主の導きに従う No.1


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主の導きに従う No.1



弁護士 佐々木 満男


■本稿は“恵みの雨”連載記事「あらゆる問題は解決できる」の98年9月号の原稿です。


私たちが問題に直面したときに五番目になすべきことは、「主の導きに従う」ことです。


1.「天命」が先か、「人事」が先か

「人事を尽くして天命を待つ」という諺があります。一般にはこれが問題解決の秘訣であるとされています。クリスチャンの中にもこのように主張される方がいるようです。

「多くのクリスチャンが祈ってばかりいて何もしないでいます。だから問題が解決しないのです。まず自分の知恵と自分の力でできる限りの努力をして初めて、主から問題解決というごほうびをいただけるのです」と言うのです。もしそうだとすると神を信じていても信じていなくても同じことです。

しかし本当にそうなのでしょうか。もしそのようにして問題が解決すると、「私があれだけがんばって努力をしたから問題が解決したのだ」と思ってしまいます。それは「自画自賛」という高慢につながります。そういう人は律法主義に傾いて他の人を裁いてしまいます。

逆に、そのようにしても問題が解決しないと、「きっとこれが神の御心にちがいない、このままでいいのだ」とあきらめてしまうか、「そもそも神の御心など人間にはわからないのだ」と信仰の破綻を来たしてしまいます。またある方は、「あれほどがんばったのに、神は応えて下さらなかった」と、神を恨んだり、呪ったりします。

私たちが主に祈るのは、問題解決のために主の導きを得るためです。主は全知全能なるお方です。ですから、私たちの問題の全てを知っておられ、全ての問題を解決する力をお持ちなのです。

聖書を読めばよくわかりますが、主は時と場合に応じていろいろな導き方をなさいます。ある時はいくら祈っても何の導きもないように思えます。ある時は「何もしないで待ちなさい」と導かれます。ある時は「○○さんに助けてもらいなさい」と導かれます。またある時は「○○をしなさい」と導かれます。とにかく、主を信頼して、主の導きに忠実に従っていくときに、主による問題解決という恵みを受けるのです。



2.天命を待って人事を尽くす

ですから、「天命を待って人事を尽くす」のが神を信じる者の生き方であると思います。「天命を待つ」とは、まずよく祈って「主の導きを待ち望む」ということです。

私たちの肉性は、すぐに問題解決の現実の結果を得ようと動いてしまいます。しかし「信じる者はあわてることはない」(イザヤ28章16節)とありますように、私たちの人生の全ては主の御手の内にあるのですから、あわてることは何もないのです。「人事を尽くす」とは、主の導きがあったときに、それに忠実に従うために全力を尽くすということです。

祈っても主の導きがないか、主の導きが「何もしないで待ちなさい」ということであれば、何もしないで待たなければなりません。状況がどんどん動いているときに何もしないで待つことはつらいことです。また、結論が出るまで長期間かかるときは、何もしないで待ち続けることは、もっと大変です。

主の導きが「○○さんに助けてもらいなさい」ということであれば、その方に助けてもらわなければなりません。その方が自分の気に入らない方かもしれません。また自分の思いどおりに動いてくれないかもしれません。でも、その方の助けにまかせなければならないのです。

また、主の導きが「○○をしなさい」ということであれば、そのことがどんないやなことであっても、全力を尽くしてそれをしなければなりません。


3.連続幼児殺人事件


かつて私が心から信頼していた方から重大な相談を受けました。当時世間を大きく騒がせ、恐怖に陥入れていた連続幼児殺人事件のことでした。

その方の知人のご主人(X氏)に犯人のモンタージュ写真がそっくり似ていることや、性格、素行、精神状況や住居地から見て、X氏が犯人に間違いないと言うのです。大至急、私の知っている筋を通して警察庁か検察庁に内密に調査を依頼してほしいと頼まれました。X氏は某大手建設会社の設計技師をしているということです。

その事件の犯人が1日でも早く捕まるように祈っていましたので、その話を聞いて私は、「これは重大だ。すぐに手を打たないと次々に犠牲者が出たら大変なことになる」と思い、その場で友人の検事に電話をしようとしました。

でもとっさに、「もし万一X氏が犯人でなかったらとんでもないことになってしまう。これだけの大事件だから、有力犯人ということでマスコミにも大きく取り上げられるであろう。そうしたら、X氏や家族や勤務先にも回復しがたい損害を与えてしまうことになりかねない」と思いました。

また、X氏が無実の罪で有罪にされてしまう可能性や、X氏に捜査の関心が集中している間に真犯人による次の殺害の可能性も考えられました。

そこでまず主に祈って、主の導きを求めることにしたのです。ところが祈っても祈っても、なかなか主から明確な導きが与えられません。どんどん日が経っていきます。放っておいて次の犠牲者が出たら大変だという思いと、万一まちがっていたら大きな迷惑をかけてしまうという思いの板ばさみにあって、非常に苦しみました。

日々のニュースを追えば追うほど、X氏が犯人にまちがいないという確信が強まってきます。何度も何度も受話器を手にして検事に電話をしようとしました。しかしその都度、「いやこれは重大なことだ。まず主の導きがなければしてはいけない」と思いとどまりました。

数週間が過ぎたある日、各新聞の第一面にでかでかと犯人逮捕のニュースが載りました。X氏ではありませんでした。私は呆然としてしまいました。犯人はX氏だとほぼ99パーセント思い込んでいたからです。

やはり私にゴー・サインを出さなかった主が正しかったのです。主の導きに従おうとしていて本当によかったと思いました。自分の知識と思いに従っていたら、きっととんでもない大混乱を引き起こしてしまったことでしょう。


心をつくして主に信頼せよ。自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる(箴言3章5節、6節)。


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