問題解決のためのザ・バイブル⑥


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渉外弁護士 佐々木 満男


■本稿は東大新報1999年10月25日号の原稿です。



問題の解決とは


「問題の解決」には二つのケースがある。第一のケースは「問題そのものを解決する」ことである。第二のケースは「問題に対する自分の思いを解決する」ことである。第一は「問題の客観的解決」であり、第二は「問題の主観的解決」である。

病気になったら治りたい、裁判になったら勝訴したい、経済的破綻に直面したら立ち直りたい、というのが人情の常だ。そこで、なんとかして治ろう、なんとかして勝とう、なんとかして立ち直ろうと、あの手この手を尽くしてがんばるのである。

けれども、病気が治っても、裁判に勝っても、経済破綻から立ち直っても、問題はそれで尽きるわけではない。また再び、次から次へと新しい問題に直面せざるを得なくなる。だから人は一生の間、あの問題にぶつかりこの問題にぶつかって、がんばってがんばって生きていかなくてはならない。

真面目な人、責任感・正義感の強い人ほど、さまざまな問題に取り組んでいくうちに、やがては精魂尽き果ててしまう。それは「問題そのものを解決する」ことのみを、すなわち「問題の客観的解決」のみを目指して追求しつづけるからだ。

聖書は「問題そのものを解決する」ことを最も大切なこととはしていない。それよりも、「問題に対する自分の思いを解決する」ことが最も大切なのである。なぜなら、ひとたび問題に対する自分のネガティブな思いを根本的に克服することができたならば、あらゆる問題に対処していける秘訣を心得たことになるからだ。そしてそれは、「問題そのもを解決する」力にもなっていく。


いのちより大切なもの

「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」と星野富弘さんは書いている。

星野さんは高校の体育の教師をしていたが、あるとき跳箱の着地に失敗して首の骨を折ってしまった。以後首から下が完全に麻痺してしまい、医学的には治る見込みは全くない。失意のどん底で何度も自殺を考えた。絶望の中で友人からもらった聖書をむさぼるように読んだ。そしてイエス・キリストと出会うことができた。その時から生きる希望を取り戻して、口で筆をくわえて心をこめて詩と絵を画き始めたのである。

今や星野さんの詩画は、日本だけでなく、世界中の人々に感動を呼び起こしている。「こんなに大きなハンディがあるのによくやっているなあ」という同情心からだけではない。星野さんの詩画をとおして、深い安らぎと生きる大きな喜びが伝わってくるからである。

彼としても治りたいという気持ちがないわけではないであろう。しかし首下不随の重度身体障害という問題に対する自分のネガティブな思いを根本的に克服して、喜んで生きているのだ。

「いのちより大切なものって、何ですか?」。多くの人が彼にこう質問してくる。その答えは、イエス・キリストを信じることによって得られる「永遠のいのち」である。「肉体のいのち」を越える「永遠のいのち」への確信は、「今あるハンディはこの世に生きている限りのものであって、この世を去り天国に迎え入れられたときには、すべてのハンディは取り除かれる」という希望を生み出すのである。

目が見えない、耳が聞こえない、口で話せない、という三重苦を負ったヘレン・ケラーも、キリストを信じて「永遠のいのち」を得た。それによって、三重苦という問題に対するネガティブな思いから完全に解放されたのである。彼女は生涯にわたって世界各国を回って、その喜びと希望を多くの人々に伝えつづけた。

「神はそのひとり子(イエス・キリスト)を賜ったほどに世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネの福音書三章十六節)と聖書に書かれている。「この一句を信じるか否かに、私たちの人生のすべてがかかっている」と言っても、言い過ぎではない。

こうして永遠の未来に対して明るい希望を持つことができるならば、私たちは直面する諸問題を乗り越えて喜んで生きていけるのだ。


永遠かこの世限りか

「神は人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書三章十一節)と聖書にある。だから、たかだか百年足らずのこの世のいのちに人は満足できないのである。この世の短い期間内での淡い希望は、何かの障害ですぐに失望に変わってしまう。この世だけで私たちの人生のつじつまを合わせようとしても合わないのである。そこには不合理と不公平しかないように思われる。

だが、真に永遠を思うならば、本物のゆるがない希望が湧いてくる。永遠のスパン(視点)に立って、この世のつかの間の人生を見てみると、皆どんぐりの背くらべだ。元気はつらつとしたスポーツ選手もベッドに寝たきりの重度の身障の方も、大差ない。大富豪もホームレスの方も、皆同じだ。東大卒も小学校にも行けなかった方も、大して変わらない。

永遠に生きられる(生かされている)絶大な価値に比べれば、この世で何をしたか、何になったかなどは、ささいなことにすぎない。永遠への希望があるから、いかなる状況におかれても、喜びと感謝をもって今を生きられるのである。けれども、いのちをこの世限りのものと限定するならば、いつかはこの世に失望し、ついには自分に絶望せざるを得ない。

ある公立大学の某助教授は、学生たちに、「あなたの人生に一切意味はない」と教えている。「人生には強弱しかない。善悪などはない。生は全く無意味だ。だから今ここを楽しく生きればそれでよい。生きるも死ぬもあなたの勝手だ」と言って、日本の虚無的な若者たちに大いに受けているようである。これは「神は死んだ!」と叫んで神を徹底的に否定し、最後には発狂して死んだフリードリヒ・ニーチェの思想をルーツとするものである。また某氏によって出版された「完全自殺マニュアル」なる本が百万部以上も売れている。

ちなみに右の両名は東大卒である。彼らの信奉者、愛読者が自殺をしてもあまり意に介さないようだ。自殺者の一人は公務員試験に合格して大蔵省に内定していた東大の女子学生であるという。

要するに、「今ここを楽しく生きればそれでよい」という思想のベースは「この世への失望」であり、その結末は「自分への絶望」である。このような虚無的傾向は、天地万物の創造主を知らない、あるいはこれを信じようとしない現代日本の世相を端的に反映している。


問題解決の切り札

多くの人々は死があらゆる問題を解決する最後の切り札であると思っている。私たちのいのちがこの世限りのものであると考えるなら、それが当然の帰結である。刹那の楽しみのみを追い求め、人生の問題の解決に本気で正面から取り組むことを放棄し、逃げつづけようとすれば、最後には死ぬ他ないのである。また、社会の巨悪と対決し正義を貫いて生きた某元検事総長も「人は死ねばゴミになる」という本を著して世を去った。神と出会い、神の永遠のスパンで物事を見ることができなければ、誰もがこのようなむなしい結末を迎えざるを得ない。

だが、信じようが、信じまいが、永遠にして無限なる天地万物の創造主は存在する。この愛の神の存在に気づいて出会うことこそが、あっという間の人生の唯一・最大の目的(人の存在理由)である。もしこの神に出会うならば、生きることにすばらしい意味があることがわかる。私たちは、無目的、偶然、勝手に生きているのではなく、神に生かされ愛されていることがわかってくる。本当の生き甲斐(生きる意味)を発見し、希望と喜びをもって、あらゆる問題に積極的に対処していくことができるようになる。ここにあらゆる問題を解決する本物の切り札がある。

虚弱な修道女マザー・テレサは、イエス・キリストの愛に押し出されて、たった一人でカルカッタの貧民窟に入って行った。彼女はそこで飢えと病いで苦しみながら死んでいく人々を喜んで助けつづけた。同様に、キリストのいのちと結ばれている者の誰にでも、自ら問題のただ中に入っていく愛と勇気と力とが与えられてくる。

「死に至る病」を書いた実存主義哲学者セーレン・キルケゴールは、苦悩しつつ生きる意味を問いつづけた末、ついにこう結論した。

「失望したければ世の中を見よ。絶望したければ自分を見よ。希望を持ちたければキリストを見よ」

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