罪を憎んで人を憎まず


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ヨハン早稲田キリスト教会 文書宣教部

ゆるす



弁護士 佐々木 満男

■本稿は“恵みの雨”連載記事「あらゆる問題は解決できる」の99年2月号の原稿です。


1.罪を憎んで人を憎まず

問題を解決するために最も大切なことのひとつは、人を「ゆるす」ことです。

ビジネスの紛争にしても、夫婦や親子の間のトラブルにしても、これまで仲良くやってきた人たちが、お互いに争って憎み合うことは悲しいことです。

多くの場合、「ゆるせない」という思いと「ゆるさない」という固い意志が、問題の解決を非常に難しくしてしまいます。紛争やトラブルの解決のチャンスの芽が生まれてきても、「ゆるさない」気持ちがそれを摘んでしまうからです。

なぜ私たちに罪を犯した人をゆるさなければならないのでしょうか。それは、神の目から見れば、私たちもまた多くの罪を犯している者であるからです。「主の祈り」にありますように、人の罪をゆるすなら、私たちの罪もゆるされるのです(マタイ6章12節、14節、15節)。

罪は悪として憎み、忌み嫌うべきですが、人まで憎んではいけないということです。公平と正義、すなわち「神の義」は貫かれなければなりません。でも「神の義」ではなく、自分の利益を守るためだけの「人の義」が主張される場合が多いのではないでしょうか。

「相手をゆるす気持ちが少しでもあれば、とっくに解決しているのになあ」と思われる問題や訴訟事件がたくさんあります。


2.ある交通事故裁判

私たちと一緒にビジネスマンに福音を伝えているKさんは、大手商社マンとして永らくアメリカに駐在していました。6年前に息子さんが車の追突事故を起こしてしまいました。大した損害もないのに被害者から500万ドルの賠償請求の裁判を起こされたのです。息子さんの乗っていた車の所有者であったKさんも共同被告にされました。交通事故賠償保険は最高五十万ドルしかカバーできません。

Kさん一家はこの6年間、日本に帰国した後も絶えずこの500万ドルの裁判におびやかされてきました。夜も眠れない日が多くあったのではないかと思います。そして最近になってついに陪審員による審理を行うため裁判所から呼び出しがかかったのです。アメリカの陪審員のことですから、「かわいそうなアメリカ人に損害を与えていながら、金持ちの日本人が、十分な賠償を拒否しているのはけしからん」と考えることが予想されます。

Kさんはこの問題があまりにも重すぎて誰にも話せなかったのですが、ついに私たちに打ち明けて、その解決を神の絶大な力に寄り頼んで、一緒に祈ったのです。そうしたところ、すぐに心が平安になりました。その時Kさんは、事故の被害者である原告のためにこれまで一度も祈ったことがなかったことに気づかされました。それまでは、法外な請求をして六年間もKさん一家を困らせている原告をゆるせないと思っていました。

それから、Kさんは原告をゆるし、原告に神の祝福がありますようにと、奥さんと共に毎日祈りつづけました。二週間ほどして、Kさんの弁護士から驚くべき連絡がありました。「突然原告から提案があって5万ドルで和解しました。ですからもはやわざわざ陪審裁判に出なくてよくなりました」とのことです。これは全額保険で十分カバーできる金額です。


3.敵を愛し、迫害する者のために祈れ

司法研修所の同期の友人の結婚披露宴で、主賓の研修所教官が祝辞でこう言われました。

「私は先祖代々の熱心な仏教徒である。しかし、キリスト教にひとつだけかなわないことがある。それはイエス・キリストの『敵を愛し、迫害する者のために祈れ』という言葉である。これを実践することによって40年近く家庭の円満が守られてきた。もしこの言葉を知らなかったら、私共はとうの昔に離婚していたであろう」

仏教徒の方が言われただけによけに強烈な印象として私の心に残りました。私はこれの具体的な表現として、家庭において自ら「ぬれ雑巾とポリバケツになる」ことをモットーとしています。(もちろん、いつも実行できているわけではありませんが。)

夫や父としての権威を振りかざすのではなく、家族の心のどんな汚れをもぬれ雑巾のようにぬぐい、どんな不平・不満をもポリバケツのように聞き入れるようにすると、不思議に家族が仲良くなれます。

私の心のどんな汚れもぬれ雑巾のようにぬぐい、どんな不平、不満をもポリバケツのように聞き入れてくださるのは、イエスさまご自身です。

ゆるし難きをゆるし、耐え難きを耐えて、十字架にかかって下さったイエス・キリストの愛の犠牲によって、神と人との間の和解(対立の解消)の道が開かれたのです。キリストを信じる者は、キリストの模範に従うことが求められます。それは「敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことです。


…『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか』。イエスは彼に言われた、『わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい…』(マタイ18章21、22節)。



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