、真の神でない偶像崇拝が王家に入りこんで来ました。ソロモンは晩年、そのような1,000人の妻たちに惑わされて、偶像崇拝に転落しました。人間の知恵は空しいものです。
ヒゼキヤはこのような真の危機に瀕して、ただ主のみにより頼む姿勢を示したのは幸いな事です。私達はどうでしょうか?様々な人生の危機の中で本当に主により頼んでいるでしょうか?
祈りにおいて大事なことがある。それは自分個人の必要なことは勿論、主だけが神である事を知るように、という祈りが大切である。主の祈りもそうである。最初に『願わくば御名を崇めさせたまえ』とある。
つまり、主の御名があがめられるように、主の栄光が称えられるように、これが祈りの第一になるべきであるし、主はそういう祈りを喜ばれるのです。ヒゼキヤの祈りは意味のある祈りでした。主の栄光を現れることを願う祈りでした。そのアッシリアの手から救うことにも意味と目的がありました。全ての国々が、主こそ神であることを知るようになるためです。

19:20アモツの子イザヤは、ヒゼキヤに人を遣わして言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『アッシリアの王センナケリブのことであなたがわたしにささげた祈りをわたしは聞いた。』19:21主がアッシリアの王に向かって告げられた言葉はこうである。おとめである、娘シオンは/お前を辱め、お前を嘲る。娘エルサレムは/お前に背を向け、頭を振る。19:22お前は誰をののしり、侮ったのか。誰に向かって大声をあげ/高慢な目つきをしたのか。イスラエルの聖なる方に向かってではなかったか。
主は祈りを聞かれるお方である。
国家存亡の危機での祈り。緊急の祈り。祈りの要請をしました。
また、ヒゼキヤの良かった点は、預言者イザヤに祈りを要請した点です。
列王記下19:4生ける神をののしるために、その主君、アッシリアの王によって遣わされて来たラブ・シャケのすべての言葉を、あなたの神、主は恐らく聞かれたことであろう。あなたの神、主はお聞きになったその言葉をとがめられるであろうが、ここに残っている者のために祈ってほしい。』」
王と預言者はともに祈った。私たちは日々どれ位人々に祈りを要請しているでしょうか?本当に祈りに力があると確信しているならば、私たちは自ら祈るだけではなく、祈りを要請することができるはずです。今、自らが置かれている状況、それを隠すことなく、ありのままを話し、助けを求めるという、謙遜な姿勢があるかどうかが大切です。
我々が祈るよりも、主は我々に対して語ることが多い。ヒゼキヤはイザヤと共に祈った。
歴代誌下32章20節 ヒゼキヤ王と預言者、アモツの子イザヤはこの事のために祈り、天に助けを求めて叫んだ。
祈る人はあなただけではない。
主はヒゼキヤの祈りを『聞いた』。もう一度考えましょう。主は祈りを聞かれる方、主は私たちの苦しみを『御覧になる』方であります。
出エジプト3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」
とあるようにです。そして、聞かれるだけではなく、語られるお方です。預言者イザヤを通して語られる内容を考えましょう。主はヒゼキヤの祈りを聞き、明確に答えられます。私たちはどうでしょうか?祈りはします。しかし、祈りの答えを期待する信仰があるでしょうか?今日の本文を見れば、ヒゼキヤが祈った言葉よりも、主が語った言葉の方がよっぽど多い事がわかります。つまり、主は私達が語る以上に語り、私達が愛する以上に愛されるお方です。この国家的な危機に瀕している南ユダ王国、ヒゼキヤは苦しみの中で祈っています。しかし、その状況を苦しまれない主ではありません。悲しまれないお方ではありません。私達は、自分自身の熱心さよりも、主ご自身の熱心さがはるかに勝ることを確信しましょう。そして、祈りの答えを期待する信仰を持ちましょう。私達は実は、祈りはするけれども、答えを期待しないことが多いです。
我々はいかに不信仰か考えてみましょう。私達が魂を愛する心より、主がその魂を愛する心がもっと強いはずです。私達が日本の民族の福音化を願うよりも、主が日本の民族の福音化を願う心がもっと強いはずです。
Ⅰテモテ2:4神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
切なる祈りを捧げ、そこで満足して終わる場合が多いです。今日の聖書の本文を読みましょう。ヒゼキヤが祈った後が大切です。それに対して預言者を通して語る主の御心が大切です。

主は様々な方法を通して祈る私達に語られます。それが礼拝のメッセージを通しても、聖書勉強を通して、または環境や状況の変化、兄弟姉妹や先生の方のアドバイスを通して、主の御旨を現わされるのです。
私達は主の答えが様々な方法を通して私達に与えられることを信じ、期待し、主の御言葉を慕い求める私達になりましょう。

三つ目に、ヒゼキヤの祈りは明確な変化と目覚ましい結果をもたらしました。
19:35その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。19:36アッシリアの王センナケリブは、そこをたって帰って行き、ニネベに落ち着いた。19:37彼が自分の神ニスロクの神殿で礼拝しているときに、アドラメレクとサルエツェルが彼を剣にかけて殺した。彼らはアララトの地に逃亡し、センナケリブに代わってその子エサル・ハドンが王となった。

最後はどうなったのか?祈った後の結末が大事である。何も起きていないならば、祈りの意味はなかった。しかし、大きな出来事が起きた。何と18万5千人のアッシリア兵が一夜にして全滅した。主の御使いによってそれが起こされました。マタイによる福音書において、
マタイ26:53わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
と主が言われたのはまさに真実であります。それだけではなく、王もクーデターにより殺された。想像した以上の劇的な結果が起こされました。今まで、イスラエルの神を嘲り、罵り、自らの力が絶対であるかのように傲慢に振る舞ったアッシリアの軍隊と王が1日にして全滅したという事実を私達はどう受け止めれば良いでしょうか?主なる神様は、全ての戦い、戦争を導かれるお方であります。全ての霊的な戦いの責任は主にあります。だからこそ、このような戦いにおいて、クリスチャンが不利になり、クリスチャンが涙を見るような結果だけは起こされないことを私は主にあって確信しています。
これはヒゼキヤの祈りが大切だというよりも、ヒゼキヤ王の切なる願いと、主の御心が一致しているが故に、このような御業は起こされました。
Ⅰヨハネ5:14 何事でも神の御心に適うことを私達が願うなら、神は聞き入れて下さる。これが神に対する私達の確信です。
主は真実な祈りを聞いたならば、何もなさらないではおかれないということです。一夜にして主は働かれました。そして、その働きは完全でした。18万5千人が一度に滅びました。その勝利は完全でした。しかも、その勝利に対して、南ユダの兵士達がした働きは何もありませんでした。ここに、私達は主の十字架の御業を思い起こすことができます。
エフェソ2:8 事実、あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。2:9行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。
このアッシリアにおける南ユダ王国の大勝利がありました。しかし、それは一方的な主の恵みであり、南ユダの行いによるものではありませんでした。私達も、主イエス・キリストがこのような大勝利をカルバリの十字架で成し遂げられたのを見ることができます。十字架の死は完全な勝利です。そこで、あらゆるサタンの計画は打ち破られました。私達をもはや誰も罪に定めることはできません。
全てのクリスチャンは、主が成し遂げられた偉大な十字架の勝利の元にいることに感謝しましょう。
そして、私達の日々の信仰生活においても、主が成し遂げられた勝利を期待して歩みましょう。
そして、主は私たちを救って下さるお方である、という基本的な信仰を忘れてはならないのです。苦難の時にいる私たちを顧みて下さる。切に呼び求める神の子らに助けの手を差し伸べて下さる。


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