主を避け所とする


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主を避け所とする

弁護士 佐々木 満男

■本文は月刊誌「羊郡」1998年8月号掲載の原稿です。


1.主は避け所

「あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、災いはあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。それは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で、あなたを守らせられるからである。たとい千人があなたのかたわらに倒れ、万人があなたの右に倒れても、その災いはあなたに近づくことがない」

この詩篇91篇の一部のみことばは、わが家の毎晩の就寝前の祈りのときに私が必ず唱えるみことばです。

第二次世界大戦の頃のことです。イギリス軍にウイットゼイ大佐という人物がいました。彼の率いる連隊は全員が毎日朝晩、詩篇91篇を朗読して神に安全を祈ったそうです。彼の連隊は五年間激戦地で戦いつづけました。他のほとんどの連隊は全滅したり、多数の死者を出していました。ところが彼の連隊だけは一人の死者も出なかったのです。

私はこのあかしをある文書で読んで、「これはすごい。私もやってみよう」と思って、実行するようになりました。そしてこのみことばを唱える度に、「主は避け所」という真理が、単なる精神論ではなく、現実・実際のものであることを体験しています。


2.災いと悩み

私たちは実に災いと悩みにみちた社会に生活しています。いつ事故や危害に会うかわからない、いつガンのような不治の病にかかるかわからない、いつ会社のリストラや倒産で首になるかわからない、いつ夫婦親子の関係が破綻するかわからない、老後はどうなるかわからない、という中で生きているのです。

信仰と希望と愛が冷えれば冷えるほど、災いと悩みは増大していきます。今日の日本の社会がまさにそのような状態にありますが、残念ながら多くのクリスチャンも、それに巻き込まれているような気がいたします。

しかしこのような時こそ、私たちは天地を創られた全知全能の愛の神のみことばにしっかり立ち返って、「主は避け所」であることを真に悟り、神の完全な保護と安らぎと恵みを受ける良いチャンスです。



3.主を避け所とする

詩篇の各所に「主は避け所」であると書かれています。避け所とは避難場所です。災いや悩みという災難を避けのがれる場所です。しかし、主が避け所であっても、私たちがそこに入って留まらなければ、災難を避けることはできません。「主を避け所とする」とは、避け所である主の中に入って留まるということです。言い換えれば、いつも主の臨在の中に入って留まる、いつも聖霊に満たされた状態にいる、ということです。

私たちがいつも神の御霊に満たされているならば、御霊によって歩くことになります。そうすると肉の欲を満たすことがなくなります(ガラテヤ5章16節)。肉欲から解放されていれば、罪を犯すことがなくなります。その結果、罪から来る災いや悩みを避けることができます。


4.試練と迫害

私たちが、いつも聖霊に満たされて歩むなら、肉欲から来る罪を犯さなくなり、その結果としての災難を避けることができますが、人々の罪やサタンとの戦いが始まります。その結果生じてくる、試練・迫害に会うことを避けることはできません(マタイ5章11節)。

しかし、神は私たちを耐えられないような試練に会わせることがないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さいます(第1コリント10章13節)。

ですから、試練や迫害に会っても、主が避け所であることは変わりません。主を避け所として試練を忍びとおしたなら、神を愛する者たちはいのちの冠を受けると約束されています(ヤコブ1章11節)。キリストの名のためにそしられるなら、その時には栄光の霊、神の霊が、その人に宿るとも約束されています(第1ペテロ4章14節)。

敵の激しい攻撃にさらされている試練の時こそ、しっかり主を避け所として、一歩も外に出ないようにしなければなりません。すなわち、より一層強く聖霊に満たされて、信仰にかたく立って抵抗する必要があります(エペソ6章18節、第1ペテロ5章9節)。



5.聖霊に満たされるには

「主を避け所とする」とは、要するに聖霊に満たされるということです。それでは聖霊に満たされるにはどうしたらよいのでしょうか。それは言うまでもなく、「祈る」ことです。いつも聖霊に満たされるには、「いつも祈る」ことです。「祈り」は、人と神との霊の交わりです。人と神との霊の交わりが非常に強められた状態が、聖霊に満たされている状態であるということができます。

「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです」と詩篇85篇10節に歌われていますが、よく祈って聖霊に満たされて働く一時間は、そうでない千時間にもまさります。ですからもし私たちがクリスチャンとして世に勝つ者となるには、生活の中で「祈り」を最優先し、「祈り」を最重要課題とすべきです。

なぜなら、祈って聖霊に満たされて初めて、私たちは、聖書のみことばを単に頭で理解するだけでなく、心で食べることができるからです。イエス・キリストは「わたしがあなたがたにはなしたことばは、霊であり、またいのちである」(ヨハネ6章63節)とおっしゃいました。神のみことばは、単なる倫理・道徳論でもなく、哲学でもなく、規則や方法論でもなく、「霊であり、いのちである」のです。



6.現実・実際の助け

聖霊に満たされて初めて、私たちは聖書のみことばから神のいのち(愛・喜び・平安・知恵・力など)をくみとることができるようになります。そうすると詩篇91篇のみことばが、単なる精神論ではなく、神のいのちであり力であることを確信し、現実・実際のものであることを体験できるようになるのです。

私は弁護士という相手方と対決することの多い職業柄、また積極的に福音を宣べ伝える者の一人として、常に現実の危険を意識しています。先日も、ある事件に関連して執拗な脅しを受けました。人間ですから脅される度に恐怖感に襲われます。しかし、その都度すぐに詩篇91篇のみことばを想い起こして主に祈りました。祈っているうちに、「絶対に大丈夫だ。私は主を避け所としており、天使たちが私を守っていて下さるから」という確信が与えられ、恐怖感から解放されます。幸いなことに、このようにして、何事も起こらずに守られています。

仕事においても、伝道においてもよく追いつめられることがありますが、不思議に窮することがありません。それは、いつも祈って聖霊に満たされるように心がけているため、主の避け所に入って留まっているからだと思います。


7.祈りの実際

最近は聖霊についてよく書かれ、よく語られています。これらは聖霊を理解するために大変有益です。しかし聖霊について書かれた本をいくら読んでも、聖霊についてのメッセージをいくら聞いても、それで聖霊に満たされるわけではありません。

聖霊に満たされるには、なんとしても時間をかけて祈らなければいけません。だいぶ以前のことですが、フィリピンのマルコス長期独裁政権を倒した影の立役者といわれたハイメ・シン師のスピーチを聞きました。

「祈らないクリスチャンは、羽のない鳥のような者である。また武器を持たないで戦場に出ていく兵士のような者である。ですから私は毎日絶えず祈っています。祈りすぎるくらい祈っています。しかし十分に祈ったと思ったことがありません」

私はこのメッセージに強く心を打たれました。そしてそれまでの祈りの少ない生活を悔い改めて、できる限り祈るようにしてきました。今では毎日少なくとも三時間は祈るようにしていますが、もちろんこれで十分だというわけではありません。

しかし、おかげで少しづつ聖霊に満たされることを体験できるようになりました。これは本当にすばらしい体験です。天地万物を創られた神は現実に生きておられ、慈愛の父として私たちの祈り願うことを喜んで聞いて下さり、これをかなえて下さることを体験するからです。聖書のみことばが「霊であり、いのちである」ことを現実に体験するからです。

イエス・キリストの誕生、生活、教え、奇蹟の業、預言、十字架の死、復活、昇天、再臨の奥義を悟り、私たちがキリストにあってどのようなすばらしい身分にいるかを悟ることができるようになるからです。

ですから私にとって「主を避け所とする」とは、単に災いや悩みを避けるためだけでなく、神がキリストにあって私に与えて下さっているすべての恵みを享受するためでもあるのです。



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