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甘寧(カンネイ)字は興覇。若い頃から遊侠の者たちを集め、その頭領だった。甘寧の手下達は、腰に鈴をつけていた。このため人々は鈴の音が聞こえると甘寧の一味が来たと、知ることが出来たという。『鈴の甘寧』という名はここから。役人を差し置いて、自ら警察業務を取り仕切るようなこともしていた。年を取ると読書もするようになった。
やがて荊州の劉表、ついで江夏太守の黄祖の下に移った。孫権が仇敵の黄祖を攻めた時、凌操を射殺している。そんな武功を挙げながらも厚遇されなかったので甘寧は呉に向かいたかったが状況がそれを許さなかった。都督の蘇飛は甘寧を用いるように黄祖に進言したが、聞き入れられなかったので、自らの配下に組み入れ田舎に赴任させ、その隙に好きなところに行くように配慮した。かくして甘寧は呉に向かい、孫権に認められて厚遇された。甘寧は赴任早々黄祖打倒を進言し、孫権は黄祖を打ち破って江夏郡を手に入れた。当初孫権は黄祖と蘇飛のために二つの首桶を用意していたが、甘寧は黄祖の元から離れる策を自分に示してくれた蘇飛の命を孫権に涙ながら訴えて助けた。

赤壁での戦い後も甘寧は常に最前線で活躍し、張遼を引き合いに出し、孫権は
「孟徳に張遼がおり、私には興覇がいる」
と絶賛している。
215年、合肥で魏と対峙した際、呉に伝染病が流行り、呉軍は撤退した。孫権の近衛兵と甘寧、呂蒙ら千人余りが残るのみであった。張遼はこれを察知しすぐに攻め寄せた。甘寧は命を懸けて孫権を守った。その勇敢な様は誰もが感動する様なもので、孫権も非常に喜んだ。この戦いの後に死去している。死因は正史では不明。
性格は粗暴で殺生を好むところがあり、孫権の命令に従わないこともあったという。
さて父の凌操が甘寧に殺されたことを恨んでいた凌統。甘寧はこれを警戒して凌統とは会わなかった。ある酒宴の席で、二人は剣を手に踊り始めた。呂蒙は
「甘寧にも出来るであろうが、私のほうが上手だ。」
と急いで二人の間に入って舞った。孫権は凌統の覚悟を知ると、甘寧の駐屯地を変更したという。しかしこの後、同じ戦地で戦っている記述もあるので、和解をしたのか、凌統が諦めたのか、気になるところだ。

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