hanrei @Wiki H18. 2.15 東京地方裁判所 平成13年(ワ)第26261号 損害賠償請求



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平成18年2月15日判決言渡同日原本領収裁判所書記官
平成13年(ワ)第26261号損害賠償請求事件
(平成17年7月4日口頭弁論終結)
判決
当事者の表示 別紙「当事者目録」記載のとおり。
目次
主 文・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
事 実・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
第1 原告らの請求・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
第2 事案の概要・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
第3 当事者の主張・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
理 由・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
第1 認定事実・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
1 中国東北地方をめぐる日本とロシア(ソ連)との対立の歴史・・・・6
2 中国東北地方への国策大量移民・・・・・・・・・・・・・・・・・8
(1) 東アジア情勢・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
(2) 中国東北地方への国策大量移民と国民保護策の欠如・・・・・・10
(3) 原告Aの移民状況(日ソ開戦まで)・・・・・・・・・・・・14
(4) 原告Bの移民状況(日ソ開戦まで)・・・・・・・・・・・・15
(5) 原告Cの移民状況(日ソ開戦まで)・・・・・・・・・・・・15
3 日ソ開戦と大量の日本人難民の発生・・・・・・・・・・・・・・16
(1) ソ連軍の対日参戦時期の切迫と関東軍の居留民対策の欠如・・・16
(2) ソ連軍の対日参戦と日本人の難民化・・・・・・・・・・・・・19
(3) 日本人難民の苛酷な越冬生活・・・・・・・・・・・・・・・・23
(4) 原告Aの難民生活・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29
(5) 原告Bの難民生活・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
(6) 原告Cの難民生活・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31
4 日中国交回復までの未帰還者の引揚状況・・・・・・・・・・・・32
(1) 終戦直後の時期・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32
(2) 前期集団引揚げ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33
(3) 後期集団引揚げ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35
(4) 未帰還者調査・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・36
(5) 個別引揚者に対する旅費国庫負担制度・・・・・・・・・・・・38
(6) 帰還手当・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・38
(7) 原告Aの中国における生活状況・・・・・・・・・・・・・・39
(8) 原告Bの中国における生活状況・・・・・・・・・・・・・・40
(9) 原告Cの中国における生活状況・・・・・・・・・・・・・・41
(10) 原告らの帰国意思・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43
5 日中国交回復後の長期未帰還者の帰国状況・・・・・・・・・・・47
(1) 国交回復前の長期未帰還者の状況・・・・・・・・・・・・・・47
(2) 国交回復直後の長期未帰還者の状況・・・・・・・・・・・・・47
(3) 脚光を浴びる孤児問題と影の薄い残留婦人問題・・・・・・・・48
(4) 一時帰国援護・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・54
(5) 日本国内の親族による帰国者受入の困難・・・・・・・・・・・56
(6) 本邦への上陸手続(永住帰国・一時帰国とも)・・・・・・・・59
(7) 上陸後の在留資格・国籍の扱い(永住帰国)・・・・・・・・・61
(8) 原告Aの帰国状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・62
(9) 原告Bの帰国状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・63
(10) 原告Cの帰国状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・64
6 日中国交回復後の中国からの帰国者に対する公的自立支援策の状況66
(1) 帰国旅費国庫負担・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・66
(2) 帰還手当・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・67
(3) 帰国後1年で自立という標準モデルとその破綻・・・・・・・・68
(4) 日本語教育・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・70
(5) 引揚者生活指導員・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・71
(6) 日本帰国直後のオリエンテーション・・・・・・・・・・・・・72
(7) 定着促進センター・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・72
(8) 自立研修センター・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73
(9) 支援・交流センター・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74
(10) 身元未判明者の身元引受人制度・・・・・・・・・・・・・・・75
(11) 身元判明者の身元引受人制度・・・・・・・・・・・・・・・・77
(12) 自立支援通訳制度・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・80
(13) 住居支援制度・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・81
(14) 年金・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・81
(15) 就業状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・82
(16) 生活保護の運用状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・83
7 原告らの帰国後の生活状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・86
(1) 原告A・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・86
(2) 原告B・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・87
(3) 原告C・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・88
8 自立支援法・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・89
第2 早期帰国義務違反に関する当裁判所の判断・・・・・・・・・・・90
1 早期帰国義務の法的根拠としての法令,条約等(条理を除く)・・90
2 先行行為に基づく条理上の作為義務・・・・・・・・・・・・・・91
3 終戦直後から日中国交回復まで・・・・・・・・・・・・・・・・97
4 日中国交回復後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・98
5 検 討・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・102
第3 自立支援義務違反に関する当裁判所の判断・・・・・・・・・・104
1 一般の戦争被害者と異なる自立支援措置の必要性・・・・・・・104
2 生活保護制度の帰国者に対する運用状況・・・・・・・・・・・107
3 日本語教育等・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・109
4 特別身元引受人等・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・111
5 老後施策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・111
6 検 討・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・113
第4 結 論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・117
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第1 原告らの請求
1 被告は,原告Aに対し,2000万円及びこれに対する平成13年12月14日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員(民事法定利率による遅延損害金)を支払え。
2 被告は,原告Bに対し,2000万円及びこれに対する平成13年12月14日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員(民事法定利率による遅延損害金)を支払え。
3 被告は,原告Cに対し,2000万円及びこれに対する平成13年12月14日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員(民事法定利率による遅延損害金)を支払え。
第2 事案の概要
 本件は,第2次世界大戦の終盤における日本軍とソ連軍との戦闘により現在の中国東北地方に国策移民として居住していた原告ら(1945年8月当時16歳,13歳又は11歳)が難民となり,その後の日本敗戦に伴う混乱の中で終戦後も30年以上もの間日本に帰国することができずに中国に取り残され,日本に帰国した後も原告らの日本国内での自立に対する十分な支援措置を受けられなかったことについて,被告が原告らの早期帰国を図る義務があるのにこれを怠ったこと(早期帰国義務違反)及び帰国後の原告らに対して十分な自立支援措置を実施する必要があるのにこれを怠ったこと(自立支援義務違反)が被告の公務員の職務上の義務違反であると主張し,被告に対して,国家賠償法に基づき,これによる精神的損害の賠償(慰謝料)として原告らそれぞれに2000万円を支払うことを求める事案である。
第3 当事者の主張
 当事者双方の主張は,別紙「当事者の主張」記載のとおりである。
理由
第1 認定事実
 証拠(甲1及び2の各1から4まで,3の1から6まで,4の1から5まで,5ないし8,9の1・2,10ないし15,20の1から3まで,21ないし26,27の1・2,28ないし48,49の1・2,50ないし59,60の1から6まで,61,62,63の1から3まで,64の1・2,65,66の1・2,67,68の1から4まで,69,70の1から3まで,71,72の1から4まで,73,74,75及び76の各1・2,77,78,79の1から3まで,80の1から5まで,81,82,83の1から5まで,84の1・2,85の1から3まで,86の1・2,87の1から9まで,88,89の1・2,90の1から8まで,91及び92の各1から4まで,93の1から5まで,94の1・2,95の1から3まで,96の1から7まで,97,98の1から5まで,99の1・2,100の1から3まで,101,102,103の1から4まで,104の1から7まで,105の1から6まで,106,107,108の1・2,109,110,111の1から4まで,112ないし116,118の1から3まで,119,120の1・2,122の1・2,123ないし134,
135の1から3まで,136ないし145,146の1・2,147ないし155,157,158,159及び160の各1・2,161ないし198,199の1から4まで,200ないし238,乙1ないし5,6の1・2,7ないし28,30,31の1から3まで,35ないし37,40ないし61,63ないし125,126及び127の各1・2,128ないし138,139の1・2,140,141の1から3まで,142の1から6まで,143の1から4まで,144,148,149,151ないし155,証人甲,原告ら各本人),公知の歴史的事実及び弁論の全趣旨を総合すると,以下の事実が認められる。
1 中国東北地方をめぐる日本とロシア(ソ連)との対立の歴史
 19世紀後半から20世紀前半にかけての世界史は,産業革命を他国に先駆けて成し遂げ,高度な生産力と軍事力を擁するに至った欧米を中心とする列強諸国が,圧倒的な力を誇り,発展途上地域を植民地化し,支配下地域の資源や産業,ひいては政治体制をも直接,間接に支配するなどして,欧米の列強諸国とそれ以外の地域の差別化が進んでいくとともに,本国の政治的,軍事的実力や資源,経済力のみならず,植民地地域から得られる富をも合わせた総合力をもって,欧米の列強諸国が世界の覇権を競い合うという一面をもつ歴史であった。
 そのころ,明治維新を成し遂げ開国した日本を取り巻く状況は,西欧列強諸国,ロシア,アメリカ合衆国が東アジア地域にまで支配地域を広げようとしているところであった。特に,当時不凍港を求めて南下政策を続け,東方への勢力拡張を進め,中国(清)から沿海州の割譲を受け,朝鮮半島の朝鮮王朝への影響力も確保しようとしてきたロシアは,日本にとって大きな軍事的脅威であった。日本は文明開化,富国強兵策をもってロシアを始めとする列強諸国に対抗し,国土の植民地化を防ぎ,国家の主権と独立の保持に懸命に努力してきたところであった。朝鮮王朝に対する後見人的地位をめぐる中国(清)との対立から,日清戦争が起こり,朝鮮半島及びその周辺が主な戦場となった。1895年に締結された日清戦争終結に際しての講和条約(下関条約)で,わが国には,朝鮮半島における権益,台湾の領有のほか現在の中国東北地方の最南端に位置する遼東半島の領有が認められた。しかしながら,もともと遼東半島や朝鮮半島を狙っており,中国東北地方における日本の権益伸張を嫌うロシアを中心とするいわゆる三国干渉があったため,遼東半島は中国(清)に返還することになった。中国(清)の弱体化が顕著にな
り,欧州列強による中国の権益の分割が進んでいく中で,ロシアは,中国東北地方全域に軍隊を駐留させてその権益を取得し,三国干渉により返還させた遼東半島にある旅順及び大連を租借地とし,朝鮮半島の朝鮮王朝にも影響力を行使するようになり,東アジア地域における勢力を拡大していった。朝鮮半島がロシアの影響下に入り,ここにロシアの軍事基地が置かれることとなれば,日本の国防にとってのこの上ない脅威であり,日本とロシアの対立が深まっていった。
 やがて,日露戦争が起こり,中国東北地方及び朝鮮半島付近が主な戦場となった。1905年に締結された日露戦争終結に際しての講和条約(ポーツマス条約)で,日本には樺太の南半分の領有,旅順及び大連の租借地並びに南満州鉄道(旅順から長春まで)の権益の取得等が認められた。これにより,わが国は,一方において大陸における権益を朝鮮半島から中国東北地方の南部にまで拡大し,他方において朝鮮半島にロシアの軍事基地が置かれることを防ぐことができたが,沿海州はロシア領のままであり,中国東北地方の北部は依然としてロシアの影響下にあるなど,双方の勢力の境界付近における軍事的緊張は依然として残ったままであった。日本は,1906年に関東都督府を設置し,植民地経営会社的な色彩の強い南満州鉄道株式会社を設立するなど中国東北地方への影響力を強め,1910年には日韓併合を行い,朝鮮半島にロシアの軍事基地が置かれる危険はひとまず遠のいた。このように,日本は,欧米の列強諸国と同様に,一方においては東アジアの近隣地域を中心に植民地支配を行い,他方においては欧米列強諸国と東アジア地域の覇権を競い合う国となっていった。
 アメリカ合衆国は,ハワイ,フィリピンと太平洋地域を東から西へ向けて進出し,既に中国における権益をおおむね分割し終えた欧州諸国と日本に対して中国における権益の門戸開放を要求し,門戸開放に応じない日本の中国進出には批判的になり,日本人のアメリカ合衆国への移民の禁止など,排日的な動きを増していった。
 欧州を主要な戦場とする第一次世界大戦の期間中(1914年から1918年まで)及びその前後には,日本は,ドイツが有していた中国の山東半島における権益を継承,拡大したり,中国に21箇条の要求を承諾させたりして,中国における権益を拡大し続けた。また,ロシア革命後のシベリアに出兵してソヴィエト社会主義共和国連邦(以下「ソ連」という。)を牽制し,併せて中国東北地方の北部(いわゆる北満地方)への影響力を増していった。
 東アジア地域及びその周辺地域におけるわが国の権益拡大は,これらの地域の権益を狙うロシア(ソ連)やアメリカ合衆国など他の欧米列強諸国及びこれらの地域の原住民との利害対立を生じ,19世紀後半から20世紀前半にかけての中国東北地方は,政治的,軍事的に不安定な危険地帯であった。
2 中国東北地方への国策大量移民
(1) 東アジア情勢
 1920年代(第一次世界大戦終了後)に入ると,日本は不況となり,金融恐慌が発生し,農家は困窮し,都市には失業者が多数発生した。1928年以降は,世界恐慌が発生し,その後世界経済のブロック化が進み,日米関係も好転しなかった。世界経済のブロック化と対米関係の悪化は,その支配下地域内に石油資源の乏しい日本にとっては,石油の確保の観点から,外交的及び軍事的な環境の著しい悪化となった。石油を動力とする兵器が第一次世界大戦以降の主力兵器となったという状況の変化もあって,その影響は深刻であった。
 1931年の満州事変(関東軍による南満州鉄道線路爆破とこれに引き続く軍事行動),1932年の満州国建国の宣言(その支配下地域は,旅順,大連の日本租借地を除く中国東北地方の全域を占める。),「日満議定書」の調印による日本の満州国承認,これに伴う満州国の国防,治安維持並びに陸海空運関係施設の管理及び新設の日本への委任等により,中国東北地方全域における権益を日本が独占することが決定的となった。
 中国東北地方は,ロシア革命後のソ連の沿海州地域及び東シベリア地域並びにソ連の保護下にある蒙古人民共和国と国境を接する地域であり,かつてはロシアがその権益を有していた地域でもあって,伝統的な南下政策を承継するソ連との強い軍事的緊張関係が続いていた。また,中国東北地方は,歴史的には,満州民族,蒙古民族,漢民族などが居住してきた地域であって,日本人が居住してきた地域ではなく,満州国の国防,治安維持に当たる日本軍(関東軍)と中国人の抗日勢力との軍事的緊張も続いており,この意味においても不安定な地域であった。
 しかしながら,当時,一般の日本人の間において,関東軍(中国東北地方に駐屯する日本陸軍部隊)は,非常に強力な軍隊であり,関東軍がいるので中国東北地方の防衛は心配ないと信じられていた。
 当時既に始まっていた世界恐慌,これに伴う世界経済のブロック経済化,1933年の国際連盟の満州国不承認決議と日本の国際連盟からの脱退,1937年に始まる日中戦争により,中国等への拡張政策を続ける日本は,アメリカ合衆国など他の欧米列強諸国との対立を深めていった。
 1939年に欧州を主戦場とする第二次世界大戦が始まった。日本は,アジアが手薄になった欧州諸国に代わって,東アジア地域や東南アジア地域への勢力拡張を続け,石油資源を確保しようとした。1940年には,日独伊三国軍事同盟が締結され,日本の支配するアジア地域の資源が枢軸国側の支配に置かれることが欧州戦線における連合国側の脅威となり,日本と連合国側欧米列強諸国との対立は決定的となっていった。アメリカ合衆国は,石油の禁輸措置や大陸からの撤退要求などで日本を追いつめていき,支配下地域における権益を捨てるという決断をすることができずに手詰まりとなった日本は,1941年にアメリカ合衆国等と戦争(太平洋戦争)を開始した。その戦況は,年ごとに日本に不利になっていった。
 アメリカ合衆国との開戦に先立つ1941年4月,日本は,ソ連との間で,日ソ中立条約を締結した。同条約の内容は,両国が平和友好の関係を維持し,相互に他方の領土の保全・不可侵を尊重すること,一方の締約国が第三国よりの軍事行動の対象となる場合には他方は中立を守ることであり,条約の有効期間は5年とし,5年の期間満了の1年前に廃棄通告をしないときはさらに自動的に5年間延長されるものとされた。同時に発せられた日ソ両国の声明においては,日本が蒙古人民共和国の領土の保全及び不可侵を尊重し,ソ連が満州帝国の領土保全及び不可侵を尊重することが宣言された(乙41)。
(2) 中国東北地方への国策大量移民と国民保護策の欠如
 日本は,閣議決定に基づき1932年から中国東北地方(満州国の地域)への移民を開始した。当初は,現地住民との紛争も予期されたため,機関銃等を装備した武装移民であった。農家の困窮と都市部の失業者の増加の打開のためにも移民が必要であったが,アメリカ合衆国との対立関係から北米地域や中南米地域への移民が禁止されていたこと,日本の国防上の観点からの中国東北地方における北方拠点の強化,特にソ連国境線に近い地域における兵站の確保(前線部隊への食糧その他の物品の供給等)の要請などから,中国東北地方への大規模な移民を実施することとなった。移民は,満州国の国籍を取得せず,日本国籍のままとされた。移民は,中国人と結婚をせずに,日本人同志で結婚して日本民族の血を守ることが半ば義務化され,満州国内で指導的地位に立つべきものとされた。そのため,内地の若い日本人女性に対しても,「大陸の花嫁」などのネーミングのもとで,積極的に中国東北地方に移民することが奨励されるようになった。
 1935年8月25日には,「対満重要策の確立,移民政策及び投資の助長等」という項目を含む七大国策綱領が閣議決定された。1937年には,移民を所轄する日本の中央官庁である拓務省は,中国東北地方への開拓移民を20年間に100万戸,500万人を送出する大綱を決定し,かつ,最初の5年間の実施計画として満州移民第1期計画実施要領を策定し,1937年から1941年までの5年間に10万戸を送出するという大量移民計画を立てた。また,満州拓殖公社という公法人も設立され,集団移民に必要な土地分譲,資金融通,開墾,建築,生産物の販売,必需品の購入等の事業の経営又はあっせんを行った。開拓地の設定については,農業適地であることのほか,国防上の要請を勘案した総合的な立地計画という観点も考慮された。そのため,移民の大半が,中国東北地方の中でも北部のソ連との国境に比較的近い地域に入植した。1938年に関東軍が作成した「国境方面における国防的建設に係る要望事項」には,移民について「国境建設一般方針に準拠し日本移民並に善良なる鮮人移民及原住民は之を国境接帯に於ても定着せしめ一は以て銃後の培養力たらしむると共に他は以て各種の施策に活用し得
しむ・・・入植地に付ては局地的に軍の駐屯地,防御営造物の関係其他諜報警戒監視等を考慮し各現地につき其実情に適応する様確定するものとす」という記載があり,物資調達及び集積について「国境地帯に於ける物資不足の現況と軍補給の関係上現地調弁額の激増並其の多元的調達等とに基く軍需,民需の統制按配は焦眉の急務に属す。」という記載があり,これに引き続いて検討事項として「軍側需要の調製と各機関の統制確立並軍需民需の連携措置要領の決定」などの項目が挙げられている(甲7)。
 そもそも開拓団が耕す農地については,誰も使用していない未開墾地を充てるというのが,当初の構想であった。しかしながら,大量移民計画の実施に伴い,未開墾地の調達が間に合わなくなり,中国人が実際に耕作中の農地を安く買収して,これを日本人開拓民に与えることが多く行われるようになった。この点は,中国人の反感をかうことになった。この間の事情について,当時の日本の拓務省拓務局長は,後に「(本格的移民が昭和11年にようやく4集団,1集団300戸として1200戸程度しか送出していなかったものが)百万戸計画の第一年度である12年度には一挙16個集団,300戸宛とすると4800戸,その次の13年度となるとそれがさらに増加して一挙40個集団というように飛躍的な,また驚異的な発展ぶりである。こうなると勢い,移民用地もその以前に用意して置いた100万町歩とか200万町歩程度のものでは間に合う筈もない。100万戸樹立の際には,関東軍で満州国側に折衝し,移民用地1000万町歩の準備を約束しているとはいうものの,これはまだ買収ずみではなかった。そこで勢い満拓公社では,満州国側と協議の上で,必要の土地をどんどん買いはじめたのであるが,そ
うすると急ぎの場合であるため,既墾地や未墾地の区別は取り上げておられなくなった。従来満人が入地し相当に落付いて耕作しているような処でも日本人の入植に都合がよく,したがってその定着に便利のよい土地は無理してまでも買収して仕舞うというような場合も起こった。これが先住の満人,漢人達には非常に侵略的な印象を与えるにいたった。このような最中に支那事変の勃発である。最初は現地解決のつもりが次第に拡大し,わが方の戦争目的もそれに伴なって「暴支膺懲」から「蒋介石を相手とせず」に変わり,新たに樹立せられた臨時政府ないしはその後に現れた汪精衛氏の新国民政府と提携していわゆる「東亜新秩序の建設」というような処まで発展して行ったのである。これに対して蒋介石政権側としても飽くまで対抗して,独り武力戦のみならず宣伝戦においてもなかなか猛烈に対抗するにいたった。ことに宣伝戦では,真正面から日本の侵略主義を打倒せよと叫ぶようになった。満州を奪い,それでも足りずして支那本土まで魔手を伸して来たのだ。口には五族協和とか東亜新秩序の建設とか唱えても,それは要するに日本侵略主義の仮面でしかないことは事実がこれを明らかに証明している。満州で原住民達が
今どういう目に遭っているか,彼等は日本人移民の大量進出によって耕地は取上げられ,住居は追われ,食うに食なく住むに家ない状態に陥りつつあるではないか,支那本土もまたかくの如くならんとしている。民衆よ起て,失地を回復せよ。起って日本侵略主義と戦えといったような訳だ。その蒋介石政権の宣伝は,満州の漢人には最も有効であったと思われる。彼等は本来,支那本土からの移住民であり,そこには血のつながりがあるからだ。当時満州の原住民,特に漢人の動揺は否定すべからざる事実であった。」(甲3の3)と述べており,当時の事情を伝えているものと認められる。
 中国東北地方は,移民開始当初から,軍事的危険度の高い危険地帯であった。中国東北地方は,日本人が居住していた地域ではなく,昔から住んでいる現地人が多数居住していた。また,この地域の権益を巡って長年争ってきたソ連と陸続きで国境を接しており,ソ連との軍事的緊張関係も残っている地域であった。ひとたびソ連軍や現地軍との武力紛争が生じて陸戦となり,日本軍の勢力が地をはうに至ったときには,現地に同化せず,現地人の軍事組織に忠誠を誓ってもいない日本人居留民の安全の確保は,非常に危うかった。しかしながら,日本政府は,そのような危険性を移民に告知した上で移民を送出したわけでもなく,むしろ日本は強い,関東軍がいるから安心だと広報,宣伝,教育に努めていた。戦乱の危険が高まったり,戦闘状態に突入するなどの危機発生時における国民保護策(避難計画等)も,策定していなかった。
 第2次世界大戦の戦況が日本に不利となった1943年以降も中国東北地方への開拓民の送出は続けられた。軍事的には敗北が決定的となり,翌年の1946年には日ソ中立条約が期限満了により失効することが確実な情勢となった1945年に入っても,移民の送出は続けられた。原告Cは,1945年に佐賀県から中国東北地方に渡っている。
 1945年の時点で,中国東北地方の開拓団の人口は約27万人(その多くが北部のソ連国境に近い地域に居住)で,同年に行われたいわゆる根こそぎ動員によりうち壮年男子約5万人が日本軍(関東軍)に召集され,日ソ開戦時には老幼婦女子を主体とする約22万人が開拓団員として居留していた。なお,中国東北地方全体では,1945年時点で,軍人以外の一般の日本人約155万人が居留しており(その多くは南部のソ連国境から遠い地域に居住),同年に行われたいわゆる根こそぎ動員によりうち約15万人が日本軍(関東軍)に召集された。
(3) 原告Aの移民状況(日ソ開戦まで)
 原告Aは,1928年12月に,現在の東京都中央区(京橋)で生まれた。家族構成は,父,母,長姉,次姉,三姉,兄,原告A,妹の8名であった。原告Aの家の家業は,4代続く青物問屋であった。しかしながら,戦時統制経済が進んでいく中で,取り扱える商品がなくなっていった。周囲においては,仕事がなくなった商工業者などを中心に,東京からも中国東北地方に開拓団を出すという話が立ち上がり,農業に転業して開拓団に入ることの熱心な勧誘を原告Aの父も受けた。原告Aの父は,乗り気でなかったが,結局,勧誘に負けて,東京仏立開拓団(日蓮宗本門仏立講信徒の参加した開拓団,甲3の6)の一員として中国に渡ることとなった。当時,原告Aは女学校に通っていたが,学校を途中でやめることになった。1943年7月,当時海軍兵学校に在籍していた兄を除き,原告Aの一家は,中国に出発した。中国東北地方の中でも北西部に位置する興安南省の哈拉黒(はらへい)(現在の内モンゴル自治区)に入植した。中国東北地方の中では,ソ連及びソ連の保護下にある蒙古人民共和国との国境に比較的近い地域であった。開拓団の村には,電気もラジオもなかった。開拓団の農地は,もともと地元の中国
人農民が耕作していた土地を収用したものであった。原告Aは,当時14歳であったが,現地で教員が不足していたため,開拓団の国民学校で,代用教員として働くことになった。
 原告Aの父は入植後まもない1943年11月に病気で死亡し,原告Aの母も1944年10月に病気で死亡した。3人の姉は結婚して現地で別に暮らしていたため,原告Aと妹の2人で暮らすことになった。
 1945年7月に入ると,開拓団の青年,45歳以下の壮年男性のほとんどが,いわゆる根こそぎ召集により日本軍(関東軍)に召集され,開拓団には女性,老人及び子供だけが残された。
(4) 原告Bの移民状況(日ソ開戦まで)
 原告Bは,1932年4月に,岩手県下閉伊郡O村で生まれた。家族構成は,祖母,父,母,長姉,兄,次姉,原告B,弟,妹の9名(幼児死亡した兄弟姉妹を除く。)であった。原告Bの家は豊かではなく,原告Bの父は製材や建築関係の仕事をしていたが,農地を持っておらず,役場から移民の話を聞いて乗り気になり,下見を経て,1941年の秋に一家9名全員で,岩手県依蘭開拓団の一員として,中国東北地方に出発した。当時,原告Bは9歳で小学生,原告Bの父は50歳近く,原告Bの祖母は74歳であった。原告Bの一家は,中国東北地方の中でも北東端に位置する三江省の樺川県依蘭地区の開拓団の村に到着した。中国東北地方の中では,ソ連の沿海州地域との国境に比較的近い地域であった。18歳以上の男性であった父と兄に各十町の畑が割り当てられ,農業を営んだ。割り当てられた農地は,もともと中国人農民が耕作していたものを収用したもので,中国人農民達から畑を使うなと抗議を受けた。
 兄は1944年に日本軍(関東軍)に召集され,その後長姉の夫その他の開拓団の青年,45歳以下の壮年男性全員が,いわゆる根こそぎ召集により日本軍(関東軍)に召集されて開拓団を離れ,開拓団には女性,老人(原告Bの父を含む。)及び子供だけが残された。
(5) 原告Cの移民状況(日ソ開戦まで)
 原告Cは,1934年1月に8人姉妹(うち1人(2女)は幼児死亡)の末子として出生した。原告Cの母は原告Cが幼い時に死亡し,原告Cの父は,もと炭坑労働者であったが,聴力が不自由なため解雇され,以後は失業状態であった。原告Cの一家は,長姉の労働によるわずかな収入だけで,佐賀県内で苦しい生活をしていた。近所に住む警察官が原告C一家に,「満州」は王道楽土であり豊かな生活ができると盛んに移民を勧めたことから,移民を決意した。原告C一家は,既に大阪に嫁いでいた姉1人(3女)を除き,父と姉妹6人が,終戦の5箇月前である1945年3月に日本を出発し(当時原告Cは11歳),同年4月末に,中国東北地方の中でも北東端に位置する三江省の通河県漂河屯の佐賀県開拓団の村に到着した。中国東北地方の中では,ソ連の沿海州地域との国境に比較的近い地域であった。開拓団の村にはラジオも電話もなかった。原告Cは,開拓団の小学校に通学することとなった。原告Cの一家が開拓団の村に到着してまもなく,開拓団の青年,45歳以下の壮年男性全員が,いわゆる根こそぎ召集により日本軍(関東軍)に召集されて開拓団を離れ,開拓団には女性,老人及び子供だけが残された

3 日ソ開戦と大量の日本人難民の発生
(1) ソ連軍の対日参戦時期の切迫と関東軍の居留民対策の欠如
 関東軍は,日本の国防上伝統的に最重要問題であったソ連からの防衛を担当していたため,一時は陸軍だけで兵力80万人を誇っていた。しかしながら,直接の戦闘地域を持たないため,第二次世界大戦の進行にしたがい他の戦闘地域における日本の戦況が不利になるにつれ,これらの地域の支援のため,師団の多くを中国東北地方から転出させざるを得なくなった。1945年にはいったころは,関東軍は,従来の3分の1程度の戦力しか有しておらず,戦力比較において極東ソ連軍よりも劣勢であることは,日本軍(大本営)も認識するところとなっていた。
 日本は,関東軍の兵力不足解消のため,1945年7月,中国東北地方在住の日本人男性のうち行政,治安維持,交通通信,戦時産業等のため絶対に必要な人員を除き,18歳以上45歳以下の男性約20万人を召集(いわゆる「根こそぎ動員」)し,関東軍に配置した。
 1944年以降の第二次世界大戦の戦況は,日本やドイツに顕著に不利になっていた。ソ連は,ドイツとの戦線での優位を確保し,1945年2月ころからは兵力の極東への移送を活発化させるようになり,1945年4月5日には,日本に対し,日ソ中立条約を期限満了(1946年4月)後に延長しない旨の通告をした。1945年5月にドイツが降伏し,このころ,日本軍(大本営)も,満鮮支に対する米ソ軍の進攻は必至でありいずれが先後になるか判定できない,1945年の夏又は秋にソ連軍が対日参戦して中国東北地方に進攻してくる可能性があり,その場合,ソ連軍は,優秀な兵力をもって西,北,東の三方向から包囲的に進攻してくることが必至であるとみていた。関東軍の作戦方針は,従来は攻勢作戦であったが,1944年に正式に持久,守勢作戦に方針が変更され,ソ連軍の進攻に際しては,満州国内の地形を利用してその侵入を阻止し,やむを得ない場合は南満,北鮮の山岳地帯を確保して抗戦を続けるというものであった。1945年5月30日策定の満鮮方面対ソ作戦計画要綱においては,中国東北地方の全部についての絶対的防衛策を放棄し,朝鮮半島全域及び中国東北地方の最南部のみを絶対的
防衛地域とし,残りの中国東北地方の北部,中部を持久戦のための戦場とする策をとることとした。この作戦によれば,多くの開拓団の村は持久戦のための戦場と化すことになる。しかしながら,これらの事実は開拓民には知らされず,開拓民は関東軍に強い信頼を置き,国防上の不安はないものと信じているのが一般であった。
 日本軍内部でも,ソ連国境に近い居留民全員の避難や,老幼婦女の絶対的防衛地域以南への避難の意見もあったが,日本軍の守勢作戦への転換をソ連軍に予知させる等の理由で取り上げられなかった。
 防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書関東軍(2)」(乙45)には,居留民に対する措置について,次のような記述があり,当時の事情を伝えるものと認められる。
 「関東軍の守勢持久方策と居留民処理との間には不可分の関連があった。満州における居留民については,他の支那及び南方正面と異なり国策に基づく開拓団という存在があり,その少なからざるものは関東軍の指導により国境に入植し,交通線の維持確保・生産・補給など兵站に一役も二役も買っていた。しかも根こそぎ動員において,そのうち兵役に堪える壮年層はほとんど召集され,更に青少年義勇隊員12,000名も倉庫警備及び勤労奉仕に従事し,残る大部は老幼婦女という団が少なくなかった。開戦に先だち132万余の居留民を内地に還送することは船腹その他の関係上不可能であり,朝鮮にさげることについても,いずれ米ソ軍の上陸によって戦場化することが必至であるとみられていたほか,第一それに必要な食糧に対する目途がつかなかった。一方,居留民特に開拓団側においても,あくまで関東軍と運命を共にするとの考えが強く,満州開拓総局長齋藤彌平太中将にも開拓団を後退させる意向はなく,また事態が逼迫してから東京の中央省部から在満居留民なり開拓民の後退その他について一度でも意図が述べられたことはなかった。関東軍総司令官の平時任務において,在留邦人の保護が重要な一目途
であったことは多言を要しない。戦時危難の降りかかる時,?外の指揮官が所在同邦の生命を守ることは当然視されていたのであり,そこに疑義はない。殊に満州開拓団には前述のごとく特種の事情があった。前述のごとく開拓総局及び開拓団自体が後退をいさぎよしとしなかった大きな原因の一つは,軍の後退守勢の動きを知らず,最後まで関東軍在りせばの気持ちが強かったことと,今一つ外地において国威が落ち戦力が地をはらう事態に立ち至り,殊に敗戦となった場合,いかに悲惨な場面が展開されるかなどについて全く無経験であったからであろう。後者については関東軍自体またしかりであった。大部の開拓団に対し,軍は自己の分身として臨み,やむなき向きには強権を発動しても後退させ,また作戦の条件が許す限りこれら辺境の邦人群を軍戦力の庇掩下に置くごとく努むべきは,作戦考案決定上関東軍の場合殊に重要な一条件であった。」(353頁)
 「企図の秘匿は敵の意表にいで,また敵をして乗ぜしめないための一要素として,作戦要務令においても強調していた。最も重要なことは,秘匿せんがための目途を明確にするとともに,結果に置いて好ましからぬ自体が起こらぬよう留意することである。すなわち,企図の秘匿はある作戦目的を有利ならしめんがための手段であるが,とらわれ過ぎると本質を失うことになりかねない・・・居留民問題についても,関東軍はその後退がソ軍に対し防勢転換を予知させるという考え方にとらわれ,事前の措置をとらないうちに開戦となり,その結果殊に辺境の邦人を筆紙に尽くせぬ苦境に陥れることになった。」(354頁)
 「関東軍が持久守勢に転移して以来,居留民対策は幾度か問題になりつつも,ついに決定的措置がとられないうちにソ連の参戦に直面することになった。それには幾多の理由があった(既述)が,「今直ちにソ連が出て来ては困るし,また今直ちに出て来るとも限らない」という軍当事者の希望的心理と,防衛企図を秘匿せんとする考えのほか,いまだかって接壌交戦を経験せず,極めて多数に及ぶ在外居留民が直接戦乱の渦中に投げ込まれた体験を持たなかったことが大きな原因であったといえよう。」(408頁)
(2) ソ連軍の対日参戦と日本人の難民化
 1945年8月9日,ソ連軍の中国東北地方への進攻が始まった。当時,関東軍の主力は,守勢作戦への変更に伴い国境線からは内部に後退していた。わずかながら残っていた国境付近の関東軍は,ソ連軍に応戦したが,兵員,装備ともにソ連軍が優勢で,これをくい止めることができず,ソ連軍は中国東北地方の内部にどんどん進攻していった。
 関東軍は,同日,国境地域の日本人居留民について,関係方面軍などに,東安・東寧・牡丹江方面は図門経由北鮮,黒河,佳木斯方面はハルピン経由長春,ハルピン付近は長春,海拉爾,チチハル方面は奉天及び四平街,熱河方面は南満及び関東州を目標に,それぞれ退避するよう意図を通達した。
 この避難の指示は,辺地の開拓団には2,3日後に到達し,ソ連軍の進攻の可能性や関東軍の弱体化を知らされていなかった日本人開拓民は,外地において,陸続きの隣国の進攻による陸戦の混乱の中にじかに置かれることになった。日本人開拓団員は,開拓団の村を放棄して,食糧,衣糧,燃料,医薬品等の蓄えももなく避難を開始し,寄宿できる場所のあてもなく,難民となった。しかも,前記根こそぎ動員等のため,壮年男子,青年男子が不在で,集団の構成員がほとんど老幼婦女子だけという状態で避難を開始せざるを得ないという状況にあり,その避難行動は困難を極め,避難の過程で,ソ連軍の攻撃,一部中国人匪賊の襲撃,飢餓,疾病,集団自決等によって多くの死者を出した。
 日本は,1945年8月15日にポツダム宣言を受諾する意思を内外に明らかにした。その時の日本軍は,ミャンマーやフィリピンなどの地域で一部戦闘状態にあるほかは総体的には銃火が収まった状態にあったが,中国東北地方の関東軍のみが優勢なソ連軍と悲愴な交戦を続けている状態にあった。ソ連軍司令官は,8月15日にポツダム宣言受諾の知らせを聞いても,日本軍の軍事行動に変化がなく停戦の兆候が認められないことを理由に,攻撃を続行した。日本軍(大本営)は,8月15日に,進攻作戦は中止するが当面現任務を続行せよという命令を出した。当時,進攻作戦中の部隊は存在しておらず,この命令では自衛上応戦を続けている防勢作戦中の関東軍は,現任務の防勢作戦に基づく戦闘を続行するほかないことになる。日本軍(大本営)は,8月16日,関東軍にソ連軍との停戦協定を結ぶ権限を与え,ようやく8月19日に双方の軍首脳の間で現地停戦協定が結ばれた。この停戦協定が僻地の部隊にまで伝達されるまでの間,中国東北地方の辺境の地域においては,なお戦闘が続いたが,8月末日ころまでには中国東北地方全土で戦闘状態が終結した。
 しかしながら,ソ連軍との戦闘状態終結によっても,生き残った日本人難民たちの苦難は終わらず,それから長期間にわたり,日本人難民たちは悲惨な状態に置かれた。
 中国東北地方全土において,ソ連軍兵士による発砲,物資の略奪,婦女暴行が頻発し,多数の日本人難民がこの被害を受けた(中国人にもソ連軍兵士から同様の被害を受けた者が出た。)。また,中国人匪賊が中国東北地方全土に出現するようになり,日本人の生命,身体に危害を加え,また,日本人の持ち物を奪っていった。
 生き残った日本人難民は,それぞれの地区の比較的大きな町に避難した者が多く,そのような町において日本人難民の収容所に充てられた建物(倉庫等)に収容され,暖房も医薬品もなく,衣食に事欠く越冬生活に入ることを余儀なくされた。中には,避難中に難民集団からはぐれて,単独で中国人の保護を受けた者もいた。
 防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書関東軍(2)」(乙45)には,開拓団の避難の状況について,次のような記述があり,当時の事情を伝えるものと認められる。
 「それに輪をかけたのが辺境からの撤退者の運命であった。第一線の兵団・諸隊はこれら同胞の救済を焦ったが,多くは本然の作戦処理に追われ,そこまで手が伸びなかったのが実状である。開戦と同時にもよりの鉄道を利用して後退できたのは僥倖の一つまみの人たちにすぎない。最前線の居留民のうち,ある部分は所在の日本軍陣地に収容され,これらの同胞はほとんど例外なく将兵とともに悲壮な最期を遂げた。国境線以外,軍の主力は作戦の必要上概して少しく内部に後退したため,「根こそぎ動員」によって一家並びに職域・地域の中心を失った居留民の逃避行は悲惨を極めた。途中あるいは暴れいな敵軍並びに暴民の迫害によって命を落とし,又は陵辱を被り,幸いにそれらの毒牙を免れても,着のみ着のまま,わずかな携行食だけの難民にとっては,それこそ雲煙万里のさまよいの連続であり,疲労・疾病・飢餓,そしてひごとに加わる北満の寒気,精根の限界が永遠の別れであった。肉親の死に対しても逃避をせかされるため埋葬する余裕もなく,また,疲労の余り愛児とともにグループから脱落するもあり,更に万策尽きて他の子供を救うためやむなく手足まといの幼児を現地人に託す事例すら少なくなかった
。逃避行においてソ軍,暴民の包囲を受け自決の途を選んだ例は枚挙にいとまがないほどである。軍の庇護を失った難民に対し,諸所わずかに残った国境警察隊員・鉄路警護隊員が楯となり,鋒鏑に斃れたのは殊に悲壮であった。最後の対ソ防衛戦における在満居留民の動態は,我が国の歴史上類例のない大悲劇であり,それはまた統帥との相関性についても大きな問題として残されている。」(411頁)
 「ソ軍の侵入開始後辺境の在留邦人が悲惨な境地に陥ったことについては既に幾度か掲記した。終戦とともに無警察状態になった北鮮を含む満州全域の各地所在日本人の惨状ははなはだしいものがあった。この実状に直面しても既に無条件降伏した関東軍としては,ほとんどなすすべがなく,わずかに実状を東京に伝え中央における外交交渉に期待するのが関の山であった。以下は関東軍ないし駐満大使(関東軍総司令官兼任)から出された電報例(要約)の若干である。
 参謀次長あて関参一電第1258号(8月23日参謀長発)
 ソ軍首脳筋は日本軍・邦人に対する無謀行為を戒めあるも,現実には理不尽の発砲・略奪・強姦・使用中の車両奪取等頻々たり(中略)今や日本軍に武力なく,加うるに満軍警・満鮮人の反日侮日の事態の推移等,将兵の忍苦真に涙なくして見るを得ず(中略)願わくば将兵今日の忍苦をして水泡に帰せしめざるよう善処を切望してやまず(以下略)
 重光外相へ(8月30日駐満大使発)
 現在全満に推定50万の避難民あり。わずかな手回り品すら略奪され,着のみ着のままにて食事すら事欠き数日絶食の者さえあり(軍人を含む邦人約200万,うち約9万は朝鮮,関東州に疎開)(中略)目下食糧状況悪化,採暖用石炭の輸送は認可されず,冬季用衣糧住宅等を徴発略奪され,冬季に入りたる以後飢餓凍死者の続出を憂えしめらる(中略)本件ソ軍主脳の内意をただしたるところ,右は東京にて取り決めらるべしとのことにて,ソ支側にては何ら措置せず,当方として全く手のつけようなし。ついては,在外邦人に対し措置される時は,事情御了察のうえ在満婦女子病人を優先するよう御援助あい煩わしたく懇願す」(462頁)
 「かくのごとく終戦後における在留邦人(武装解除後の軍人を含む)の状況は極めて憂慮すべきものがあったところ,9月6日以降においてはしばらく通信が全く途絶し,交通もしゃ断せられたため,新京(長春)においてさえ各地の実情を把握することができず,いわんや東京においてはただ推測により,憂慮するばかりであった。9月末ころ以降に至り,三々五々身をもって満鮮から避難した人たちが内地に帰還するに及び,これらからようやく実状が判明するようになった。当時関東軍の高級者は既にソ領内に移送されていたが,大部の将兵は集結地において不安のうちに現地労役に酷使され,在満約100万の居留民中約10万は北鮮に,約50万は南満関東州方面への避難を続けた。」(464頁)
(3) 日本人難民の苛酷な越冬生活
 開拓団員で生き残った者たちの多くは,1945年9月ころから,たどり着いた北部の町において,収容所に充てられた建物を難民キャンプとして,越冬態勢に入った。原告Aのように,集団からはぐれて,個別に中国人の保護を受ける者もいた。
 中国東北地方の秋は寒く,冬が近づくにつれて寒さはその厳しさを増していった。定職と家を失った日本人難民たちに物資はなく,食糧,衣糧,燃料,医薬品が著しく不足する生活を余儀なくされた。収容所に充てられた建物も,倉庫,学校などの非居住用建物であるのが通常であり,もちろん寝具はなく,土間の上にわら等を敷いて寝具代わりにするのが通常であった。このため,秋から冬にかけて,当時の中国東北地方の風土病である発疹チフスが流行し,各収容所において大量の死者を出した。また,飢えと寒さが原因で衰弱死する者も多数出た。老人,乳幼児が特に犠牲になった。
 中国東北地方の真冬は,最低気温が氷点下30度以下になることが普通であり,このような状況下で,冬用の衣類も寝具もなく,暖房もなく,冷たい土間の上で寝ることを余儀なくされ,食糧の不足も著しい状態が続き,死者が続出していた。この越冬期間内の死亡者は,1945年12月末までに約9万名,1946年5月までに累計約13万名に及んだと推定されている。
 開拓団所属の日本人難民は,婦女子がその大多数を占めていた。そして,このような状況の下で,婦女子を中心とした日本人難民の多くは,自活の手段を失い,このまま死をまつか,現地住民に救いを求めるかの究極の二者択一を迫られた。開拓団員であった日本人女性は,生き延びるためには,中国人の保護を受けるほかなく,そのためには結婚することを余儀なくされるのが通常であった。どうしても嫁になれと暴力をふるわれることもあり,中国人の保護を外れると冬期は最低気温が氷点下30度以下にもなる環境の下で生きていける保障はとてもないこともあって,泣く泣く中国人と結婚し,その後中国に取り残される結果となった日本人女性の数は,非常に多かった。また,多数の子供が,両親を失って孤児となり,あるいは親が養育できないために現地住民に託され,その後中国に取り残される結果となった。これらの女性や子供は,自ら望んだわけでもないのに,中国人の保護を受ける(生命は助かるが中国に取り残されるリスクを負う。)か,中国人の保護を受けない(生命を落とすリスクを負う。)かの運命の分岐点上に立たされていたわけである。
 防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書関東軍(2)」(乙45)には,開拓団の越冬の状況について,次のような記述があり,当時の一般的な事情を伝えるものと認められる。
 「さて,満州・北鮮における敗戦直後の混乱は,10月ころになって一応落ち着きを取りもどし,邦人は恐るべき満州の寒気に対し越冬態勢に移ることになった。邦人の大部は家なく,職を失った難民であって,半年にわたる冬季間において,衣糧,医薬及び燃料の極端な不足,不備な居住施設に加えて襲い来った寒気のため各地に罹病者が続発し,殊に栄養失調症や発疹チフスによる死亡者が多かった。この昭和20年10月下旬に始まった第一次越冬期間内の死亡者は,満州における病没約17万人のうち76%に達し,翌21年5月末ころまでに13万人(うち約70%は20年内の死亡者)を数えるに至った」(464頁)
 また,満州開拓史刊行会編「満州開拓史」(甲219)には,原告Cのいた通河県におけるある開拓団の越冬状況について,次のような記述があり,当時の標準的な事情を伝えるものと認められる。
 「ソ軍侵入と同時に,県公署から現地引揚命令に接したが,在団壮年男子は殆ど不在であった。例えば集団8次大古洞開拓団では,8月10日59名が佳木斯松花部隊に現地応召している。したがって,老幼婦女子のみであったから,その進退に迷うと共に,一面国境地区に配置されていた関東軍に対する信頼の念も未だ厚く,また一面悪天候のため引揚の方途も円滑でなかったので,ぐずぐずしている間に,遂に避難の機を失し,土匪の来襲相次いで起こり,多大の犠牲者を出し,遂に現地越冬の止むなきに立ちいたった。」
 「(1945年)10月2日約4000名の小銃,鎌,槍を手にする暴民が三方から本部に来襲,団長は戦死し,婦女子は山に逃げたが,途中衣をはぎ子供を奪う等乱暴を行い,婦女子は断髪姿となった。この夜本部事務所で37名が自決した。この事件を契機に保安隊に救出された団員は,10月5日濃河鎮に護衛引率され同地民家に収容されたが,10月下旬1棟30坪余りの倉庫に仮床を設けて二階とし,これを収容した。藁,乾草を敷物として藁を編んで布団に代用した。各棟に対し2か所宛のぺーチカを設置した。その付属物として炊事場があった。収容所生活中は,濃河鎮治安維持会から援助を受けたが,支給物は左のとおりであった。
 主食 「もみ」1人当たり約0.5キロ(自力運搬,自力脱穀)
 食塩 若干
 灯火用大豆油 1日に1キロ宛
 炊事用燃料 大車約50台分(原住民労力運搬)
 また,野菜は稼働人員が原住民の収穫脱穀労働に雇用されて得た賃金収入で購入,味噌は本部醸造場跡から婦女子青年が約500キロ背負ってきた。炊事用燃料は,団所在地の最寄り部落の個人家屋をこわしてこれに充てた。
 10月下旬から再帰熱,発疹チフスが発生し始め,これが防止に努めたが,薬品皆無のため手の下しようがなかった・・・11月中旬に至り栄養失調による死亡は日に7~8名を数え,11月下旬から12月中旬までの約1箇月の死亡数は信濃村開拓団のみで四百名の多数に及んだ。このような殺人的悪条件によって年内に約200名は満人部落に縁故疎開(多くは満妻)し,あるいは木蘭県に出て自活するようになった。この結果,本収容所で越年したものは僅かに45名,資金500余円にすぎなかった。」
 中国東北地方の北部に位置する通河県の方正の町で難民状態で越冬していた開拓団員の女性(当時16歳)は,自己の越冬状況について次のように語っており(甲163),当時の標準的な事情を伝えるものと認められる。
 「その時分はもう中国人が車を引いていっぱい来るの。ぼくの家に来ないかって連れに来るんです。奥さんのない人は奥さんに欲しいし,いっぱい来るので,私も考えて,栄養失調で父も亡くなって,小さい妹も亡くなって,私と妹と母と3人が残っていたんです・・・私もそこにいたらすぐ死んでしまうから,中国人が毎日毎日嫁さんにならんかといって来るので,母と相談をして,もしか私が嫁さんになったら三人一緒で置いてくれるようなところがあったら行こうということにしました。どうかして生きていたらいつか日本に帰れると思って,方正の町の人ならということにしたの。方正の町にいたらきっといつか帰るときがあったらすぐ帰れるけれども,山の中に行ったらわからないから,いつ帰るかわから