hanrei @Wiki H17. 7.28 東京地方裁判所 平成15年(ワ)第17326号 損害賠償請求事件



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判示事項の要旨:

 □ 左篩骨洞から左眼窩内にかけての占拠性病変(粘膜嚢腫)を摘出するための開頭手術の後に患者の両眼に視力障害が現れたことについて,担当医師らに責任がないとされた事例
 □ 脳神経外科医師2名,眼科医師2名の合計4名の鑑定人によるカンファレンス方式による鑑定が実施された事例



H17.7.28東京地方裁判所平成15年(ワ)第17326号損害賠償請求事件


主文
   原告の請求を棄却する。
   訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
 1 請求の趣旨
  (1) 被告は,原告に対し,1億2784万6477円及びこれに対する平成12年9月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
  (2) 訴訟費用は被告の負担とする。
  (3) 仮執行宣言
 2 請求の趣旨に対する答弁
  (1) 原告の請求を棄却する。
  (2) 訴訟費用は原告の負担とする。
  (3) 仮執行免脱宣言
第2 事案の概要
   本件は,原告(昭和26年1月8日生まれ,男性)が,被告の開設するA大学医学部附属B病院(以下「被告病院」という。)において,左篩骨洞から左眼窩内に進展した占拠性病変(粘膜嚢腫)を摘出するための開頭手術(以下「本件手術」という。)を受けたところ,本件手術後に両眼に視力障害(以下「本件後遺障害」という。)が現れたことについて,その原因は,被告病院の担当医師らが,本件手術において,翻転した頭皮弁で原告の両眼球を圧迫したことにあるなどと主張して,被告に対し,不法行為(使用者責任)又は診療契約の債務不履行に基づき,逸失利益等の損害賠償を請求する事案である。
 1 前提事実-原告の診療経過(証拠を掲げない事実は,当事者間に争いがない。)
  (1) 原告は,平成11年9月ころ,左眼に痛みや見えにくさを感じたことから,同月24日から同年10月15日までの間,4回にわたって被告病院眼科を受診し,各種検査を受けるなどしたが,その原因は判明しなかった。
  (2) その後,原告は,平成12年5月ころ,左眼に曇りを感じたことから,同月2日,被告病院眼科を再び受診し,頭部CT検査を受けた。そして,原告の頭部CT画像は,被告病院脳神経外科のC医師(以下「C医師」という。)によって読影され,原告の左篩骨洞から左眼窩内壁にかけて占拠性病変があり,これが視神経を圧迫しているものと診断された(乙A1・108頁,122頁,A2・17頁,B1)。
      そこで,原告は,被告との間で,この占拠性病変の治療についての診療契約を締結し,同月8日に被告病院脳神経外科に入院し,同月17日に本件手術を受けた。
      被告病院における原告のその余の診療経過は,別紙「診療経過一覧表」記載のとおりである(当事者の主張の相違する部分を除き,争いがない。)。
  (3) なお,原告の視力は,本件手術前の平成12年5月12日には,右眼の矯正視力が1.5,左眼の矯正視力が1.2と測定されていたが,本件手術後の平成16年6月1日には,右眼の裸眼視力が30センチメートル手動弁(眼前30センチメートルの距離にある手の動きを弁別できる程度の視力),左眼の裸眼視力が0.03,左眼の矯正視力が0.06と測定されている(本件後遺障害)。
 2 争点
  (1) 被告病院の担当医師らが,本件手術の際,翻転した頭皮弁で両眼球を圧迫しないように注意すべきであったにもかかわらず,これを怠ったため,原告に本件後遺障害が生じたか否か
   (原告の主張)
   ア 本件後遺障害は,被告病院の担当医師らが,本件手術において,翻転した頭皮弁で原告の両眼球を圧迫しないようにすべき注意義務を負っていたにもかかわらず,これを果たさなかったために生じたものである。
    (ア) 本件手術において,被告病院の担当医師らが,原告の頭皮弁を翻転させて開頭を行ったところ,原告の両眼球は翻転された頭皮弁によって圧迫され続け,このため,原告の両眼窩内は虚血状態に陥った。その後,圧迫が解除されると,原告の両眼窩内の軟部組織に腫脹が生じて,眼窩先端部症候群(動眼神経,滑車神経,外転神経,視神経などに障害が生じて,眼球運動障害,視力障害などを示す症候群)が引き起こされ,原告の右眼は,完全な網膜中心動脈閉塞に陥り,左眼は,右眼よりは軽度の網膜中心動脈閉塞に陥った。その結果,原告に本件後遺障害が生じたのである。
    (イ) 文献上も,「長時間の圧迫による眼窩内虚血は,圧迫が解除された後に眼窩内軟部組織の腫脹を招き,また眼窩内の血流うっ帯は二次的に海綿静脈洞血栓症等の眼窩draining vein(流出静脈)の血栓形成をきたしうる」のであり,「その結果,眼窩内圧は術後圧迫が解除された後も上昇し,眼窩先端部を通過する神経,動静脈群を絞扼して眼窩先端症候群を呈し,また網脈絡膜の循環障害を生じたものと考え」られる事例が紹介されている(甲B5)。
      本件においても,同様の機序により,眼窩先端部症候群,網膜中心動脈閉塞が発生したものというべきである。
   イ 被告は,本件後遺障害には,他の原因があった可能性も否定できないと主張するが,本件後遺障害の原因としては,翻転された頭皮弁による両眼球の圧迫による可能性が最も高いというべきである。
    (ア) 術前の視力低下について
        被告は,本件手術直後において,原告の左眼の視力が改善しなかったという結果から考えると,左篩骨洞から左眼窩内壁の占拠性病変のほかに何らかの疾患があったなどと主張するが,これは原因不明に持ち込むための詭弁といわざるを得ない。
        原告の左眼の視力は,本件手術によって改善していたはずであるが,本件手術後に眼窩先端部症候群を発症したり,網膜中心動脈閉塞に陥ったりしたために,視力改善を確認することができなかったに過ぎない。
        仮に,本件手術前から,左篩骨洞から左眼窩内壁の占拠性病変のほかに何らかの疾患があったというのであれば,右眼にも症状が現れていて然るべきであるが,原告が本件手術前に視力低下を訴えていたのは,左眼のみである。
    (イ) 糖尿病,高血圧について
        被告は,原告の糖尿病,高血圧症が網膜中心動脈の血栓症の原因になった可能性があると主張するが,両方の網膜中心動脈に同時に血栓症が起こる可能性は極めて低いというべきであって,原告の糖尿病,高血圧症が本件後遺障害を引き起こしたとは考えられない。
    (ウ) 占拠性病変,炎症について
        被告は,本件手術の術野の外において,左篩骨洞内の占拠性病変や炎症が拡大した可能性があると主張するが,本件手術において占拠性病変は摘出されているはずであるし,炎症についても抗生物質の投与によって抑えられているはずである。
   (被告の主張)
    原告の主張は争う。
    原告は,本件後遺障害の原因を頭皮弁による両眼球の圧迫にあると主張するが,本件後遺障害の原因は不明であるというほかない。
   ア まず,頭皮弁による眼球の圧迫という事実自体がない。
     本件手術では,原告は,仰臥位で,下顎部が水平より低くなるように頭部を固定されていたところ,翻転された頭皮弁は,釣針様の器具によって,顔上へ牽引されたが,この釣針様の器具は,弾力性のあるゴムによって術野周囲を覆う清潔覆布に固定されていた。
     このような状況下では,翻転された頭皮弁によって,両眼球に対して何らの力も作用しないとまではいえないが,視力障害が生じるほどの力が作用するとは考えられず,したがって,頭皮弁によって両眼球が圧迫されるという事態は生じ得なかったというべきである。
   イ また,本件後遺障害には,他の原因があった可能性も否定できない。
    (ア) 術前の視力低下について
        原告には,従前から左眼の視力低下が繰り返されていたところ,本件手術直後において,左眼の視力が改善しなかったという結果から考えると,左篩骨洞から左眼窩内壁にかけての占拠性病変のほかにも,何らかの疾患(現在においても,眼科的症状の原因がすべて解明されているわけではないため,どのような疾患であるかは特定できない。)があった疑いは否定できない。
    (イ) 糖尿病,高血圧について
        原告は,糖尿病,高血圧症を患っていたが,これらは網膜中心動脈の血栓症の原因になり得る疾患であり,本件後遺障害が糖尿病,高血圧症によって引き起こされた可能性は否定できない。
    (ウ) 占拠性病変,炎症について
        本件手術においては,原告の左眼窩内の占拠性病変は摘出できたが,左篩骨洞内の占拠性病変については,全部は摘出できなかった。
        また,本件手術においては,原告の左篩骨洞から左眼窩上内側壁の骨が菲薄化して動くようになっていることが確認されたが,これはそのまま残してある。
        このような状況下においては,骨を動かすなどした手術操作によって,左篩骨洞内の占拠性病変や炎症が術野の外に拡大した可能性も否定はできない。
   ウ なお,仮に両眼球に対する何らかの圧迫が本件後遺障害の原因であるとしても,本件手術には開頭による占拠性病変の摘出の方法として何ら逸脱した点はなく,本件後遺障害は本件手術の不可避的な合併症であるというほかない。
  (2) 損害
    (原告の主張)
   ア 治療費
    (ア) 治療費                 2万8750円
    (イ) 薬代                  1万8420円
   イ 付添看護費
    (ア) 入院付添費(平成12年5月17日から同年9月1日まで)
                           70万2000円
       (日額6500円×108日=70万2000円)
    (イ) 在宅付添費(平成12年9月2日から平成15年2月25日ま        で)
                          589万5500円
      (日額6500円×907日=589万5500円)
   ウ 入院雑費                  16万2000円
     (日額1500円×108日=16万2000円)
   エ 通院交通費                    5100円
   オ 休業損害                 273万8232円
     (日額2万5354円×108日=273万8232円)
   カ 後遺症逸失利益             7113万2271円
     (原告は,本件手術時には満49歳であり,年間608万4882円の収入を得ていたところ,本件手術によって労働能力を100パーセント喪失したが,原告が67歳まで稼働した場合の逸失利益は,608万4882円×1.00×11.69=7113万2271円となる。)
   キ 慰謝料
    (ア) 入通院慰謝料            414万0000円
    (イ) 後遺症慰謝料           3000万0000円
   ク 弁護士費用               1302万4205円
   ケ よって,原告は,被告に対し,不法行為(使用者責任)又は診療契約の債務不履行に基づき,1億2784万6477円及びこれに対する本件後遺障害の症状固定日である平成12年9月1日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による金員の支払を求める。
   (被告の主張)
    原告の主張は争う。
第3 判断
 1 争点(1)(被告病院の担当医師らが,本件手術の際,翻転した頭皮弁で両眼球を圧迫しないように注意すべきであったにもかかわらず,これを怠ったため,原告に本件後遺障害が生じたか否か)について
  (1) 認定事実
     前記前提事実,証拠(各認定事実の後に掲げる。)及び弁論の全趣旨によれば,被告病院における原告の診療経過に関して,以下の各事実が認められる。
   ア 原告は,平成11年9月ころ,左眼に痛みや見えにくさを感じたことから,同月24日から同年10月15日までの間,4回にわたって被告病院眼科を受診し,各種検査を受けるなどしたが,その原因は判明しなかった(前記前提事実)。
     なお,原告は,同年10月15日の視力検査では,右眼の裸眼視力が0.3,右眼の矯正視力が1.5,左眼の裸眼視力が0.2,左眼の矯正視力が1.0と測定されていた(乙A1・8頁,9頁)。
   イ その後,原告は,平成12年5月ころ,左眼に曇りを感じたことから,同月2日,被告病院眼科を再び受診した(前記前提事実)(以下,年月日について,特に年を示さない場合は,すべて平成12年である。)。
     原告は,被告病院眼科において,頭部CT検査を受けるなどしたところ,左篩骨洞嚢胞による鼻性視神経症が疑われたことから,被告病院耳鼻咽喉科へ紹介された(前記前提事実,乙A1・15頁,107頁)。そして,被告病院耳鼻咽喉科では,原告の前頭骨には13歳のころに負った頭部外傷による骨欠損があるため,脳神経外科での診察が必要であると判断され,原告は被告病院脳神経外科へ紹介された(乙A1・108頁,109頁,122頁)。被告病院脳神経外科では,原告の頭部CT画像がC医師によって読影され,原告の左篩骨洞から左眼窩内壁にかけて占拠性病変があり,これが視神経を圧迫しているものと診断された(前記前提事実)。
     そこで,原告は,被告との間で,この占拠性病変の治療についての診療契約を締結し,精査加療を目的として被告病院脳神経外科に入院することとした(前記前提事実)。
     なお,原告は,同日の視力検査では,右眼の矯正視力が1.5,左眼の裸眼視力が0.1,左眼の矯正視力が0.4と測定された(乙A1・8頁,9頁)。
   ウ 原告は,5月8日に被告病院脳神経外科に入院した(前記前提事実)。
     被告病院脳神経外科入院時における原告の既往歴としては,13歳のころに負った頭部外傷のほか,4年前からの高血圧症が確認された(乙A2・5頁,7頁)。
   エ 5月12日,原告は,被告病院眼科において診察を受け,右眼の矯正視力が1.5,左眼の矯正視力が1.2,眼底所見については,黄斑部,視神経乳頭ともに正常,眼球突出度については,右眼が10ミリメートル,左眼が14ミリメートルと診断された(乙A1・12頁,13頁,A2・94頁)。
   オ 5月16日,C医師から,原告及び原告の内縁の妻であるDに対して,左眼窩上壁を除去して,左篩骨洞から左眼窩内壁にかけての占拠性病変を剔出し,さらに,欠損している前頭骨を形成する手術(本件手術)を実施することが説明され,原告及びDは,これを承諾した(甲B8,B9,乙A2・20頁,36頁,92頁,証人D,原告本人)。
   カ 5月17日,原告に対して,E医師(術者),C医師(第1助手),F医師(第2助手)らの執刀により,本件手術が実施された(前記前提事実,乙A2・83頁,84頁)。
    (ア) 本件手術は,原告に対して全身麻酔が施された後,午後2時15分に開始された(乙A2・83頁,84頁,90頁)。
    (イ) まず,仰臥位で,下顎部が水平より低くなるように頭部を三点で固定された原告の前頭部の頭皮に,左側頭部から右側頭部にかけて冠状切開が入れられた(乙A2・83頁,84頁,B1,証人C)。そして,原告の頭皮は,切開部から眼窩上縁まで剥離されて,眼窩上縁で薄いガーゼを挟み込むように折り曲げられ,釣針様の器具によって顔上に向けて翻転された(乙A2・83頁,84頁,B1)。この釣針様の器具は,弾力性のあるゴムによって,術野周囲を覆う清潔覆布に固定され,これにより,原告の頭皮弁は,翻転された状態が維持されるようになった(乙A2・83頁,84頁,B1,鑑定人G)。
    (ウ) その上で,原告の頭皮の下に現れた前頭骨の骨欠損部位を取り囲むように開頭が施されたところ,占拠性病変によって左眼窩上壁の一部が欠損していることが認められた(乙A2・83頁,84頁)。続いて,左眼窩上壁が剥離摘除され,ナビゲータ(手術用顕微鏡)を用いながら,あらわとなった占拠性病変が摘出された(乙A2・83頁,84頁,A3の2,証人C)。この際,原告の左篩骨洞から左眼窩上内側壁の骨が菲薄化して動くようになっていることが確認されたが,特にこれに対する処置はとられなかった(乙A3の2,B1,証人C)。
    (エ) その後,人工骨によって前頭骨の骨欠損部位の形成が行われ,午後6時10分に本件手術は終了した(乙A2・83頁から86頁まで)。
   キ 本件手術後,原告から右眼の失明を疑わせる訴えがあったことから,5月18日,被告病院眼科に原告の診察が依頼された(乙A1・16頁,A2・21頁,95頁)。そして,原告は,同日,被告病院眼科において診察を受け,右眼の視力が光覚弁(瞳孔に光を入れた場合に明暗が弁別できる程度の視力)なし,左眼の矯正視力が30センチメートル指数弁(眼前30センチメートルの距離にある手指の数を弁別できる程度の視力)と測定されたほか,右眼の眼球運動について全方向制限,左眼の眼球運動について内転低下気味,右眼の瞳孔について直径4ミリメートル程度での固定,右眼の眼底における全体的な虚血,左眼の眼底における黄斑部,視神経乳頭正常などの診断をされた(乙A1・14頁)。
   ク 5月19日午前9時,原告は,被告病院眼科において診察を受け,右眼における眼瞼下垂,眼瞼腫脹,眼底でのチェリー・レッド・スポットの発生,左眼における黄斑部から強膜にかけての腫脹の発生などの診断をされた(乙A1・17頁)。
     さらに,原告は,同日午後2時20分にも,被告病院眼科において診察を受け,右眼における全眼筋の麻痺,眼瞼部の浮腫,眼球運動不能,散瞳,左眼における眼球運動正常,視神経乳頭正常などの診断をされた(乙A1・17頁)。
   ケ 5月20日,原告から摘出された占拠性病変について,炎症性の肉芽のある粘液嚢腫であったとの病理組織検査結果が報告された(乙A2・119頁)。
   コ 5月22日,原告は,被告病院眼科において診察を受け,右眼の眼瞼下垂が改善するとともに,眼球の若干の外転運動が可能となったことなどが診断された(乙A1・18頁)。
   サ 5月23日,原告は,被告病院眼科において診察を受け,右眼の視力が光覚弁なし,左眼の裸眼視力が0.04,左眼の矯正視力が0.15と測定されたほか,瞳孔不同,右眼における網膜中心動脈閉塞症,眼瞼下垂の治癒,左眼における眼底所見正常などの診断をされた(乙A1・18頁,19頁)。
   シ 5月25日,原告は,被告病院眼科において視力検査を受け,右眼の視力が光覚弁あり,左眼の裸眼視力が0.05,左眼の矯正視力が0.2と測定された(乙A1・20頁,21頁)。
   ス 5月26日,原告は,被告病院眼科において診察を受け,右眼の視力が眼前手動弁,左眼の裸眼視力が0.08,左眼の矯正視力が0.15と測定されたほか,右眼の眼底におけるチェリー・レッド・スポット,左眼の眼底における視神経乳頭の蒼白の疑いなどが診断された(乙A1・23頁)。
   セ 5月30日,原告は,被告病院眼科において診察を受け,右眼の裸眼視力が0.01(矯正不能),左眼の裸眼視力が0.07,左眼の矯正視力が0.2と測定されたほか,右眼の眼球が上下左右に少しずつ動くようになったこと,右眼の眼底における視神経乳頭の蒼白,左眼の眼底における視神経乳頭のやや蒼白,1ミリメートル差の瞳孔不同などが診断された(乙A1・23頁)。
   ソ 原告は,被告病院脳神経外科に入院中,継続的に糖尿が認められていたことから,6月8日,内科に紹介され,同月12日には,糖尿病,高脂血症との診断を受けた(乙A1・138頁,A2・26頁,97頁)。
   タ 原告は,継続的に被告病院眼科において診察を受け,7月21日には,眼球運動が正常範囲内と診断されるなどし,8月11日には,視力検査によって,右眼の裸眼視力が0.01(矯正不能),左眼の矯正視力が0.15と測定されるなどした後,同年9月1日,被告病院脳神経外科を退院した(乙A1・26頁から37頁まで,乙A2・35頁)。
   チ その後も,原告は,平成15年9月5日までの間,継続的に被告病院に通院して,眼科及び脳神経外科において診察を受けた(乙A1・37頁から59頁まで,111頁から120頁まで)。
   ツ 平成16年6月1日,原告が,医療法人HのI医師による診察を受けたところ,右眼の裸眼視力が30センチメートル手動弁,左眼の裸眼視力が0.03,左眼の矯正視力が0.06と測定されたほか,右眼の眼底における視神経乳頭の蒼白などが診断された(前記前提事実,甲A3)。
  (2) 本件後遺障害の原因について
      原告は,被告病院の担当医師らが,本件手術の際に,翻転した頭皮弁で眼球を圧迫しないように注意すべきであったにもかかわらず,これを怠ったため,原告に本件後遺障害が生じたと主張するので,まず,本件後遺障害の原因が翻転された頭皮弁による眼球の圧迫にあるといえるのかどうかを検討する。
   ア 本件後遺障害と本件手術との関連性について
     本件後遺障害が本件手術に起因するものとは認められない場合には,その余の点を論ずるまでもなく,原告の主張には理由がないことになるので,まず,本件後遺障害が本件手術に起因するものといえるのかどうかを検討する。
     原告は,本件手術前の5月12日には,右眼の矯正視力が1.5,左眼の矯正視力が1.2と測定され,また,眼底所見については,黄斑部,視神経乳頭ともに正常と診断されていたところ,本件手術の翌日である5月18日には,右眼の視力は光覚弁すら測定されず,左眼は矯正視力が30センチメートル指数弁と測定され,さらに両眼について眼球運動障害が認められるという状態に陥り,その後も,若干の改善はみられるものの,重篤な視力障害(本件後遺障害)を負い続けている(前記認定事実)のであり,原告の両眼の状態は,明らかに本件手術を境に急激に悪化したものといえる。
     このような時間的経過(とりわけ右眼については,本件手術前には特に異常は認められていなかったにもかかわらず,本件手術後には重篤な視力障害や眼球運動障害が生じている。)に照らすと,本件手術と本件後遺障害との間に何らの因果関係も存在しないとは考え難いのであって,本件後遺障害は本件手術に起因するものと推認するのが相当である(鑑定人G,同J,同K)。
   イ 本件後遺障害発生の機序について
    (ア) もっとも,本件後遺障害が本件手術に起因するものであったとしても,本件手術は,原告の左篩骨洞から左眼窩内壁に存在した占拠性病変を摘出するためのものであって,専ら左眼を対象としていたこと(前記認定事実)からすると,本件後遺障害が,右眼と左眼とで異なる機序によって引き起こされた可能性も考えられなくはない(鑑定人J,同L)。
        しかし,程度の差こそあれ,右眼,左眼ともに,視力障害や眼球運動障害を生じ(右眼にはより重篤な障害が生じている。),視神経乳頭蒼白等の症状を呈するなど,同様の障害を生じていること(前記認定事実)からすると,本件後遺障害が右眼と左眼とで異なる機序によって引き起こされたと考えるのは,むしろ困難というべきであって,本件後遺障害は,両眼球ともに同一の機序に基づいて引き起こされたものと推認するのが相当である(鑑定人G,同J)。
    (イ) そこで,本件後遺障害が両眼ともに同一の機序に基づいて引き起こされたものであることを前提に,本件後遺障害を引き起こし得る機序としてどのようなものが考えられるかを検討する。
       a 本件手術後,原告には,右眼,左眼ともに視神経乳頭の蒼白が認められている(右眼はその程度がより強い。)(前記認定事実)ところ,視神経乳頭が蒼白となるのは,視神経が萎縮を起こしていることの現れである(証人C,鑑定人G)ことからすると,本件後遺障害(視力障害)は,直接的には,視神経の萎縮にその原因があるものと思われる(鑑定人G,同J,同L)(なお,視力障害を生じさせる原因としては,一般に,手術手技による視神経の損傷なども考えられる(鑑定人J)が,本件手術においては,手術手技によって視神経が損傷されるなどしたことを窺わせる事情は見当たらない(鑑定人J,同K)。)。
       b そして,5月19日には,原告の右眼の眼底所見として,チェリー・レッド・スポットが認められている(前記認定事実)ところ,チェリー・レッド・スポットは,網膜中心動脈の閉塞が生じた場合に,脈絡膜の循環を受ける黄斑部のみが赤色(チェリー・レッド)を示し,網膜中心動脈の灌流領域である網膜が虚血のために浮腫を生じて白色となることによって現れるものである(鑑定人L,同K)ことからすると,本件手術後,原告の右眼には網膜中心動脈の閉塞が生じていたものと認められる(証人C,鑑定人J,同L,同K)。
         また,同日,原告の左眼の眼底所見として,黄斑部から強膜にかけての腫脹の発生が認められている(前記認定事実)ところ,これはチェリー・レッド・スポットの出現には至らない程度の網膜中心動脈の閉塞によるものと考えられる(鑑定人L)ことからすると,本件手術後,原告の左眼にも網膜中心動脈の閉塞が生じていたものと推認される(鑑定人G,同J,同L,同K)。
         網膜中心動脈が閉塞した場合,血流障害によって視神経が萎縮を起こし得る(証人C,鑑定人L)ことからすると,原告に生じた視神経の萎縮は,網膜中心動脈の閉塞によって引き起こされたものと推認するのが相当である(鑑定人L)。
       c もっとも,本件手術直後の原告には,両眼についての眼球運動障害や,右眼についての眼瞼下垂,瞳孔の固定が認められている(前記認定事実)ところ,これらの症状は,動眼神経や滑車神経,外転神経の麻痺によって引き起こされるものである(証人C,鑑定人G,同L,同K)ことからすると,原告については,単に網膜中心動脈の閉塞や,それに伴う視神経の萎縮が生じていたのみならず,動眼神経や滑車神経,外転神経にも障害が生じていたものと考えざるを得ない(鑑定人G,同L,同K)。
       d そこで,網膜中心動脈の閉塞のみならず,動眼神経,滑車神経,外転神経の障害をも引き起こし得る機序としてどのようなものが考えられるかを検討すると,動眼神経,滑車神経,外転神経が通過する眼窩先端部に浮腫が生じて,そのためにこれらの神経に障害が生じた可能性が高いといえる(鑑定人G,同J,同L,同K)。
         そして,眼窩先端部に浮腫を生じた原因については,上眼静脈あるいはそのさらに奥の海綿静脈洞といった静脈系の灌流障害であった可能性が高いといえる(鑑定人G,同J,同L,同K)(なお,眼窩先端部に浮腫を生じさせる原因としては,一般に,炎症なども考えられないことはない(乙B2,鑑定人L)が,原告については,炎症性の肉芽のある占拠性病変が存在したのは左篩骨洞から左眼窩内壁にかけてであり(前記認定事実),これによる炎症が右眼にまで及んだとは想定し難く(鑑定人L),また,そのようなことを窺わせる証拠もない。)。
         すなわち,静脈系の灌流に障害が生じると,動脈から流れてきた血液が静脈側に流れていくことができなくなり,眼窩内に浮腫が生じる(鑑定人J,同L,同K)が,この浮腫が,動眼神経,滑車神経,外転神経を圧迫したり,これらの神経に対する血流を障害したりすると,これらの神経にも障害が生じ得ることになると考えられるし(鑑定人J,同L,同K),また,この浮腫が網膜中心動脈を圧迫したり,あるいは静脈系の灌流障害に伴って血流が停滞したりすれば,網膜中心動脈の閉塞も生じ得ることになると考えられる(鑑定人G,同J,同L,同K)のである。
         したがって,本件後遺障害は,上眼静脈あるいは海綿静脈洞といった静脈系の灌流障害によって引き起こされた可能性が高いと考えるのが相当といえる(鑑定人G,同J,同L,同K)。
       e そうすると,眼球を圧迫することによって静脈系に灌流障害が生じうるのかどうかが問題となるので,これについて検討すると,静脈の血流がせき止められるだけの圧力が眼球に加えられれば,静脈系の灌流障害は生じ得るものと考えられる(鑑定人J)から,眼球への圧迫によって原告の静脈系に灌流障害が生じることも,可能性としては否定できないというべきである(鑑定人J)。
         ただ,原告には,糖尿病や高血圧といった疾患が認められていた(前記認定事実)ところ,糖尿病や高血圧を合併している場合には,様々な循環障害を生じ得ると考えられ(鑑定人L,同K),また,全身麻酔における開頭手術の予後にも悪影響が生じ得ると考えられる(鑑定人G,同J)から,糖尿病や高血圧といった疾患が原告の静脈系の灌流障害を引き起こす原因となった可能性についても,これを否定することは難しいというべきである(鑑定人G,同L,同K)。
    (ウ) よって,本件後遺障害を引き起こし得る機序として,眼球の圧迫による可能性を否定することはできないが,他方,糖尿病や高血圧といった疾患による可能性もまた否定することはできないというべきである。
   ウ 原告に対する眼球圧迫の有無について
     上記のとおり,本件後遺障害を引き起こし得る機序として,眼球の圧迫による可能性を否定することができないところ,実際に,本件手術において,翻転された頭皮弁によって,原告の静脈系に灌流障害を生じさせるだけの眼球圧迫がされたと認められるかどうかを検討する。
    (ア) 本件手術において,原告の頭皮は,切開部から眼窩上縁まで剥離されて,釣針様の器具によって顔上に向けて翻転されていたところ,この釣針様の器具は,弾力性のあるゴムによって,術野周囲を覆う清潔覆布に固定され(前記認定事実),さらに,この清潔覆布は,手術台の上方(仰臥している原告の胸部の真上辺り)に設置された棒状の器具にかけられていた(乙A2・83頁,84頁,鑑定人G,同J)。
        このことからすると,原告の頭皮弁は,手術台の上方に設置された棒状の器具に向けてかけられていた清潔覆布に沿って牽引されていたものと認められ(鑑定人G,同J),原告の頭皮弁が眼球の上に覆い被さるようなことはなかったものと考えるのが相当である(鑑定人G)。
    (イ) もっとも,原告の頭皮弁が,上記棒状の器具に向けて上方にかけられていた清潔覆布に沿って牽引されていたとしても,頭皮が厚かったり,あるいは,清潔覆布が二重に折り返される部分が眼球に当たるなどしていた場合には,ある程度の圧迫が眼球に及ぶことも考えられなくはない(乙B2,鑑定人J)。
        しかし,例えば,上眼静脈の血流をせき止めるには,20mmHgから30mmHg程度の圧力が必要と考えられる(鑑定人J)ところ,760mmHgと1.0332kgf/cm2 が等値である(鑑定人J)ことからすると,1mmHgと1.3595gf/cm2 が等値となる(ちなみに,水銀の比重は13.5947g/cm3 となる。)から,20mmHgから30mmHg程度の圧力は,27.190gf/cm2 から40.785gf/cm2 と等値となり,仮に眼窩前面の面積を5cm四方と見積もったとしても(圧力は単位面積当たりに働く力であるから,上眼静脈をせき止めるのに必要な圧力の値に眼窩前面の面積の値を乗じることによって,上眼静脈をせき止めるのに必要な力の値を算出できるが,本件では,眼窩前面の面積を明示する証拠が存在しないので,これが5cm四方であると仮定した場合の試算を示すにとどめる。),679.75gfから1019.6gf程度の力を加えないと上眼静脈をせき止めることができないと考えられるのであって,頭皮が厚かったり,あるいは,清潔覆布が二重に折り返される部分が眼球に当たるなどしていた場合であっても,これだけの力
が眼球に及ぶ事態は,極めてまれなことと思われる。
    (ウ) また,本件手術における頭皮の切開の仕方が不適切であったために翻転された頭皮弁によって眼球が圧迫された可能性の有無も問題となる(乙B2)が,頭皮弁による眼球の圧迫の有無,程度は,主として頭皮弁の牽引の角度や力によって左右される(証人G)ことからすると,本件手術における頭皮の切開の仕方が眼球の圧迫に何らかの影響を与えたと認めることはできない(証人G,同J)。
    (エ) 加えて,眼球が強く圧迫される場合,通常であれば,徐脈が現れる(鑑定人J)ところ,原告には,本件手術中に特に徐脈は認められておらず(鑑定人J),その他,本件手術中に,原告の静脈系に灌流障害を生じさせるだけの眼球圧迫がされたことを窺わせる事情は見当たらない(鑑定人G,同L,同K)。
    (オ) よって,本件手術において,翻転された頭皮弁によって,原告の静脈系に灌流障害を生じさせるだけの眼球圧迫がされた可能性は,否定はできないものの,極めて低いといわざるを得ない。
   エ 小括
     以上によれば,本件後遺障害を引き起こし得る機序として,眼球の圧迫による可能性を否定することはできず,また,本件手術において,翻転された頭皮弁によって,原告の静脈系に灌流障害を生じさせるだけの眼球圧迫がされた可能性も否定することはできないが,いずれについても可能性の域を出るものではなく(しかも,その可能性は極めて低い。),本件後遺障害の原因が翻転された頭皮弁による眼球の圧迫にあると認めることは困難というべきである。
  (3) 被告病院の担当医師らの注意義務違反の有無について
      したがって,原告の請求は,その余の点について判断するまでもなく理由がないが,仮に本件後遺障害が翻転された頭皮弁による眼球圧迫によって引き起こされたとしても,被告病院の担当医師らが翻転した頭皮弁で眼球を圧迫しないように注意すべきであったにもかかわらずこれを怠ったといえるかどうかについては争いがあるので,この点についても判断を示すこととする。
   ア 本件手術のような仰臥位での開頭手術においては,眼窩周囲に器具等が当たらないように,頭部が三点で固定される(鑑定人G)ところ,本件手術においても,原告の頭部は三点で固定されていた(前記認定事実)。
   イ そして,仰臥位での開頭手術の最中に眼球への圧迫の有無,程度を確認するには,眼球を触診するほかない(鑑定人G,同J,同K)ところ,そもそも仰臥位での開頭手術において眼球の圧迫によって視力障害が引き起こされる事態は極めてまれである(鑑定人G,同J)上,翻転された頭皮弁の裏側に手を挿入すること自体が困難であり(鑑定人J),術者が触診をした場合には感染症を引き起こすおそれがあるし(鑑定人G,同J,同K),また,麻酔医が触診をしたとしても眼球の圧迫の有無,程度を診断できるとは限らない(鑑定人K)ことなどから,眼球の触診をしてまで眼球への圧迫の有無や程度を確認することはされていないのが通常である(鑑定人G,同J)と認められる。
   ウ なお,文献「頭蓋内動脈瘤手術後の,突発性の片目失明」(甲B3)によれば,開頭手術において,眼球を保護するためのアイシールドと呼ばれる器具の使用が推奨されているようにも思われるが,同文献は韓国における症例報告であり,わが国においては,一般的にアイシールドと呼ばれる器具は用いられていないようであり(鑑定人G,同J,同L,同K),また,アイシールドが眼瞼の壊死などの障害を引き起こす可能性もないとはいえない(鑑定人J)ことからすると,本件手術において,アイシールドと呼ばれる器具を用いる必要があったとは認められない。
   エ 以上によれば,本件手術では,翻転された頭皮弁による眼球の圧迫を防止するための処置として,原告の頭部を三点で固定すること以上に何らかの方策が要求されていたとはいえず,頭皮弁の翻転の手技自体について特に不適切な点があったと認めるに足りる証拠もないことからすれば,仮に本件後遺障害が翻転された頭皮弁による眼球圧迫によって引き起こされたのだとしても,被告病院の担当医師らに,翻転した頭皮弁で眼球を圧迫しないように注意すべきであったにもかかわらずこれを怠った過失があったとは認められない。
 2 結論
   よって,その余の点について判断するまでもなく,原告の請求は理由がないから,これを棄却することとし,主文のとおり判決する。

         東京地方裁判所民事第30部

              裁判長裁判官 佐 藤 陽 一

                 裁判官 角 田 ゆ み

                 裁判官 川 嶋 知 正