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字は公路。

袁紹と同じ名門袁家の出身で、袁紹とは異母兄弟に当たる。しかし袁紹を『めかけの子』と見下し、公言していた程、二人の仲は最悪だった。
彼の評価は演義の中では最悪で、これは漢に代わって帝位に就こうとしたことに尽きる。しかし実際は反董卓連合の時などは、袁紹と並ぶ二大勢力の一つとして平原に君臨していた。
孫堅は元々袁術の援助を受けて軍を持続させていた。猜疑心の強い袁術は孫堅を疑い援助を止めたこともある。また、孫堅が玉璽を手に入れたとの話を耳にすると、妻を人質に玉璽をを手中に収めた。これが後に袁術を暴挙に走らせる一端となる。
193年には曹操・劉表と組んだ袁紹軍に公孫賛と組んだ袁術がついに兄弟喧嘩さながらの戦をするが、青洲兵を用いた曹操軍に一蹴され、覇権争いから脱落するほどの打撃を受ける。切り札だった孫堅が戦死したことが大きな痛手だった。
197年ついに正式に自らを天子と名乗り、称号を『仲氏』とした。内外の諸侯はこれに猛反発。とりわけ、父から玉璽を奪い取られた孫策は絶縁状を叩きつけ、天子を擁護していた曹操は兵を挙げた。呂布・曹操と小競り合いを続け、敗走を続けたが、199年五月ついに曹操軍に本拠地・寿春を陥落された。
追いつめられた袁術が頼って手紙を出したのは、散々問題を繰り返した異母兄の袁紹だった。
「漢室はとうの昔に有名無実。献帝など重臣達の操り人形に過ぎません。今こそ強いものが天下を取る…これあるのみです。
されば、わが袁家が天命を受け帝位に就くのは当然。これは占いや予言でも明らかです。今、兄上は四州を併せ持ち、支配化の人民は百万戸にも及ぶ。兄上を超える有徳者は他にはいません。」
袁紹はこれを受け入れ、袁術は少ない従者と共に北上する。その道すがら、急病にかかり死亡する。最後に蜂蜜水を所望したが、少しの麦くずしか残っていなかったとされている

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