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注意点

基本的に、新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の 決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物 であり、 その正誤も、各人それぞれ異なります。
当然、 万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には 各プレイヤーの裁量次第 であることをお忘れなきようお願い致します。
理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。 (過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する ことをおススメします。

もう一度言いますが新武将は「 作成例 」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。

2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
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※このページは特に現行の能力値設定の是非を巡ってコメント欄が紛糾したため、現在コメント欄が撤去されています。
コメントログは こちら



後漢(25~220)

東漢とも。
前漢景帝の後裔の劉秀が樹立。
劉秀は王莽に対する豪族の抵抗を組織化するとともに農民軍を利用し、
洛陽を都に漢朝を再興して36年までに全土を統一し、
讖緯によって修飾された儒学を国学とするなど内治の整備に尽力した。
次の明帝・章帝の時代に最盛期を迎え、対外的にも積極に転じて匈奴を大破して西域諸国が帰属し、
前漢の威信を概ね回復した。
章帝の死後は幼帝が続いて外戚が朝政に容喙し、皇帝が外戚に対抗するために重用した宦官の弊害も著しくなり、
2世紀中頃には大学生や官僚と宦官との政争の結果、二次に亘る“党錮の獄”が発生し、
朝廷は宦官派が主流となって地方豪族に対する求心力を失っていった。

劉秀(文叔)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
100 94 96 95 100 神将or覇王or仁政 S S A S A B B.C.6 57

※中華統一後(43歳以降)Ver.
統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
81 82 100 100 100 風水or富豪or仁政 C C C C C C B.C.6 57
【リュウシュウ(ブンシュク)】
後漢の創始者。光武帝。 中国史上有数の皇帝と呼ばれる。
その器量人徳を慕って多くの優秀な人材が集い、これら家臣は雲台二十八将と呼ばれる。
即位前後を問わず、戦場では軍頭で自ら得物を手に戦う勇士であり、度々諫言された。
赤眉軍を撃破して後、各地の群雄を次々と打倒。最後に蜀の公孫述を滅ぼし再統一に成功。
晩年は戦争を忌避して民衆の安寧を重んじ、疲弊した中華の復興に全力を尽くし、封禅の儀を実施。
翌年に崩御し、子の劉荘が第ニ代皇帝となった。

補足: こちら

鄧禹(仲華)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
87 78 90 95 95 心攻or眼力or指導 S S A B A B 2 58
【トウウ(チュウカ)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の筆頭。
更始帝(劉玄)の挙兵当時、大勢に推挙されたが、出仕せず学友の光武帝の下へ赴く。
天賦の慧眼の持ち主で、賈復、銚期、呉漢、寇恂を推挙し、
自身も河北平定戦・長安侵攻戦・関中侵攻戦に連戦。
光武帝の即位後は若干二十四で大司徒を拝命して位人臣を極め、百万の兵を率いるが、
征西では延岑に敗れ、赤眉軍との長安攻防戦にも敗戦を繰り返し大司徒の印綬を返上。
明帝の太傅を務め、賓客として遇された。
その才知と人格は、張良・顔回に擬せられた。

呉漢(子顔)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
96 98 89 62 85 飛将or疾走 S S A S C C ? 44
【ゴカン(シガン)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の次席。
漁陽太守彭寵の下にいたが、勇猛で知謀ありと鄧禹によって見出された。
幽州の突騎兵を率いて活躍し、劉秀が即位すると大司馬に任ぜられる。
平時は闘いに備え常に武具の手入れをしていて、数多くの戦いに転戦した。
忠義一途で光武帝からの信頼は厚く、自身が死ぬまでの二十年もの間、
大司馬の要職で光武帝を支え続けた。
だが、配下共々血気盛んで荒れやすく、略奪癖などは度々光武帝にも譴責され、
後の蜀の反乱の原因となった。

賈復(君文)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
93 99 85 87 86 威風or闘神 S S A S C B 55
【カフク(クンブン)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第三位。
羽山にて挙兵し、将軍を自称する。
更始帝が即位すると、宗族の漢中王・劉嘉のもとで校尉となるが、
劉嘉の紹介で河北を攻略中の劉秀に仕えた。
勇猛果敢な将軍で闘ってはしばしば負傷したが一度も敗れたことがない不敗の猛将。
敵陣に深入りして危険を冒すため、光武帝は遠征の任務を与えず常に身近に置いた。
河北攻略・河南平定戦に活躍、赤眉を滅ぼし左将軍となるが、天下が定まると将軍職を返上、
膠東侯に封じられ、鄧禹・李通とともに国政を諮問された。

耿弇(伯昭)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
97 84 99 85 90 虚実or神算 A A S S S C 3 58
【コウエン(ハクショウ)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第四位。
上谷太守耿況の嫡男。耿舒の兄。
河北で孤立する劉秀に帰順するように父に勧めて、自ら馳せ参じ、
主に河北平定で活躍。
二十一歳の初陣から三十一歳で引退するまで、
武勇と謀略の硬軟取り合わせた用兵で全ての戦いに勝ち続けた常勝将軍。
天下統一後は将軍職を辞するが、天下の大事に議論が分かれた時には召されて計略を尋ねられた。
その虚々実々の徹底した計略戦は、後世、魏の曹操も絶賛したという。

寇恂(子翼)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
85 72 95 99 94 能吏or運搬 A A S A A B ? 36
【コウジュン(シヨク)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第五位。
上谷の豪族。太守の耿況に漁陽郡と連合することを説いて上谷を劉秀に帰順させ、
その一将として兵馬を率いて劉秀に合流した。
鄧禹の推薦で補給の拠点となる大郡の太守となり、
軍の食糧を供給し続けて前漢の名宰相蕭何に比肩される。
用兵や外交にも長け、文武の才を兼ねた。
宰相の才と評されるが、光武帝の天下統一を目前にして病没する。

岑彭(君然)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
98 92 88 82 95 強行or神将 S S A A B S ? 35
【シンホウ(クンゼン)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第六位。
新の棘陽県長で、宛城を守り漢軍を苦しめるが劉縯に降伏を赦される。
劉縯没後は朱鮪の校尉となるが、後に劉縯の弟の劉秀軍に合流、河北平定に従う。
後に朱鮪の洛陽を攻め、説得し降伏させる。
規律高い軍隊を率いて電撃戦を展開し、征南大将軍として荊州方面の平定に尽力。
秦豊を滅ぼし、隗囂を拒むが、公孫述討伐の最中に刺客に斃れた。
受けた恩義を忘れぬ信義の将で、その死は敵味方を問わず涙させたという。

馮異(公孫)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
99 87 95 90 94 心攻or深謀 S S S A A B ? 34
【フウイ(コウソン)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第七位。大樹将軍の異名を持つ。
王莽のもとで穎川郡を守っていたが、非凡な才を秘める劉秀を見抜いて降伏。
河内を守り、蘇茂・朱鮪の軍を撃破、赤眉戦では鄧禹と交代して大勝するなど大功を挙げた。
征西大将軍を拝命し、延岑を破り、長安を復興させ、蜀の公孫述の侵攻を退け、
西涼で反した隗囂を破った。隗囂の遺児、隗純を攻める軍中で病により陣没。
孫子兵法に通じ、謙虚で功を誇らず、進退は常識に適い、軍紀は整然であった。

朱祜(仲先)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
88 86 80 76 85 補佐or屯田 A A S S B C ? 48
【シュコ(チュウセン)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第八位。
劉秀の親戚かつ幼馴染で、また長安にともに留学した学友でもある。
挙兵時からの古参で、昆陽の戦いから河北平定に奔走し、武勇優れた将軍として活躍した。
劉秀が皇帝に即位すると、建義大将軍を拝命、鄧奉、秦豊、延岑と戦い功を挙げる。
匈奴が攻めてくると南行唐に駐屯して防いだ。

祭遵(弟孫)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
94 89 85 84 93 明鏡 S S A A B C ? 33
【サイジュン(テイソン)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第九位。穎川穎陽の人。
劉秀に容姿態度を気に入られて配下となり、河北平定では軍監として厳正に違法を取り締まる。
征虜将軍を拝命からは軍紀厳粛な部隊を率いて、鄧奉、彭寵、張遵、延岑と戦い破った。
隴西の隗囂と蜀の公孫述を防ぐ中、重病に罹り陣没した。
寡兵で敵を前に将軍が死亡したにも関わらず、士気高く敵を寄せ付けず棺で凱旋した。
光武帝は「祭征虜ほど国を思う臣下はいなかった」と度々嘆息したという。

景丹(孫卿)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
95 97 75 64 84 騎神 S A S S C C ? 26
【ケイタン(ソンキョウ)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第十位。
上谷郡の長史だったが、太守である耿況の命で耿弇・寇恂と共に劉秀に帰順。
精強な烏桓突騎を率いて王郎軍を討ち、河北平定に活躍する。
劉秀からの軍事の信頼度は高く、皇帝即位後、驃騎大将軍に任ぜられる。
櫟陽侯に封ぜられ五校を河南で討つが、翌年病死した。
大司馬の呉漢と並称される実力者。

蓋延(巨卿)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
87 95 65 56 82 弓神 A A S S B C ? 39
【コウエン(キョケイ)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第十一位。
漁陽の護軍都尉。身長八尺の巨漢で三百斤の強弓を引く豪傑。
呉漢と共に謀って劉秀に帰順、河北の平定に貢献した。
劉秀が皇帝に即位すると虎牙将軍に任ぜられ、劉永・董憲を破り、
隗囂の病死後、西方の諸勢力を討ち平らげる。

銚期(次況)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
86 94 76 65 84 戟将 A S A S C B ? 34
【チョウキ(ジキョウ)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第十二位。
身の丈八尺二寸、容貌魁偉だが慎み深く威厳を備えていた。
馮異が穎川で降った際、節義ある者として推挙される。
鄧禹の属官として兵二千を授けられて、撤退戦や河北平定戦で活躍。
信義を重んじ、決して降城を略奪することがなかった。
太中大夫、衛尉を歴任、洛陽の治安を守るが、建武十年に病死。
光武帝は自ら銚期の遺体に服を着せ納棺したという。

耿純(伯山)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
92 89 92 94 94 鬼謀 A A S S A B ? 37
【コウジュン(ハクザン)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第十三位。
定陶郡太守、耿艾の嫡子。
河北に渡った劉秀と面会し、整然たる兵の規律を見て帰順を決意。
信都で孤立する劉秀の下に従兄弟の耿訢、耿宿、耿植ら一族郎党を率い馳せ参じた。
河北平定戦や東郡、泰山平定戦などで大功ある知略優れた将軍であったが、
天下がほぼ定まると、いち早く文官へ転身し東郡太守として民衆に慕われる。

臧宮(君翁)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
88 92 78 60 75 連戦 A A A B B C ? 58
【ゾウキュウ(クンオウ)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第十四位。
若くして亭長であったが、食客を率いて緑林軍に入り挙兵する。
緑林が南陽劉氏と連合すると、劉秀と共にし昆陽の戦いでも奮戦し、
河北平定戦・河内侵攻戦で活躍した。
のち、蜀の公孫述と戦い荊門を突破、沈水にて延岑と戦い大破し、
呉漢と共に公孫述を打倒し成都を平定。
寡黙にして勤勉で、胆力のある勇将で生涯を将軍として生きた。

馬武(子張)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
81 96 17 4 62 猛者or金剛 S S C S C C ? 61
【バブ(シチョウ)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第十五位。
元は盗賊集団である緑林軍の武将。
人並外れた武勇を持つが、酒好きで度々事件を起こした。
更始帝派の謝躬の下にいたが、劉秀が謝躬を誅すと帰順したため、
劉秀はこれを喜び左右に置いた。
攻める時は軍峰となり遮る者無く、破れた時は殿となり却って敵陣を陥れたという猛将。
明帝の時代にも、捕虜将軍となり、西羌を撃ち破る功を為した。

劉隆(元伯)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
70 73 75 47 58 A B A B B B ? 57
【リュウリュウ(ゲンハク)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第十六位。
南陽の安衆侯・劉崇の宗室という名門出身。
更始帝の騎都尉であったが、河内で劉秀に帰参。
天下統一に功があったが、不実申告の罪に坐して庶人とされる。
南越征伐では馬援の副将として罪を赦されて復職し、徴弐を捕らえて斬った。
大司馬・呉漢が逝去すると驃騎将軍として大司馬を代行し、
法に則って務めること八年、将軍の印綬を返上し、列侯として朝請を奉じた。

馬成(君遷)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
85 62 78 75 62 築城 A A B A A C ? 56
【バセイ(クンセン)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第十七位。
南陽棘陽の県吏。劉秀が更始帝に命じられて河北の調略に及ぶと、
官を棄て荷を背負い徒歩にて合流し、警備兵として従軍した。
統率力優れた将軍であり、淮南の李憲を平定する。
劉秀の親征に従い、群雄の一人である天水の隗囂も破っている。
以降は北辺の守備に従事。辺境の防塞設備を構築するなど働き続けた。

王梁(君厳)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
74 78 57 45 66 精妙 A B A A B B ? 38
【オウリョウ(クンゲン)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第十八位。
漁陽郡の属吏で、更始帝によって彭寵が太守に任ぜられると、
同僚の蓋延・呉漢とともに合流して偏将軍を拝命した。
武勇優れた将軍として各地を転戦して活躍する。
予言書の影響で大司空に抜擢されるが、洛陽の運河増設工事を指揮に失敗し、
辞職を願い出て済南太守となった。

陳俊(子昭)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
72 74 70 90 86 仁政 S B A B B C ? 47
【チンシュン(シショウ)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第十九位。
南陽の郡吏。劉秀が河北を攻略するに及び、
劉嘉の推薦によって、曲陽の県令を辞し劉秀の下に参じた。
劉秀に従って流軍の銅馬・五校の糧食を絶って滅ぼし、彊弩将軍を拝命する。
後に東方の重鎮として全権を委任され民政ぶりが民衆に歌い慕われた。

杜茂(諸公)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
76 84 52 68 46 屯田 B A A B C C ? 43
【トモ(ショコウ)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第二十位。
劉秀の河北攻略に合流し、中堅将軍として活躍。
冀州では中郎将・王梁とともに五校を討ち、大将三十数人を投降させた。
河南に転戦し、後に晋陽・広武に屯田して匈奴への防備に当たった。

傅俊(子衛)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
70 69 64 60 63 規律 B A A B B C ? 31
【フシュン(シエイ)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第二十一位。
昆陽の戦いを共にした古参の将。
劉秀が河北攻略を始めると傅俊は賓客十数人とともに邯鄲で合流、
潁川の兵士を率いて活躍した。
光武帝の信頼厚く、陰麗華を貴人として迎え入れる使者として立てられる。
のち、岑彭とともに、揚州攻略に当たって秦豊を破り平定した。

堅鐔(子伋)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
85 83 78 40 78 不屈 B S A B A C ? 50
【ケンタン(シキュウ)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第二十二位。
穎川の郡吏。劉秀が河北攻略を始めると堅鐔を推挙する者があり、
河北で偏将軍となり、武勇の将として流軍の掃討・攻囲で活躍。
鄧奉が反旗を翻した際、城で孤立するが、光武帝の親征まで一年に亘り堅守した。
戦いでは敵襲に対し常に先陣を務め、兵の犠牲を最小限に抑えたという。
その後、左曹に任ぜられ、常に光武帝に従った。

王覇(元伯)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
84 71 75 78 82 心攻or強運 S B A B B B ? 59
【オウハ(ゲンハク)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第二十三位。
穎陽の獄吏の出身。漢の復興を掲げ劉秀軍が穎陽に至ると、
賓客を率い昆陽の戦いに参じた古参の将。
からの撤退戦では渡河不能との斥候の報告に対し、
属官らの恐怖心を除くため自ら河を偵察し、凍結していると偽って報告。
果たして劉秀の軍勢が河に至ると凍結しており渡河出来た。
光武帝の即位後は将軍として、兵の心を知り統率力優れた名将として劉永の残党を討ち、
北辺の事情に精通して匈奴から国土を防衛し、南匈奴・烏桓を帰順させた。

任光(伯卿)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
83 76 81 73 86 明鏡 B A S B A C ? 26
【ニンコウ(ハクケイ)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第二十四位。
もとの郡県吏。劉賜(劉秀の族兄)に付いて、昆陽の戦いを共にした古参の臣。
更始帝が帝位に就くと信都郡太守となる。
王郎が挙兵すると郡国の殆どは降伏したが、一人敵対して精鋭二千の兵で城を守り、
から逃れてきた劉秀を迎え入れる。
これにより劉秀は信都郡を拠点として周囲の城邑を落とし王郎の本拠・邯鄲攻略の足掛りとした。
劉秀が即位後は阿陵侯となり食邑一万戸となるが、その年の冬に没した。

李忠(仲都)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
77 75 81 92 80 米道 B B A A C C ? 43
【リチュウ(チュウト)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第二十五位。
信都郡の尉で、更始帝が帝位に就くと信都郡の都尉に任命された。
河北にて任光と共に劉秀を迎え入れ、鉅鹿の王郎軍に対する包囲戦で活躍。
光武帝の即位後に五官中郎将に任命され山東平定戦で龐萌や董憲らを平定。
丹陽太守、次いで予章太守として盗賊を討ち墾田拡大に務め住民を教化した。
「治績は天下第一である」と三公に上奏されたという。

萬脩(君游)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
73 62 56 42 57 B A A B C C ? 26
【バンシュウ(クンユウ)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第二十六位。
更始帝が王莽を降した頃、信都郡の令となった。
河北にて任光と共に劉秀を迎え入れて、偏将軍を拝命し河北平定に活躍した。
光武帝の即位後、槐里侯に封ぜられて堅鐔と共に南陽平定に参加するが、
宛にて周囲から孤絶し、病んで陣没した。

邳彤(偉君)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
74 72 82 70 76 論客 B A A B B C ? 30
【ヒトウ(イクン)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の第二十七位。
王莽・更始帝の時代の和正太守。
信都と共に王郎に従わず、精兵二千を護衛に劉秀を迎え入れる。
河北で孤立する劉秀が長安への帰還を考えた際は、その意見を批判し、
劉秀に河北平定を決意させた。
王郎滅亡後は武義侯に封じられ、光武帝が洛陽に入ると太常となった。
また左曹侍中となり常に光武帝の遠征に従った。

劉植(伯先)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
68 65 78 82 66 秘計 C A B B C C ? 30
【リュウショク(ハクセン)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台二十八将」の末席。
鉅鹿の大豪族。数千の勢力と共にから逃れてきた劉秀を迎えて驍騎将軍となる。
劉秀と真定王・劉楊の仲を取り持ち、郭聖通との縁組を成立させて、
真定王の援助や河北の豪族への人心掌握を成功し、河北平定戦に役立った。
劉秀即位後、昌城侯に封ぜられるが流軍掃討戦で戦死し、軍は弟の劉喜が引き継いだ。

竇融(周公)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
85 65 82 89 88 名声 S A A S A C B.C.15 62
【トウユウ(シュウコウ)】
新末後漢初の政治家。司隷右扶風平陵県の人。光武帝の功臣団「雲台三十二将」の一人。
新の王匡に従い赤眉軍の討伐に従軍する等、新の武将として功を挙げるが、
新滅亡後は漢の趙萌に投降し、そこでも頭角を現す。
更始帝の死後は群雄として自立し、河西に割拠し善政を布いたが、
後に従属先の隗囂とは訣別し光武帝への帰属を選び、涼州牧に任ぜられた。
この後は光武帝の隗囂親征に従い、多くの城を投降させている。
光武帝の信頼は絶大だったが、それ故の不安で度々辞意を表した。
後に大司空に上り、他の功臣を遥かに凌ぐ待遇を得た。

李通(次元)

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83 78 82 89 86 富豪 S B A C B C ? 42
【リツウ(ジゲン)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台三十二将」の一人。光武帝の義弟。
南陽の豪商の出身だが、王莽の統治を嫌悪し、棄官して南陽の劉氏を支援し反新活動に従事。
だが、での挙兵計画が露見してしまい、辛うじて脱出したが、一族は悉く処刑されてしまう。
更始帝の即位後は大将軍として荊州を鎮撫し、後、光武帝に招聘され皇宮衛尉となる。
出征時は首都の留守を担当し民心慰撫と首都再建に尽力し、
前将軍として延岑や蜀の公孫述をも撃破した。
光武帝の縁者で在りながら、謙虚で慎み深く、政軍両面で信頼された。

王常(顔卿)

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90 85 74 83 62 連戦 S S B B B B ? 36
【オウジョウ(ガンケイ)】
新末後漢初の将。光武帝の功臣団「雲台三十二将」の一人。
弟の復仇の罪で逃亡中に緑林軍に参加し、分派の「下江軍」の頭領になるが、
新軍に大敗し、断金の交わりの劉縯と連合した。
昆陽の戦いでは劉秀と協力し新の主力を殲滅し、更始帝に劉姓を賜り帰順するが、
長安の更始帝が赤眉に敗死すると、洛陽の光武帝に降伏。
光武帝から山桑侯・漢忠将軍に任命され、荊州・華北を転戦。
更には光武帝の親征に従って蘇茂・龐萌を討伐し力戦奮闘した。
後、横野大将軍に任命され、長安で隗囂に備え、高峻を安定で破り羌軍を平定した。

卓茂(子康)

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22 15 83 89 87 風水 C C B C B C ? 28
【タクモ(シコウ)】
前漢末から後漢初の政治家。南陽郡県の人。光武帝の功臣団「雲台三十二将」の一人。
元帝の代に長安に遊学し、学識では『詩経』、『礼経』、算法、暦象を学び通儒と評され、
寛仁・恭愛な人柄で、郷里の旧友から敬愛された。
密県の令として民心の教化と勤務に精励し、平帝の代の蝗害も、密県は免れた。
後、王莽の命で農業・養蚕業に従事すると、人民から泣いて見送られ、任地に赴く。
更始帝の即位後に長安に入城したが、老年のため帰郷。
光武帝からも謁見を賜ったが、既に七十余歳だったという。

來歙(君叔)

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88 85 88 87 76 機略 S A S A A C ? 35
【ライキュウ(クンシュク)】
新末後漢初の将。来褒の父。来稜の祖父。光武帝の従兄弟。
最初更始帝に仕えるが、重用されず辞去し、義弟の漢中王・劉嘉の陣営に移る。
劉嘉が進退窮まると光武帝への臣従を進言し、君臣共に光武帝に拝謁し歓迎された。
西涼の豪族の隗囂を説得する使者の任務を務め、子の隗恂を人質として光武帝の下に送らせた。
隗囂の造反後は側近の王遵を引き抜き弱体化させて隗囂の遺児・隗純を滅ぼし、
襲来した北方民族をも撃退。
戦後、戦災に苦しむ隴右の民に公庫を開き救済に努めたが、蜀攻略中に環安の刺客に暗殺された。

陰識(次伯)

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46 32 74 80 78 沈着 B C B C B C ? 59
【インシキ(ジハク)】
新末後漢初の将。陰麗華の異母兄で光武帝の義兄。
更始帝の下で行大将軍事となるが、赤眉軍の侵攻に際して南陽の鄧奉に保護を求め客将となった。
後、陰麗華が洛陽に迎え入れられると、共に招聘され劉秀に仕えた。
天下平定後、論功行賞を親族であることを理由に辞退し賞賛され、
朝廷では言葉を尽くし正論を唱えるが、朝廷から離れて賓客と話すときは国事を一切話題にしなかった。
光武帝から敬重され、他の皇族・親族に手本とするよう諭した。
任用した吏員は人物揃いで、多くが公卿や校尉になったという。

鄧晨(偉卿)

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74 46 76 88 82 運搬 B B A C B C ? 49
【トウシン(イキョウ)】
新末後漢初の将。光武帝の義兄。鄧奉の叔父。
劉縯らの挙兵後、食客たちを率いて合流したが、同年末の小長安聚の戦いで漢軍は敗北、
妻の劉元と三人の娘を失う。
更始帝が即位すると、劉秀と共に頴川を攻略し常山太守に任命された。
河北で王郎が挙兵すると、劉秀に単身で鉅鹿に合流し王郎と戦うことを願い出るが、
常山を拠点に支援を命じられ後方で支援活動に従事し、
銅馬征伐では、精鋭の弓兵一千を派遣し補給路を確保した。
後、中山・汝南太守を歴任し、優れた治績を残した。

耿況(侠遊)

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83 80 66 64 57 繁殖 B B A A B C ? 36
【コウキョウ(キョウユウ)】
新末後漢初の上谷太守。耿弇、耿舒、耿国、耿広、耿挙、耿覇の父。
河北に劉秀が来た際、王郎が割拠すると寇恂らの進言を容れて新から劉秀に帰順、
呉漢らが率いる漁陽の突騎兵と共に劉秀の援軍に向かわせた。
この来援を契機に、劉秀は王郎を滅亡させることに成功する。
流軍の五校が二十万の大軍で上谷に来寇すると、子の耿舒と協力し撃退した。
漁陽太守の彭寵が反旗を翻すと誘いの使者を斬って断り、上谷を守った。
六人の息子は皆、青紫の綬を授かる要職に就くという栄誉を得た。

耿舒

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90 84 92 42 64 槍将 S A A S B B ? ?
【コウジョ】
新末後漢初の将。後漢草創期の功臣の一人。上谷太守・耿況の子、耿弇の弟。
流軍の五校が上谷郡を攻撃してくると、耿舒は父の耿況と協力して撃破し、
叛逆した彭寵が匈奴の軍と来寇すると、これを撃退して匈奴の二王を斬り敗走させた。
さらに父と共に軍都に逃げ込んだ彭寵軍を破り軍都を奪還し、この功により牟平侯に封じられた。
後、馬援の指揮下で武陵五渓蛮の討伐に参加し、
馬援の失策と病没により苦戦を強いられるが乱を平定した。
常勝将軍の兄に劣らぬ知略を持った名将であった。

馬援(文淵)

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93 90 92 75 90 威風 A S A S A A B.C.14 49
【バエン(ブンエン)】
後漢の将。茂陵の人。戦国趙の馬服君(趙奢)の裔という。
北地で牧馬・私兵を擁して王莽に登用されたが、後に隴西の隗囂に属し、光武帝への帰属を勧めた。
隗囂はまもなく公孫述に通じて造反すると、光武帝に従い羌・隗囂平定に貢献した。
交趾の徴姉妹が太守の横暴に抵抗して挙兵すると伏波将軍に任ぜられ、二年で鎮圧して新息侯とされた。
以後も匈奴・烏桓撃退に転戦したが、武陵五渓蛮の討伐の際に陣没。
寵臣梁松の讒言で失脚するが、冤罪は晴れて名誉は回復した。
娘は後に明帝の皇后になり、賢明さを称えられた。

徴側

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88 72 81 58 90 鬼門 A B S B A S ? 43
【チュンチャック】
後漢の反乱指導者。徴弐の姉。ハノイ郊外の富豪の出。
当時、ヴェトナム北部は交趾と呼ばれ漢の圧政の元に支配されていた。
交趾太守に夫を処刑された徴側は妹の徴弐と共に挙兵し、
漢の支配下にあった65もの城を落とし王と称した。
この乱に対し漢の光武帝は馬援を伏波将軍に任じ、討伐のため大軍を派遣した。
反抗も空しく徴姉妹の軍は壊滅し、姉妹は捕らえられ処刑されたとも自殺したとも言われる。
徴姉妹はこの後ヴェトナムの英雄として語り継がれ、彼女らを祭る廟も多く造られた。

徴弐

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
81 88 77 50 88 藤甲 B A S B A S ? 43
【チュンニ】
後漢の反乱指導者。徴側の妹。ハノイ郊外の富豪の出。
当時、ヴェトナム北部は交趾と呼ばれ漢の圧政の元に支配されていた。
交趾太守に義理の兄を処刑された徴弐は姉の徴側と共に挙兵し、
漢の支配下にあった65もの城を落とし王と称した。
この乱に対し漢の光武帝は馬援を伏波将軍に任じ、討伐のため大軍を派遣した。
反抗も空しく徴姉妹の軍は壊滅し、姉妹は捕らえられ処刑されたとも自殺したとも言われる。
徴姉妹はこの後ヴェトナムの英雄として語り継がれ、彼女らを祭る廟も多く造られた。

陰麗華

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58 22 84 90 98 明鏡or内助 C C C C C C 5 64
【インレイカ】
光武帝の皇后。彼と同郷人で、南陽の豪族陰氏の出。
容姿端麗な佳人として近所でも評判であり、また幼少より聡明であった。
劉秀も若き日から彼女に懸想しており、若き日の彼は、
「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」と公言していたという。
劉秀に嫁いで後、二代皇帝になる劉荘(明帝)を産み、
質素倹約に努め、同時に自分の一族が国の政治に関与しないよう図るなど夫を大いに助けた。
このため、明帝の馬皇后と並び、賢后として称えられた。
後漢の初代皇帝劉秀、二代皇帝劉荘の時代は史上最も栄えた時代の一つである。

伏湛(恵公)

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46 44 92 86 85 指導 C C C C C C 37
【フクタン(ケイコウ)】
前漢末、後漢初の政治家、学者。
名儒学者だった父の学問を受け継ぎ、数百人に教授する。
前漢、新に仕え、更始帝が立つと平原太守となる。
門下督が起兵を唆すと即座に斬り、民を心服させた。
光武帝が即位すると招聘され、旧制度の制定を担当した。
大司徒の鄧禹に宰相の才能と評され、鄧禹出征中の留守を預かり、
鄧禹が赤眉軍に敗れ辞任すると後任の大司徒となる。
光武帝の漁陽親征を諌め、礼楽の政化を唱えて郷飲酒礼を施行した。
張歩親征の留守を預かるが、高廟での蒸祭で起きた論争を報告しなかったため罷免された。

侯霸(君房)

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55 44 90 98 93 仁政 B C B C C C 37
【コウハ(クンボウ)】
前漢末、後漢初の政治家。
九江太守の房元に師事し、「穀梁春秋」を修める。
新代に隨県宰となって賊を討伐し、執法刺奸となると憚ることなく糾弾を行う。
淮平大尹となって善政を敷き、王莽死後も淮平の安定を保つ。
更始帝に招聘されるも民が使者に懇願したため、璽書を渡さずに還った。
光武帝に招聘され、尚書令となり数少ない旧制に精通した人物として、
旧制の中から善政で有益な法律を上奏し、施行させた。
伏湛の後任の大司徒となり、明察守正の態度で国家を支えた。
侯霸が没すると、劉秀は深く痛惜して自ら葬儀に参列した。

馮勤(偉伯)

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52 37 78 93 84 能吏 B C C C B C 56
【フウキン(イハク)】
後漢初の政治家。
魏郡太守銚期の功曹となり、光武帝に銚期が従軍している際に政事を委ねられた。
忠義心を銚期に認められ、光武帝に推挙される。
最初は重用されなかったが、郎中・給事尚書となると兵糧の調達に精勤し、
光武帝から「良吏なり!」と称賛された。
諸侯の封地を任されると、その公正さから諸侯から不服が出なかった。
尚書僕射、尚書令、大司農、司徒(大司徒から改称)を歴任した。
三公が罪により辞職・解任される事例が多かったが、
恭順して忠義を尽くし、職務を全うして称賛され、在官のまま没した。

趙憙(伯陽)

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74 64 82 85 71 規律 A C A B C B 前4 80
【チョウキ(ハクヨウ)】
更始政権、後漢の武将、政治家。
更始帝に抵抗していた舞陰の李氏の投降を受け入れるため派遣される。
さらに穎川を得て帰還し、更始帝より「名家の馬」と称賛される。
劉秀の麾下として昆陽の戦いで軍功を上げる。
更始帝が赤眉軍に敗れると武関に逃げ、丹水で皇族を助け帰郷させた。
光武帝の下で未定の地域へ派遣され、簡陽の城門を開き、平林の賊を平定した。
懐県や平原では、義行を奉じて奸悪を誅する治績を上げる。
南匈奴が降ると、幽・并州の領域を定めた。
封禅の挙行を上奏し、光武帝や明帝の葬儀を取り仕切り、章帝の代に没した。

祭肜(次孫)

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88 94 87 92 94 弓神 A B S A C C ? 73
【サイユウ(ジソン)】
後漢初期の将。祭遵の従弟。
三百斤の強弓を扱う膂力があり、容貌雄偉な外見に質厚重毅な為人だった。
鮮卑が侵略した時には自ら敵陣を陥落させ、三千余の首級と数千頭の馬を獲得した。
さらに外交戦略で鮮卑を帰属させて匈奴を討たせ、匈奴の弱体化に成功する。
烏桓が上谷を侵犯した際にも鮮卑に討たせて鎮圧した。
恩信ある異民族統治は声望が高く、高句麗、濊、貊、倭なども朝貢に訪れている。
明帝の代に北匈奴の征伐に赴くが、南匈奴の左賢王に欺かれて会敵できず、
軍法に従って怯懦を理由に獄に下され、羞恥心から吐血死した。

竇固(孟孫)

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90 85 76 80 84 長駆 A A B S B C 88
【トウコ(モウソン)】
後漢の武将。竇融の甥。光武帝の娘を娶る。
中郎将・騎都尉に任じられるが、従兄の竇穆の罪に連座し十年謹慎する。
明帝が北匈奴討伐を企図すると軍に復帰。
酒泉から出撃して天山山脈まで遠征し、北匈奴の呼延王を撃ち破る。
巴里坤湖まで追撃した後に哈密(クムル)に駐屯し、班超を西域諸国に派遣して後漢に帰属させた。
玉門から再遠征を行った際には白山を破り、車師を降し、数年間西域に留まって慰撫を行った。
章帝の代には大鴻臚、光禄勲、衛尉を歴任した。
高位に就いて富を得るが、謙虚に慎ましく暮らし、人々に施しを行っていた。

班超(仲升)

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95 87 88 80 90 親羌 A A A S S C 32 102
【ハンチョウ(チュウショウ)】
後漢の将・外交官。班固の弟、班昭の兄、班彪の子。
弁舌・文章に優れたが、竇固の匈奴遠征に従軍し、西域招撫を担う。
鄯善以下、匈奴の圧迫に苦戦しつつも南路諸国を帰服させ、
勅命に背いても西域経略を続け、疏勒・亀茲などの離叛諸国を征服した。
この時の「虎穴に入らずんば虎児を得ず」の格言で名高い。
後、西域都護として亀茲に都護府を置き西域五十余国を統轄し、
副使の甘英を大秦国に派遣し、クシャン朝の遠征軍を撃退するなど大功を挙げ、定遠侯となる。
帰国後、洛陽で病没したが、彼の死後西域経営は衰退した。

鄧綏

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50 7 84 86 74 祈願 C C C C C C 81 121
【トウスイ】
和帝の皇后。鄧禹の孫。
六歳で史書を読み、十二歳で詩経や論語に通じていた。
母から女工を習うよう戒められたため、昼は婦人の業を修め、夜に経典を諳んじた。
後宮に入ると、常に陰皇后を立てて謙虚に仕え、陰皇后が廃されると皇后に立てられる。
和帝が崩御すると、殤帝・安帝のもとで皇太后として摂政となる。
天災や夷狄の侵犯等が続く中、不眠で政務に携わって民を災害から救い、豊穣で平安な状態に還した。
治世は善政だったが、女性として政治基盤を固めるために外戚と宦官を重用しており、
後の権力争いの火種も生じている。

虞詡(升卿)

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88 78 90 70 82 妙計 A A S S B C
【グク(ショウケイ)】
後漢の武将。
羌族に敗れた鄧騭の涼州放棄を諌める。
鄧騭に恨まれ賊が蜂起していた朝歌に赴任させられるが、
賊を誘き出し伏兵を用いて鎮圧し、「神明」と賞賛された。
武都に赴任する際には、陣の竈を増やしながら増援が来ているように見せかけ、
羌軍の動きを牽制して入城した。
赤亭が攻囲されると、まずは弱弓で応戦し、油断したところで強弩を斉射し羌軍を撃ち破る。
さらに羌軍を河の浅瀬に誘い込み、伏兵をもって撃破し反乱を平定した。
その後は、宦官の専横に逆らい九度の譴責と三度の刑罰を受けるが、宦官に対して不屈を貫いた。

蔡倫(敬仲)

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6 4 88 81 43 発明 C C C C C C 50? 121?
【サイリン(ケイチュウ)】
後漢の宦官。桂陽の人。
明帝の時代に宦官として登用されたが、経緯は不詳。
和帝の時代には中常侍にまで登り詰め、誠実な人柄や学問や工作を好み、
また潔癖な品行が評価され、尚方令となる。
蔡倫は樹皮・麻屑・破れた魚網などの材料で実用に耐える紙を製造し、献上した。
この蔡倫が発明した紙は「蔡侯紙」という尊称で呼ばれ、高く評価された。
和帝の没後、安帝を擁立した鄧太后ら一族の粛清に巻き込まれ、
かつての讒言の責任を取り毒を飲んで自害した。

張衡(平子)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
8 34 88 78 78 発明 C C C C C C 78 139
【チョウコウ(ヘイシ)】
後漢の政治家。
文学者、詩人、発明家、数学者、天文学者、地理学者と多才を発揮した。
洛陽長安で学び、故郷の南陽郡の主簿となる。
その後京官郎中となり、暦法を扱う太史令に任じられ、尚書にまで昇った。
しかし、宦官が政治を動かすようになったため、これに反抗して退官した。
文学者としては「二京賦」「帰田」「思玄」等を著す。
暦算の研究では「霊憲」「算罔論」を著した。
また、水力で動く渾天儀を製作し、地動儀(地震計)も発明した。
さらに円周率、月の直径、一年の長さなどを求め、後代に多大な足跡を残している。







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