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周瑜


三国時代のエリート


彼のデビューは、呉の問題児こと小覇王孫策と出会い、義兄弟の契りを結ぶところから始まる。そして、その問題児が国を建てて、その国の武将に招かれたことで彼は呉の武将としてデビューする。
彼はまず、非常にエリートだった。
そのため、ただウマが合う、という理由だけで孫策は義兄弟になったのではなく、「成り上がりもので人望のない俺よりも漢の高い役職についている名門の周瑜が交渉したほうが人材や資金が集まるかも」という思いがあったのかもしれない。
ただ、これを非常に悪いように翻訳すると、
「うーん、俺のような身分詐称っぽいヤツがいっても名家のボンボンのような絶好の金づるなんかは相手にしてくれそうにないんだよな、はっきりいってんなモン無駄足だし。よし。ここは眉目秀麗、文武両道、おまけに絶対音感の持ち主で叔父が漢王室の役人で地元でも評判な周瑜をうまく利用したほうがいいな!」
・・・よく考えたら周瑜にとっては非常に迷惑である。
しかし、周瑜は孫策と義兄弟の契りを結んだ仲。
この際だからやってやろーじゃねえか、そう思ったに違いない。
しかし、この孫策という男もなかなか厄介者で、サディスト精神全開で戦争やら人を殺すのを思いっきり楽しんでるし、そのせいで母親を自殺未遂まで追い込む始末。本当に大丈夫なのか、と思っていた矢先、その問題児が仙人の祟りに会ってぽっくりと逝ってしまった。それにしても、この問題児が暴れていた4年間、うまく国を支えてきた周瑜のはたらきは大きい。
なぜなら、この男がいなければ孫家はまさに人望ゼロ。
人材をスカウトすることもままならず、戦のための軍資金すら集まらないので問題児が大好きな領土拡大という名義の快楽殺人・・・もとい、戦争すら起こせない。(それはそれで平和なのだが)
そして、問題児が亡くなった後の後継者はまだ若い孫権。
もちろん逆らいたくなるやつも出てくる。
しかし、ここでまた周瑜が動いた。
当時孫呉で一番実力と人望を集めていた周瑜が臣下となったのだ。
そうなればそう簡単に文句は言えない。
周瑜は再び呉を救ったのである。
しかし、ここで孫呉最大の試練が訪れる。
世に言う、「赤壁の戦い」である。
この戦いでは降伏派と交戦派の二つに分かれてしまったのである。
しかし、周瑜はまたもや呉を救った。
魯粛とともに徹底交戦を主張。
そして劉備率いる放浪軍団と手を組んだとはいえ、赤壁の戦いそのものはもはや周瑜の独壇場。孫呉の必殺技である「火計」を使ったのである。
これによって孫呉は救われ、周瑜は孫呉における英雄となった。
しかし、天は天才を許さないのか、荊州、益州をとり曹魏と対抗する天下二分の計を唱え、実行間際に僅か36歳の若さで病死。

あと一年周瑜が生きていれば三国時代は変わっていたかもしれない、という学者も現れるほどに凄かった彼は、その分命の短さも凄かった。