「蛮夷戎狄」(2010/03/09 (火) 16:54:56) の最新版変更点
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#CONTENTS
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*蛮夷戎狄
**日本武尊
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|100|59|80|99|神将|S|C|S|B|C|C|||
【ヤマトタケル】
日本神話の中でももっとも武力に優れた英雄のひとりである。超人の日本武尊の性格は、異常に猛々しく、非常に冷徹で過酷だったようである。結果的には、それが災いしてその生涯に悲劇的英雄としての色合いをつけることになった。その日本武尊の生涯を守りぬいた剣として草薙剣があるが、これはおおもとをたどると素盞鳴尊が八岐大蛇の体から取り出した宝剣である。蛇は山の神(または水の神)であり、豊穣に関係する神霊であるから、この剣の神霊は豊穣を守護する神格も備えているといえる。そして、この剣を手放して戦に出た日本武尊は、あえなく命を落とすことになる。
**上杉謙信
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|96|98|79|71|95|神将|S|C|C|S|B|C|||
【ウエスギケンシン】
尋常ならざるカリスマ性と統率力を持っていた。銃弾が頭をかすめても自分にあたるわけがないと本気で思っていたため全く臆することがなかった。武力のみの人物だと思われがちだが計算された金山経営など政治面でもたくみであった。よく武田信玄とは長きにわたる戦いの末、実は二人の間には友情があったのではないかといわれたりするが、実際は武田信玄のことを策略ばかりめぐらす奴と心底嫌っていたようである。
**武田信玄
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|97|91|89|85|96|不屈|A|B|S|S|A|A|||
【タケダシンゲン】
最近では風林火山でお馴染みの甲斐の虎。戦国最強の騎馬隊で知られるが、現在と比べると馬は小さかったらしい。父信虎から嫌われていたが、そういう自分も嫡男を粛清したのは皮肉である。英雄色を好むを地でいく人で、男も女も盛んであった。臨終の間際、勝頼に上杉謙信を頼るよう遺言したと言われる。
**織田信長
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|94|86|91|79|96|急襲|A|C|B|S|A|C|||
【オダノブナガ】
三国志に登場する曹操と雰囲気が似ているとの理由で、本場中国では嫌われている曹操が日本国内に三国志と曹操がすんなり浸透できたのに一役かっている人物。戦略では天才というイメージがあるが、歴史家や評論家からは彼は戦略面で本当に天才だったのか?、と疑問が沸いている人物でもある。
**東郷平八郎
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|92|76|91|70|81||||||S|S|1848|1934|
【トウゴウヘイハチロウ】
弘化4年12月22日(1848年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日)、日本の武士・薩摩藩士、明治・大正期の大日本帝国海軍軍人。元帥海軍大将従一位大勲位功一級侯爵。明治期の日本海軍の司令官として、日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。日露戦争における日本海海戦でロシア海軍を破り世界の注目を集め「東洋のネルソン」と賞賛された。日本海海戦での敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督と評価され、日露戦争の英雄として乃木希典と並び称された。 日露戦争の際に連合艦隊を率いて行った急速旋回「東郷ターン」を行った。ホレーショ・ネルソン、ジョン・ポール・ジョーンズと並ぶ世界三大提督の一人でもあり世界の海軍将校からAdmiral Togoとしてその名を知られている。また、肉じゃがの生みの親である。その生涯において特出すべき日露戦争での日本軍の勝利は世界の歴史の流れを一変させる大変な出来事であった。それは日本国内にとどまらず外国にも大いに影響し、それは最終的に第一次世界大戦へと繋がることになる。山本五十六などからは東郷を神格化しすぎていると評された。また戦略面で東郷は「百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得る(百発百中の砲一門は百発一中の砲百門に勝る)」という言葉を残している。この言葉が東郷の信念を表すとともにその後の日本海軍の姿勢と限界(後に井上成美は「百発百中の砲一門と百発一中の砲百門が撃ち合ったら,相手には百発一中の砲九十九門が残る」と批判)をも示したものとなっている。
**山本五十六
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|83|75|92|86|90||||||A|A|1884|1943|
【ヤマモトイソロク】
明るく冗談好きで、部下・同僚からの信頼が非常に高かったこと。当時の欧米事情に詳しく、日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対していたこと。航空機に早期から着目し、海軍航空隊設立に尽力したこと。日米開戦が開始されると「短期決戦・早期和平」という日米間に於ける国力の差を冷静に分析した現実的な作戦計画を実施しようとしたこと等、旧日本海軍軍人の中でも傑出した名将としての評価は今日でも高く、敵であったアメリカ側からも山本五十六を賞賛する意見が多い。
**工藤俊作
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|87|78|81|88|90||||||A|A|1901|1979|
【クドウシュンサク】
日本海軍中佐。体格が良く柔道の有段者であったが、性格はおおらかで温和であった。艦内では鉄拳制裁を厳禁し、部下には分け隔て無く接した。決断力もあり、細かいことには拘泥しなかったので、部下の信頼は厚かった。戦後は海兵のクラス会には出席せず、毎朝、戦死した同期や部下達の冥福を仏前で祈ることを日課にしていたという。駆逐艦「雷(いかづち)」に艦長として乗船していた際にスラバヤ沖海戦にて撃沈され漂流していたイギリス軍人数百人と出合った。それを見た工藤は的確な判断でイギリス兵たちの救助に尽力して422名のイギリス兵を救った。この人数は雷の乗務員の倍の数だったため救出後の反乱やイギリス兵たちへの食料問題など多数の問題を抱えていたものの、工藤は救出したイギリス兵たちに向かって英語で健闘を称え、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」とスピーチした。そして兵員も含め、全員に丁重な処遇を施した。
雷に救助された「エンカウンター」砲術士官であった元海軍中尉サムエル・フォールは、戦後は外交官として活躍したが、恩人の工藤の消息を探し続けていた。彼が工藤の消息を探し当てた時には既に他界していたが、せめて工藤の墓参と遺族へ感謝を伝えようと2003年に来日した。しかし、そのことを実現できなかったため、惠隆之介に依頼した結果、2004年12月に墓所等の所在が判明した。そのことはフォールへ報告され、翌年1月に恵は墓参等を代理して行い、元英海軍士官の願いが実現したのである。
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*諸国の英雄
**ティープー・スルタン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|93|91|94|88|90|工神|A|C|B|B|S|C|1750|1799|
【ティープー・スルタン】
インド南部のマイソール王国の国王(位1782-1799)。インドの民族的英雄のひとり。
イギリス軍からは『マイソールの虎』と畏怖された。イギリスのインド植民地化における最強最後の障害であり、王国の軍事内政の近代化・中央集権化を推し進め、イギリスを大いに悩ませた。第2次マイソール戦争では父ハイダル・アーリーの病没を知り攻勢を強めたイギリス軍に対し、フランスと同盟を組みイギリス軍を足止めするなどよく持ちこたえ、最終的にはイギリスに対して事実上の勝利を得た。
その後イギリスの恫喝外交や諜略によってマラータ諸侯などの周辺国と敵対を余儀なくされ、第4次マイソール戦争で王都に攻め込まれ、降伏せずに自ら剣と銃を執って奮戦し、壮絶な最後を遂げた。彼の死後イギリスのインド植民地化は加速していく。
世界的な視野を持ち、政戦両面に長じ、宗教的に寛容で多数の言語に堪能な教養豊かな人物であり、当時の世界の中で傑出した人物であったといえる。また新技術への関心が深く、鋼鉄製の飛翔体を使ったロケット砲を台車に装荷し大規模部隊で集中運用した、史上初めての人物でもある。
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*外国を含む人類の発展に影響を与えた人物
**シュリニヴァーサ・ラマヌジャン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|||97||95|神算|||||||1887|1920|
【ラマヌジャン】
インドの魔術師と異名をもつ天才数学者。幼いときから非常に優秀であった。
昔彼が唐突に発表した数学に関する論文には、最初は「何故そうなのか」というような証明を自身が一切していなかったため、またあまりに複雑だったため見向きもされなかったが、後に改めて見直されると今まで発見されていなかった全く新しい計算方などがいたるところに見受けられ、最初は評価されなかったラマヌジャンだが後に真の一級数学者と認められるようになった。
**アントワーヌ・ラヴォアジエ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|67|41|98|79|100|神算|||||||1743|1794|
【ラヴォアジエ】
質量保存の法則を発見するほか、数多の分野で膨大な功績を残した万能の天才。本格的な近代科学は彼によってはじまり「近代科学の父」と評される。ルイ16世支配時の1791年に国家財政委員に就任し、フランスの金融・徴税システムを改革しようとした。しかし、フランス革命勃発後の1793年に徴税吏であること、徴税請負人の長官の娘と結婚したことなどを理由に投獄された。徴税請負人は市民から正規の税+高額な手数料をとったため革命政府の標的とされた。ラヴォアジェ自身はそこまでひどい徴税はせず、むしろ税の負担を減らそうと努力していたが、1794年5月8日の革命裁判所の審判で死刑とされ、その日のうちに、ギロチンで処刑された。実際は新聞記者であったジャン=ポール・マラーの学会入会に強く反対し、(論文の出来がひどかった)その逆恨みで処刑されたらしい。
ギロチンで処刑される際「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」とジョゼフ=ルイ・ラグランジュに泣かれた。
**ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|||99||100|神算|||||||1736|1813|
【ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ】
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange1736年1月25日~1813年4月10日)は、イタリアのトリノで生まれフランスで活動した数学者、天文学者である。オイラーと並んで18世紀最大の数学者。彼の初期の業績は、微分積分学の物理学、特に力学への応用である。その後さらに力学を一般化して、最小作用の原理に基づく、解析力学(ラグランジュ力学)をつくり出した。また数論に関する業績もある。全ての自然数が高々四つの平方数の和によって表されるという定理はラグランジュの四平方定理と呼ばれる(1770年)。また、ウィルソンの定理(の逆?)を証明した(1771年?)のも彼である。
さらに彼は、五次以上の方程式がベキ根によっては解けないことについても研究し、根の置換など群論の先駆けとなるような研究も行っている。この問題は後にアーベルによって証明された。(もっともラグランジュ自身は解けるための条件を示したのであり、可解という可能性は捨てていなかった)
彼は、度量衡の標準化に尽力したことでも有名である。彼はフランス革命を目撃し、フランスの化学者だったアントワーヌ・ラヴォアジエの処刑についてこう語ったという。
「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」
またマリー・アントワネットの数学教師でもあった。彼女やラヴォアジエの処刑を嘆き、「なぜ私が残されたのかわからない」と一生苦しみつづけた。
**ジョン・フォン・ノイマン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|62|45|100|54|100|神算|||||||1903|1957|
【ジョン・フォン・ノイマン】
20世紀科学史における最重要人物の一人。
数学・物理学・工学・経済学・計算機科学・気象学・心理学・政治学に甚大な影響を与えた。第二次世界大戦中の原子爆弾開発や、その後の核政策への関与でも知られる。彼の功績は計り知れない。特に科学・数学の分野で彼が発見し組み立てた数多の理論は現在の科学の基礎となっている。また古の例と比べてみても異常なほどの計算能力を持ち、その計算能力の凄まじさを物語った逸話や噂が大量にある。
以下におもな業績を述べる。
「数学」
純粋数学では、数学基礎論、集合論や測度論、作用素環論、エルゴード理論、またゲーム理論の成立に貢献している。数学基礎論ではゲーデルとは独立に第二不完全性定理を発見している。
「物理学」
物理では量子力学の数学的基礎付けを行っている。
「気象学」
ジュール・グレゴリー・チャーニー、フョルトフトとともに気象力学の草分けの一人。気象学において数理モデルとコンピュータを使う斬新な手法を持ち込んだ。
「経済学」
フォン・ノイマン多部門成長モデルによる経済成長理論への貢献、 生産集合・再生産の生産システム概念の導入、 ブラウワーの不動点定理を使い均衡の存在を証明。
経済学での、もっとも大きな貢献としてオスカー・モルゲンシュテルンと共に経済学にゲーム理論を持ち込んだ。この応用をもってゲーム理論の本格的な幕開けとされ、現在経済学ではミクロ、マクロと並ぶ重要な分野として確立している。
「計算機科学」
EDVAC開発に参加した際、ストアードプログラム方式に関する論文を自分名義で発表したためストアードプログラム方式の考案者であると言われていた。彼のストアードプログラム方式は「ノイマン型コンピュータ」とも言われ現在のほとんどのコンピュータの動作原理である。アラン・チューリング、クロード・シャノンらとともに、現在のコンピュータの基礎を築いた功績者とされているが、実際にはEDVAC開発チームのジョン・エッカートとジョン・モークリーが発想した方式をまとめ数学的基礎を与えたと言われている。
ノイマンはセル・オートマトンの分野を自ら創出し、(当時はろくにコンピュータも無かったにもかかわらず)実に方眼紙とペンだけで、自己増殖の事例を構築してみせた。ユニバーサル・コンストラクタの概念は、ノイマンの死後、「自己増殖オートマトンの理論」Theory of Self Reproducing Automataとして肉付けされることになった。「フォン・ノイマン・マシン」という表現が使われることがあるが、この表現は「ノイマン型コンピュータ」のアーキテクチャのことを指すだけでなく、この「自己増殖マシン」のことも指すことがあるのである。この自己増殖マシンを使用すれば、例えば月全体を探索するというような大規模探索の課題は、指数級数的な増加の利点を活かして、最も効率的に行うことができることを示してみせた。
最後は核実験による放射能の影響で1957年に骨肉種を発し全身に転移した。そして悶絶するような激痛におそわれながら最後を迎える。この時ノイマンは痛みのあまりに取り乱しており、「3+4=?」というただの足し算の問題の答えがわからず泣き出したりして、最終的には「錯乱されて機密を漏らされては困る」とのことで軍に監禁されていた(もし喋れば射殺命令すらでていた)。
ちなみに女性秘書のパンツを覗く趣味があった。
**レオンハルト・オイラー
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|60|31|100|75|100|神算|||||||1703|1783|
【レオンハルト・オイラー】
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュと並ぶ18世紀最高の数学者、物理学者、天文学者。かつてはスイスの旧10フラン紙幣の肖像に使われていた。1707年にスイスのバーゼル近くで生まれた。当時親はオイラーを牧師にさせたいと考えていたが、14歳の時にヨハン・ベルヌーイの講義を見たことで数学に魅了され数学の道に歩むことになった。だがその後しばしば父親に牧師になれと忠告されたがヨハン・ベルヌーイによって才能を見出されていたことから、ベルヌーイの説得のおかげでオイラーが数学の道を歩むことに同意した。その後オイラーは熱心に数学を学ぶが勉強のしすぎにより1738年に右目を失明するなど大変だった。だがオイラーはその後、人類史上最も多くのことを発見し、その後の科学の歴史に甚大な影十分な業績を示している。オイラーの論文や原稿や手紙といったものの量があまりにも膨大なため、オイラーによって初めて得られた結果であるのに他の人が初めて発見したものであると認識されているものが、非常に沢山ある。
**ゴットフリート・ライプニッツ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|91|40|99|84|100|神算|||||||1646|1716|
【ゴットフリート・ライプニッツ】
ライプニッツの功績はあまりに大きい。彼は多種多様な分野で多大な功績を残したため万能の人とも呼ばれる。
ライプニッツは優秀な哲学者であったが同時に偉大な数学者でもあり科学者でもあった。また政治家としても活躍しており外交官も勤めた。また彼が発見・発明したものとは別に特出させるべき功績がある。それは17世紀当時の細分化されたあらゆる学問を一度統一し体系化させたことにある。それは法学・政治学・歴史学・神学・哲学・数学・経済学・自然哲学・物理学・論理学等などあらゆる分野にわたり、さらにその後法典改革、モナド論を唱え、微積分法、画期的だった数々の数学記号の考案、論理計算の創始、さらにベルリン科学アカデミーを創設するなど後に与えた影響は計り知れない。ライプニッツは学問界のとてつもない巨人といえる。また記号論理学を研究中に八卦(中国の易に使われる基本図形)を見て二進による計算が含まれていることを見出した結果、二進記数法を発見したのもライプニッツである。
**イマヌエル・カント
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|77|43|87|99|99|不屈|||||||1724|1804|
【イマヌエル・カント】
ドイツの思想家。両親は彼にエマヌエルと名づけたが、その後カントはヘブライ語を覚えると、その知て時計の針の狂いを合わせたという。またある日、カントはたまたま「エミール」という本に衝撃を受けたのか一日中読みふけっていて散歩にいかなかったことがあった。そうすると周日の人々は「カントが来ない」と大騒ぎになった。(年をとって生活が単調になったからという指摘もある)。容姿は青く小さな、しかし輝く瞳をもった小柄な(身長157センチ程度)人物であった。身体は骨格、筋力ともにやや貧弱。正装する時には服が身体から滑り落ちるのを防ぐため、いわゆる「留め具」が欠かせなかったという。身体の割に頭は若干大きめだった。なお、虚弱という割には最晩年まで命にかかわるような病気とは無縁で、顔色もすこぶるよかったらしい。
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*ギリシア神話
**アポロン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|78|99|64|2|90|弓神|B|B|S|A|A|C|?|?|
【アポロン】
主神ゼウスとレトとの息子で、アルテミスとは双子。後期には光明神の性格を持つことからヘリオスと混同され、太陽神とされたが、元は予言と牧羊と音楽(竪琴)と弓矢の神。諸説ある「の神としても信仰された。医神アスクレピオスがアポロンの子とされるのはそのためである。このように、アポロンの性格は理性的、知性的であると同時に人間を疫病で虐殺したり、音楽の腕を競う賭けでサテュロスの一人、マルシュアスを生きたまま全身の皮をはいで殺すなど、冷静冷酷な残忍さをも併せ持っている。
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