隋~唐




楊広

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79 67 90 70 68 徴税 A A A A A A 569 618
【ヨウコウ】
隋の第2代皇帝。明帝。文帝楊堅の次子。
煬帝とは唐による追謚であり、歴史的暴君とされる。
晋王時代は北方の守りに就き、陳討伐の際には、討伐軍の総帥として活躍。
文帝の崩御後に即位したが(文帝を弑逆した俗説もある)豹変し、奢侈・酷刑を好むようになる。
洛陽を東都に定めた他、国都大興城(長安)や大運河の建設を推進。
更には国外遠征を積極的に行ったが、三度の高句麗遠征は失敗。民心は疲弊し、各地で反乱が続発。
江南への逃亡後も酒色に耽ったため、宇文化及兄弟らによって皇子と共に殺害された。

楊素(処道)

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86 85 73 76 37 造船 A S A C B S ? 606
【ヨウソ(ショドウ)】
隋の上柱国。司徒。楚景武公。楊玄感の父。
はじめ北周に仕えて車騎大将軍・儀同三司に任ぜられ、反乱鎮圧などに大功を上げた。
楊堅が北周の丞相に上ると親交を結び禅譲を受けて隋が建国されると、上柱国・御史大夫となった。
楊堅が江南を奪う計画を考えはじめると、楊素は数度にわたって南朝陳を平定する策を進言、
信州総管に任ぜられ、「五牙」「黄龍」と称する大艦を次々と建造し、
楊堅の次男である晋王の楊広を補佐して、水軍で長江を下って一挙に陳を滅ぼした。
さらに江南で頻発した隋に対する反抗を次々と撃破している。
太子楊勇と晋王楊広の後継者争いでは、楊広の立太子に協力するが、
後に帝位についた楊広の猜疑を受け、失意のうちに逝去した。

楊玄感

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76 78 27 30 64 C B B B B C ? 613
【ヨウゲンカン】
隋の将軍。楊素の子。
名族の出身で体格雄偉で、美しい髭の持ち主であり、読書を好み、騎射も巧みであった。
父の軍功により柱国の位を賜るが、父が煬帝に疑われると、職を去った。
父の死後復職するが、楊広に疑われたため、第二次高句麗遠征のとき、
背いて挙兵した。そのため煬帝の第二次高句麗遠征は頓挫することになる。
謀士である李密の意見を聞かず、洛陽攻略の方針を選択したが落とすことができず、
衛玄・陳稜・屈突通・宇文述・来護児らの隋軍に包囲され関中方面に転進するが、
追撃を受けて董杜原の戦いで大敗、弟の楊積善と刺し違えて死んだ。
楊玄感の反乱そのものは三ヶ月あまりで鎮圧されたが、これを契機に民衆反乱が続発し、
隋王朝の屋台骨を揺るがしていくこととなる。

史万歳

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87 96 36 18 42 騎将 S A B S C C 549 600
【シバンザイ】
北周・隋の将軍。柱国。
英邁で武に優れて騎射が得意であった。また好んで兵書を読み占術に精通もしていた。
はじめ北周に仕えて反乱討伐に功があったが、隋の初年に爾朱勣の謀反に連座して
除名されたうえ敦煌に戌卒として配された。突厥の地数百里にまで深入りして、
史万歳の名は北狄に轟く。竇榮定が突厥を攻め北に追いやると功により車騎将軍となった。
高智慧らか江南で乱を起こすと楊素に従って、兵士二千を率いて百日余で転戦千里以上、
七百余戦に勝利して帰還した。南寧夷が反乱するとこれを討ち、さらに突厥を破るが、
楊素に讒言されて功を奪われて不仲となる。さらに讒言されて楊堅の怒りを買い誅殺された。
規律は緩く放任していたが命令は素早く行き届き、戦場では勇猛な軍となった。
陣に臨んで敵に対すと無窮に変化する陣立てを見せ、当世の良将と讃えられた。

宇文述

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73 82 58 45 42 掃討 B A B C B B ? 616
【ウブンジュツ】
北周・隋の将軍。化及・智及・士及の父。
北周の上柱国・宇文盛の子。楊堅が丞相となり尉遅が反乱を起こすと
兵三千を率い韋孝寛の下で尉遅迥を攻撃、先鋒に立って敵陣を陥落させ撃破した。
隋が建国されると、右衛大将軍に任じられた。
晋王楊広に接近して子の宇文士及が南陽公主を妻に迎える。楊広が皇太子となると、
太子補佐となり、楊広が即位すると許国公に改封されて朝廷で勢威をふるう。
第一次高句麗遠征で大敗を喫するが、楊玄感が乱を起こすと討伐に活躍し復帰した。
江都への行幸を勧め、まもなく江都で病没した。

来護児(崇善)

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92 88 61 36 80 連戦 A S B S B S ? 618
【ライゴジ(スウゼン)】
隋の将軍。後漢光武帝の配下であった中郎将・来歙の十八世の孫とされる。
陳に対する征戦で功績を挙げ、高智慧が乱を起こすと、楊素に従って浙江で
高智慧を撃破した。李寛に従って汪文進を破り、柱国・黄県公の爵位を賜った。
楊広が即位すると、右驍衛大将軍に任ぜられ帝に親任された。
三次に渡る高句麗遠征で度々高句麗軍を撃破して恐れられた。
江都で宇文化及らに楊広とともに殺害された。

賀若弼(輔伯)

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91 83 48 20 44 規律 B A A A A A 544 607
【ガジャクヒツ(ホハク)】
隋の将軍。上柱国。宋国公。
意気盛んで大志を抱き弓馬に優れた上、書を読み文章に巧みで、
当時の人々の間で評判であった。斉王宇文憲の仕えて寿州刺史となる。
楊堅が丞相となり北周の実権を握ると、尉遅迥が反乱を起こしたが、
賀若弼も背くと危惧されて交替させようとするが、これを承知せず捕らえられた。
楊堅が即位して隋を建国すると推薦を受けて、陳攻略の任務を委任された。
軍を率いて長江を渡り、陳の南徐州を攻略して陳の主力と戦い大勝した。
軍紀は厳粛でわずかの略奪も許さず、民間人から酒を買ったものがあれば、
すぐ斬刑に処したという。自らの功名の右に出るものはいないと誇って
傲慢な態度が多く、北方に巡行した際に政治を批判したために誅殺された。

宇文化及

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46 71 51 37 53 強奪 B A A B B C ? 619
隋の将軍。宇文述の子。智及・士及の兄。許朝を創建し皇帝を称した。
幼少より楊広の寵愛を受け、父が死去すると右屯衛将軍に任命された。
叛乱を避け江南の江都に逃れたまま大興城へ帰還しようとしない楊広に対し、
反乱の指導者に推戴された。弟の宇文智及とともに禁軍を伴って宮中の楊広を弑殺し、
楊広の弟である蜀王秀の子、秦王浩を擁立し自ら大丞相となり北上したが、
王世充、李淵、李密らの勢力に阻まれ、長安に入ることはできなかった。
そのため秦王浩を毒殺し魏県を根拠地として自ら帝に即位した。
竇建徳に聊城で敗れると弟の宇文智及らとともに処刑され、斬首された。

宇文智及

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73 75 35 24 22 補佐 A A B B B C ? 619
隋の将軍。宇文述の子。化及の弟、士及の兄。
宇文述の遺言で兄の化及が右屯衛将軍を務めた際、将作少監となった。
兄の化及を首謀者に推して武賁郎将の司馬徳戡、武勇郎将の趙行枢、
直長の薛世良、勛士の楊士覧らと謀って煬帝を弑殺した。煬帝の弟蜀王秀の子で、
智及と親交のあった秦王浩を擁立した兄から左僕射に任じられ北上したが、
王世充、李淵、李密らの勢力に阻まれた。化及が秦王浩を毒殺し、魏県を根拠地として
自ら許の帝を号して百官を任じる時もその列に加わり、斉王に任じられた。
宇文化及が竇建徳に聊城で敗れると一派と共に処刑され、軍門の外に梟首された。

宇文士及

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65 68 80 76 86 沈着 A B A C B B ? 642
隋・唐の将軍。宇文述の子。化及・智及の弟。
文帝楊堅に気に入られて、長女である南陽公主を妻とした。
兄の化及が煬帝を殺害すると、親交のあった李淵への帰順を兄に勧めるが
聞き入れられず、宇文化及は竇建徳に敗れた。済北の豪傑たちと謀って
竇建徳と対抗しようとしたが、形勢を見て取りやめ、唐に帰順した。
秦王李世民に従って宋金剛を討ち、王世充らに対する征戦に従軍し、
李世民が即位すると、中書令に任じられ涼州都督となった。
殿中監・蒲州刺史・右衛大将軍などを歴任し、軍事は厳しく政治は寛容で簡素を旨とした。
李世民と語り合ったことは固く秘密にして、その妻に問われても答えず深く信任された。

隋末唐初の群雄・将士


単雄信

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84 96 52 16 73 飛将 S A B S C C 581 621
【ゼンユウシン】
隋末から唐初にかけての武将。翟讓、李密、王世充に仕えた。
馬上で槍を用いるのを得意として「飛将」と号された。
翟讓が隋に反抗して叛乱を起こすと、雄信は徐世勣とともに翟讓の軍に投じる。
翟讓が李密に斬られて李密が魏公となると、左武候大将軍に任ぜられ、四驃騎の一つを領して活躍。
李密が偃師で大敗すると、雄信は王世充に帰順して大将軍となった。
李世民が東都を攻撃すると、雄信はこれを迎撃して唐軍の李世民本陣に肉薄した。
勇戦したが唐軍に捕らえられ、洛水の渚の上で斬られた。
「隋唐演義」ではその最期を、義兄弟の程知節・徐世勣と涙の別れを演じている。


李建成

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83 75 84 81 90 掃討 A B A B C B 589 626
【リケンセイ】
唐の初代皇帝李淵の長子・皇太子。
李淵が太原で反隋の決起後、左領軍大都督に任じられ、左軍を統轄した。
その後は、父の命により各地の軍閥を掃討。
しかし、隋末唐初の戦乱で、弟の李世民の戦功と名声が高く、李建成は太子位を奪われることを恐れ、
王珪や魏徴らを任用して謀士とし、李世民を誣告した。
幾度か兵乱を起こし、李世民を除くことを考えるが、玄武門の変で逆に射殺された。
史書からも半ば抹殺され評価も低いが、簒奪を正当化するための曲筆も指摘されている。

李世民

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94 87 91 96 98 仁政 S A A S B B 599 649
【リセイミン】
唐朝の第ニ代皇帝。高宗・李淵の次男。
父の李淵が太原で起兵すると、長安に向けて進軍して平定。唐が建国されると秦王に封ぜられる。
武将として優れた才能を発揮し、割拠した群雄を平定するのに中心的役割を果たした。
建国の戦功に比してその地位が報われていないとして、父や兄と対立。
「玄武門の変」を起こし、兄の皇太子・李建成を殺害し、兄の同志であった弟を謀殺し、
父を上皇に祭り上げて幽閉した末に譲位させて即位した。
突厥を討伐し西域の高昌国を滅亡させ、「貞観の治」と称される善政を行い
府兵制、均田制、租庸調制、中央官制などの唐の諸制度の多くを完成させて唐の繁栄を築く。
中国史上最高の名君の一人と称えられる。

長孫無忌(輔機)

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61 24 82 78 76 名声 C C C C B C ? 659
【チョウソンムキ(ホキ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。趙国公。隋の右驍衛将軍、長孫晟の子。
唐の太宗の長孫皇后の兄であり、唐朝の外戚。学問を好み、文章や史書に通暁した。
唐の創始者・李淵が太原で起兵して長安を奪うと、謁見を受けて唐に仕える。
李世民の征戦に従軍して活躍。「玄武門の変」では、房玄齢・杜如晦らとともに襲撃の計画を定めた。
李世民が即位すると、功績第一として斉国公に進封された。唐の元勲・外戚として礼遇を受ける。
皇太子の李承乾が廃嫡されると、第九子の晋王李治を皇太子に推して後見となるが、
武氏立后に反対し、数度にわたって高宗(李治)に諫言したため、武氏が皇后として立つと、
宮廷で孤立。朋党事件の黒幕とでっちあげられて黔州に流されて首を吊り自殺した。
唐律疏義や隋書の編纂者としても知られている。

李孝恭

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83 82 86 63 85 精妙 A A A B B S 591 640
【リコウキョウ】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。河間元王。西平懐王李安の子。唐の高祖李淵の族甥。
李淵が長安を平定すると、左光禄大夫に任命され、間もなく山南道招尉大使となった。
金州から巴蜀に進出して三十余州を下して進撃、朱粲を破り降伏させる功を立てる。
江陵に拠る蕭銑を撃破して、輔公祏が江南で背くと大破した。この功で揚州大都督となる。
のち、邸に石頭城を築いたことで、謀反を誣告され召還されて詰問されるが、
謀反の実態がなかったため許され、涼州都督・晋州刺史を歴任した。
趣味は豪奢で、歌舞や美人を好んだが、人に対しては寛仁謙譲で、おごった様子を見せず、
李淵の跡を継いだ李世民にも重用された。

杜如晦(克明)

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23 17 94 83 75 鬼謀 C C C C C C 585 630
【トジョカイ(コクメイ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。莱国成公。
史書に親しみ、隋末には吏部に入ったが、間もなく官を辞し故郷へ戻った。
李淵が長安を占拠すると、李世民の参謀役であった房玄齢により見出され幕下に加わる。
「玄武門の変」の前、讒言により秦王府を追われたが、
太宗・李世民が即位をすると中央政界に復活し、
太子左庶子や兵部尚書という要職を歴任し、尚書右僕射まで上り詰める。
左僕射の房玄齢とともに「貞観の治」を現出させた。

魏徴(玄成)

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17 55 83 77 68 百出 C C C C C C 580 643
【ギチョウ(ゲンセイ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。鄭国文貞公。
幼少時貧困で、隋末に群雄の一人である李密のもとへ身を寄せ、敗戦して唐へ帰する。
竇建徳の捕虜となり、才能を見出される。建徳の兵が敗れ、唐へ帰り、
皇太子・李建成の側近となるが、玄武門の変で李建成が死ぬと、
李世民は率直さを評価して諫議大夫へ昇進させた、後に秘書監、侍中等の職を転任。
癇癪を起こした太宗を二百回余りも諌めることで有名となる。
死亡時、太宗は非常に哀しんで「人は銅を以て鏡と為し、衣冠を正すべし、
古きを以て鏡と為し、興替を見るべし、人の為す鏡を以て、得失を知るべし。
魏徴の沒、朕亡くせし一鏡矣。」と言ったという。

房喬(玄齢)

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7 3 92 91 76 眼力 C C C C C C 578 648
【ボウキョウ(ゲンレイ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。梁国公。
隋末の混乱時に唐に投じて、李世民の秦王府十八学士の筆頭とされた。
李淵が統一を果たして以後、優秀な人材の確保に努めて、杜如梅を見出し推挙。
建国間もない唐の王朝で皇太子・建成と世民の間で継承争いが起きると、
房玄齢と杜如晦はその謀略の才を建成側に恐れられ、讒言を受けて秦王府への立ち入りを禁じられた。
李建成に悟られないように策謀を進め、「玄武門の変」を成功させて李世民を即位させた。
「貞観の治」の立役者の一人で、正史の編纂を総監した。

高倹(士廉)

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82 78 86 85 84 沈着 B A B B C C 576 647
【コウケン(シレン)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。義興郡公。申国公。
北斉の清河王高岳の孫。高履行・高審行・高真行の父。
李淵が嶺南に遣使すると交趾太守の丘和とともに唐に降り、秦王李世民の下で治中となり重用された。
李世民が皇太子李建成と争うと、長孫無忌とともに李建成を討つ計画を定めた。
「玄武門の変」の当日は囚人を釈放して兜を着せ、芳林門に向かって李世民の援軍として戦った。
李世民が皇太子となると、義興郡公に任ぜられるが。王珪をかくまったために安州都督に左遷された。
蜀の地で学校を復興し、灌漑のための水道を広げ、現地の風俗を一変させた。
のちに、長安に召還されて許国公に進封。司空に進み特進・上柱国の位を得た。

李靖(薬師)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
97 72 96 70 86 深謀 S A A S B S 571 649
【リセイ(ヤクシ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。衛国公。
直属の上司の李淵が謀反を起こすと、隋王室に知らせに抜け出そうとするが露見し捕縛される。
すぐさま処刑しようとする李淵に対して「貴公は挙兵して天下のために暴虐を除いて民を安らげて、
大事を成し遂げようとしているが、なんのために私怨によって忠臣・義士を殺すのか」と問いかけた。
このとき傍らにいた李世民は、父に李靖の助命を嘆願して、以後配下に加える。
以後、強力な幕僚として付き従い、隋が崩壊した後の統一戦争において様々な献策を行った。
王世充との戦いで武功を挙げ、唐の中国統一における大きな障害であった江南の蕭銑との戦いでは
全権を任されて李世民の期待に応えた。続いて、突厥を破り、西部で背いた吐谷渾を討伐して、
晩年には宰相を務めた。寡兵で常に勝利を収めた鮮やかな勝ち方から、
中国では李靖をして史上最高の名将とする書籍が多い。

蕭瑀(時文)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
68 66 83 77 25 B C B C B C 575 648
【ショウウ(ジブン)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。宋国公。蕭鋭の父。
隋の楊広(煬帝)の外戚として重用された。しかし煬帝の意にそむく進言を行い、河池郡守に左遷された。
唐の高祖李淵が長安に入ると、蕭瑀を招き、宋国公に封じ、秦王李世民が右元帥として洛陽を攻めると
蕭瑀はその下で元帥府司馬をつとめた。李淵の側近にあって内外の政務の裁決にかかわり、蕭郎と呼ばれた。
李淵の過失についてもはばかることなく発言して信頼され、李世民が雍州牧となると蕭瑀は雍州都督となる。
貴族の生まれで、心は狭く不平不満を鳴らすことが多かったために、房玄齢や魏徴と対立することも多く、
度々、朝政権を剥奪されている。

段志玄

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
82 92 36 23 66 疾走 A A B A B C ? 642
【ダンシゲン】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。樊国公。褒国公。
李淵が起兵すると、志玄は千人の兵士をもって従い、右領大都督府軍頭に任ぜられた。
霍邑・絳郡を下し、永豊倉を攻めるにあたって常に先鋒をつとめた。劉文静が桑顕和に襲撃されて、
唐軍が潰乱すると、二十騎を率いて敵中に入り流れ矢を足に受けながらも再三討ち入って
敵を混乱させて敗走させた。王世充の征討に従い、竇建徳を破った。
皇太子・李建成に金や絹で誘われたが、これを拒絶。李世民が即位すると、左驍衛大将軍に累進し、
樊国公に封ぜられる。警備にあたって厳重で「真の将軍である。周亜夫もこれ以上であろうか」
と李世民に感嘆されたという。

劉弘基

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
76 87 56 15 64 駆逐 B B A A C C 582 650
【リュウコウキ】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。輔国大将軍。
隋の河州刺史劉昇の子。若い頃は素行が悪く侠客と交友して博徒に興じた。
高句麗遠征を忌避して部隊の者と牛を屠殺し官吏を批判して捕縛され、釈放されると馬泥棒として自活する。
のちに唐公李淵に仕えて、李世民に見出されて、起兵にあたって二千人を集めた。
王威らを捕らえて西河を攻め下し、宋老生を撃破し、先陣を切って黄河を渡り、隋軍を大破する。
長安が平定されると、功績第一として、右驍衛大将軍に任ぜられた。
以後は割拠する群雄の討伐に活躍して、突厥に対する防備を固めた。

屈突通(坦豆抜)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
85 86 82 57 90 白馬 B S A S C C 557 628
【クツトツツウ(タントウハツ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。蒋国忠公。
北周の邛州刺史の屈突長卿の子。武略を好み、騎射を得意とした。
隋が建国されると、左衛府司馬となり、楊広(煬帝)の命で長安を守備する。
低落の一途をたどる官軍の士気の中、長安を守備しよく守るが唐軍の勢いの前に敗北、
号泣しながら東南に再拝して降伏する。
「通は人臣の節を尽くすことができず、そのためここにいたりました。本朝の恥じるところです」
との言葉に、李淵に「忠臣である」と許されて、国内統一に貢献した。
「玄武門の変」ののちは洛陽を守備し、まもなく亡くなった。
官にあっては剛直で、法を犯す者があれば、親族であっても容赦しなかったという。

殷嶠(開山)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
62 53 37 72 58 B C B C C C ? 622
【インキョウ(カイサン)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。鄖節公。
隋の秘書丞殷僧首の子。李淵が太原で起兵すると、召されて大将軍掾に補任され、
軍機に参預。李建成に従って西河を攻撃した。のち、元帥府司馬として李世民に従い戦うが、
李世民の戒めを破って大敗を喫し、死罪に相当するところ一命を許されて庶民に落とされた。
薛仁杲に対する征戦に従軍し、功績によって爵位をもどされ、
王世充を討つのに従い、功により鄖国公に任ぜられた。

柴紹(嗣昇)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
88 92 88 30 75 機略 A A B S B C ? 638
【サイショウ(シショウ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。譙襄公。妻は唐の高祖李淵の三女平陽公主。
幼少のころから身軽で荒々しく、武力を有した任侠として知られていた。
李淵が太原で起兵すると、間道を通って太原に赴き参陣。
長安進軍に際し、いずれも先頭で敵陣を陥れる功を上げた。
天下統一戦では李世民に従って薛仁杲・宋金剛・王世充・竇建徳らを討伐。
吐谷渾と党項が辺境に侵入すると、高所から矢を雨のように射こむ敵軍に対し、
胡琵琶を弾かせ、二女子に舞いを舞わせる奇策で敵軍を疑心に陥らせて、
精鋭の騎兵を率いて後方から攻撃し潰滅させた。
功により、鎮軍大将軍を加えられ、右驍衛大将軍を代行し、譙国公に改封された。

長孫順徳

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
75 83 55 80 74 名声 A B B A C C ? ?
【チョウソンジュントク】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。邳襄公。長孫無忌や長孫皇后の族叔。
隋に仕えて右勲衛となるが、高句麗遠征への従軍を忌避して太原に逃れて李淵や李世民と親交を持つ。
李淵が起兵すると、統軍に任ぜられて平定に活躍。
劉文静とともに屈突通を潼関で攻撃し、捕らえて長安に連行する功を立てて
左驍衛大将軍に任ぜられ、薛国公に封ぜられた。
放縦で、法律を守らなかったが、その統治は端折って簡明であり、明肅と号される。
官吏たちの多くは百姓にたかっていたが、順徳はこれを糾弾して許さなかったので、良牧と称された。
娘を亡くして意気消沈し、病死した。

張亮

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
78 76 73 52 54 遁走 B A B A B C ? 646
【チョウリョウ】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。長平郡公。鄖国公。
群雄の一人である李密に従っていたが、李勣とともに唐に帰順する。
李勣を補佐して鄭州刺史に抜擢されるが、王世充に鄭州を奪われると、共城山に逃れ、
李勣が劉黒闥を討ったとき、相州を守ったが劉黒闥の勢力が強まると、城を棄てて逃亡した。
房玄齢の推薦により、秦王李世民に召されて、車騎将軍に任ぜられて洛陽に行き、
山東の豪傑と結んで太子・李建成に備えた。太宗李世民が即位すると、朝政に参与する。
李世民が高句麗遠征をおこなおうとすると、張亮はたびたび諫めたが、聞き入れられず
遠征は大敗、帰国途中逮捕される。のち、死罪にあたる事件を起こして斬刑を受けた。

侯君集

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
67 83 88 17 55 射程 A C S B S C ? 643
【コウクンシュウ】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。陳国公。
唐の秦王李世民の幕府に召されて、その征戦に従い謀議に参与した。
「玄武門の変」において、李建成・李元吉を排除する計画に多くの献策をおこなう功で、
李世民が即位すると、左衛将軍に転じ、潞国公・右衛大将軍に任ぜられた。
吐谷渾討伐戦では李靖の下で献策して撃破し、西域でも撞車、投石車を駆使して功を上げる。
高昌を破ったとき、無罪の人を奴隷に落として分配し、私的に宝物や婦人を略取していたために
長安で役人がその罪を奏上すると、詔により獄に下される。
太宗は李広利や陳湯の例を引いた上疏を受けて許して釈放するが、
のち、皇太子李承乾と共に兵変を計画した罪で処刑された。

張公謹(弘慎)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
78 73 82 84 80 屯田 B A A C A C 594 632
【チョウコウキン(コウシン)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。鄒国公。郯襄公。
隋に仕えて王世充の下で洧州長史となったが、刺史の崔枢とともに唐に帰順した。
李勣と尉遅恭から李世民に紹介されて秦王府に入る。
「玄武門の変」では李建成亡き後、部下の馮立・薛万徹らが玄武門を攻めるが奮戦しこれを阻む。
のち、代州都督となり、食糧運送の手間を省くために屯田を置いた。ときの政治の得失を言上して、
李世民に意見の多くが採りあげられた。突厥攻撃では李靖の下の副将として、定襄を落とし、
頡利可汗を破る功績で鄒国公に進封された。襄州都督に転出し、寛容な統治で知られた。

程知節(義貞)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
84 93 65 30 62 騎将 A A C S C C 589 665
【テイチセツ(ギテイ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。宿国公。盧国公。
瀛州刺史の程婁の子。李密に従い四驃騎の一つを領して活躍。
王世充と李密が戦ったとき、知節は内騎営を受け持ち、単雄信は偃師にあって外騎営を受け持った。
王世充が単雄信を襲撃すると、李密は知節と裴行儼を派遣して単雄信を救援した。
裴行儼が流れ矢に当たって落馬すると、知節はこれを救い、裴行儼を馬上に抱えて馳せもどった。
のちに李密が敗れると、知節は王世充に捕らえられるが性格を嫌って、秦叔宝とともに唐に帰順し、
宋金剛・竇建徳・王世充との戦いに従軍して、先陣を幾度も切る功績をあげる。
その後、李建成による讒言を受けて左遷されても従わず、赴任せず、「玄武門の変」ののち、
右武衛大将軍に任ぜられて反乱平定などに活躍。左領軍大将軍・原州都督を歴任し、普州刺史となり、
盧国公に改封された。次子の程処亮は清河公主の降嫁を受けて、駙馬都尉・左衛中郎将となった。

虞世南(伯施)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
1 1 42 46 40 指導 C C C C C C 558 638
【グセイナン(ハクシ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。永興文懿公。
初唐の書家で三大家の一人。はじめ隋に仕え、のちに唐に仕えた。
王羲之の書を愛好した李世民には皇太子時代から仕えてその顧問として生涯信任をうけた。
書は智永にまなんで王羲之の正統をひきついだと伝えられ、太宗が開設した弘文館では
貴族の子弟に書をおしえた。同時代の欧陽詢とともに楷書の大成者とされる。

劉政会

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
60 64 76 52 58 沈着 B A B C C C ? 635
【リュウセイカイ】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。渝襄公。北斉の中書侍郎・劉環雋の孫。
隋の太原鷹揚府司馬で唐公李淵の麾下に属していた。李淵が太原で挙兵するのに先立って、
王威・高君雅らを捕らえるのに功績を挙げた。
唐が建国されると、衛尉少卿に任ぜられ、太原の留守を務める。
群雄の一人である劉武周が并州を攻撃すると捕らえられるが、敵中にあって
劉武周の動静を李淵のもとに書き送る。劉武周が敗れると官爵を戻されて
刑部尚書・光禄卿を歴任し、邢国公に封じられた。

唐倹(茂約)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
66 65 51 25 62 掃討 A B B C B C 579 656
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。莒国公。
隋の戎州刺史唐鑑の子。父の唐鑑は李淵と親交があり、李淵の次子の李世民と親交を結んだ。
隋の政治が乱れると、唐倹は王業を立てるよう李淵や李世民にひそかに説いた。
呂崇茂が劉武周と結んで夏県で背くと、永安王李孝基・独孤懐恩・于筠らとともに討伐にあたる。
しかし尉遅恭に敗れて劉武周に捕らえられた。独孤懐恩が唐に対する造反を企んでいることを知り、
劉世讓をひそかに李淵のもとに派遣してその謀略を告発させる。
その後、劉武周が敗れて突厥に逃亡すると、太原の府庫や戸籍や武器を封印して李世民の到着を待った。
李淵は唐倹が敵中にあっても唐朝への忠誠を忘れなかったことを賞賛し、并州道安撫大使とする。
李世民の下で劉黒闥を討伐し、幽州を平定して、馬邑の高満政が突厥について叛くと、
これを鎮圧して莒国公に進封される。
官にあって仕事に励まず、賓客と酒を飲んでは楽しんでいたため微罪に触れて、
光禄大夫に左遷され致仕するが、国老として特進を加えられた。

尉遅恭・李勣・秦瓊

いずれも唐の凌煙閣二十四功臣の1人。「いにしえ武将」から。

平陽公主

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年 配偶者
75 61 88 82 86 内助 A B A C B B ? 623 柴紹
李淵の三女。柴紹の妻。本名は不明。平陽昭公主の名で知られる。
父の李淵が太原で起兵したとき、夫の柴紹とともに長安にいたが一計を案じて、
柴紹には間道を抜けて太原に向かわせ、自分は逃れて家財を散じて兵を募り、父の起兵に呼応した。
総管を称していた何潘仁を降して、周辺の李仲文・向善志・丘師利らを降した。
法の遵守を誓わせ略奪を禁じたので、関中近隣で公主につくものが多く兵七万におよんだという。
李淵の唐軍が黄河を渡ると、渭北で李世民の軍と合流した。柴紹と公主は幕府を対置して、
長安の平定にあたり、公主の部衆を娘子軍と号した。李淵が唐朝を建国すると、平陽公主に封ぜられる。
葬儀にあたって、李淵は羽葆・鼓吹・大路・麾幢・虎賁・甲卒・班剣の礼を加えた。
葬礼をつかさどる太常は「婦人の葬儀に、昔から鼓吹の礼はない」といって反対したが、
父の李淵は「鼓吹は軍楽である。公主の身で金鼓をとり、軍命に参じたものが、昔にいたか。
鼓吹を用いるにふさわしいではないか」と聞き入れなかった。

武則天

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
66 10 90 84 32 指導 B B B C C C 623 705
【ブソクテン】
武則天(623年-705年、在位690年-705年)は中国武周朝の創始者。
中国史上最初にして最後の女帝。唐の高宗の皇后。姓は武。諱は照または曌(照に代わる則天文字)。謚は則天大聖皇后。
日本では則天武后の名前で呼ばれる事が多いが、最近の中国では武則天と一般的に称されるようになってきている。
漢代の呂后、清代の西太后とともに『中国三大悪女』と称される。
西太后もまた政権を掌握した皇后であるが、武則天は正式に王朝を建て自ら皇帝の位に就いた唯一の女性である。
武則天は外交も積極的に行い、660年(顕慶5年)には新羅の要請を受け入れて百済討伐の軍を起こした。
百済を滅ぼした後の日本と百済の遺臣連合軍との白村江の戦い(中国の史書では白江之戦と表記される)にも勝利し、
更にその5年後には孤立化した高句麗を滅ぼし満洲地方の安定を実現した。

薛礼(仁貴)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
89 96 78 56 75 神将 S A S S A C 614 683
【セツレイ】
唐の軍人。 薛仁貴 の通称で知られる。北魏の薛安都の後裔であり、薛軌の子。河東薛氏の出身。本貫は絳州龍門県。
その勇武は多くの民間伝承にも伝えられている。
若いころは貧しく、耕作を生業として、妻に柳氏を迎えた。
645年、柳氏の勧めにより張士貴の兵の徴募に応じて、高句麗遠征に参加。
郎将の劉君卬が高句麗軍の包囲におちいっているところを救援して、名が知られた。
これを皮切りに、突厥・高句麗・吐蕃・契丹といった唐王朝の遠征軍に連続して参加。
ときに唐軍が安市城を攻撃し、高句麗の高延寿らが20万の兵を率いて抗戦した。
仁貴は奇功を立てようと考え、目立つ白衣を着て目印とし、戟を持ち、
ふたつの弓を腰にかけて軍の先頭に立って突撃し、高句麗軍を破った。
その姿が太宗の目にとまって召し出され、金帛などの褒賞を受け、游撃将軍・雲泉府果毅に任ぜられた。
唐の遠征軍が長安に帰還すると、仁貴は右領軍中郎将に転じ、宮城の北門を守備した。
一時は敗戦の責を負い、官職を奪われて庶人に落とされたが、まもなく高句麗の残党が蜂起したため復職。
682年、突厥の骨篤禄が唐の北辺に侵入すると、仁貴は阿史徳元珍の軍を雲州で撃退した。
683年、70歳で死去した。左驍衛大将軍・幽州都督の位を追贈された。
子に薛訥・薛楚玉があった。
薛訥は、字を慎言といい、平陽郡公に封ぜられ、左羽林大将軍・朔方行軍大総管などをつとめ、その人物像は『説唐』の薛丁山の原型となった。
薛楚玉は、開元年間に范陽節度使となったが、赴任せずに罷免された。

楊玉環

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
3 2 64 7 99 傾国 C C C C C C ? ?
【ヨウギョクカン】
楊貴妃。唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。
蜀州の司戸参軍楊玄琰の娘。あまりにも玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたので傾国の美女と呼ばれる。
楊貴妃は元々玄宗の第18皇子の寿王瑁の妃の一人であったが、玄宗に見初められたために、一時的に道士となり、その後で、玄宗の後宮に入った。
玄宗は楊貴妃との愛欲の生活に溺れたため、まったく政治を顧みなくなり、彼女を喜ばすために楊一族の位を高くした。
その結果、楊貴妃の従兄の楊国忠の専横を許すこととなった。中国史では伝統的な、外戚の専横である。
楊国忠は自らの名声を高めるため、遠征を行うなどの悪政を行ったために国力を弱め、民衆からの恨みを買うこととなった。 
さらに楊国忠は権力争いのライバルである節度使の安禄山を蹴落とすために玄宗に讒言を行った。
結果的に、これに危機感を覚えた安禄山は反乱(安史の乱)を起こした。
首都である長安から逃げ出して蜀へ向った楊貴妃たちだが、兵士達は乱の原因となった楊国忠を強く恨んでいたため、彼の部隊を包囲して殺害した。
さらに兵士達は、玄宗に対して楊貴妃を殺害することを要求したため、玄宗はやむなく楊貴妃を縊死(首吊り)させた。

安禄山

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88 93 84 75 95 駆逐 A B B S A C ? ?
【アンロクザン】
唐代の中国の節度使、軍人、大燕国皇帝。本姓は康で、康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血。
語学に堪能であり、交渉事で頭角を現す。
一時は玄宗の寵愛を受けたが、楊国忠の讒言を受けたため唐の玄宗に対し安史の乱を起こし、大燕帝国皇帝に即位したが、最後は息子に殺された。
この乱以降、唐王朝の衰退は加速していった。
巨漢として知られ、その膨らんだ腹の中には何が入っているのかと玄宗に聞かれた時に「ただ忠誠のみが入っています。」と答えた。
また「楊貴妃の養子になりたい」と言い出し、おむつをして大きな揺り籠に入って出てきて、玄宗や楊貴妃を大いに笑わせた。
これらの事は玄宗の「軍事力を背景に反乱を起こすのでは」と言う疑いを逸らすための苦肉の策であった。

杜甫(子美)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
2 1 83 81 90 詩想 C C C C C C 712 770
【トホ】
盛唐期の詩人。杜少陵、杜工部とも呼ばれる。三国時代の名将杜預の末裔。
律詩の表現を完成させ、後世、詩人としての最高位の呼称である『詩聖』と称された。
その文学的功績は李白と並び称される。
反面、士大夫としては終生不遇と貧困に苦しみ、傑作が生み出されたのはその苦境の中であった。

楊炎(公南)

統率 武力 知力 政治 魅力 特技 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 生年 没年
32 11 73 95 87 徴税 C C C C B C 727 781
【ヨウエン】
唐の政治家。両税法の創設者として名高い。鳳翔郡天興(現在の陝西省)の人。号は小楊山人。諡は肅愍。
初め、河西節度使呂崇賁の掌書記となり文才を開花させる。
後に中央政府に入り、同郷の宰相・元載の信任を受け、司勲員外郎・礼部郎中・中書舎人・吏部侍郎・史館脩撰を歴任。
元載の失脚に連座して楊炎も道州(現在の湖南省)の司馬に左遷された。
徳宗が皇帝に即位すると、楊炎は宰相職である門下侍郎・同中書門下平章事に抜擢され、朝権回復と財政再建という難題に取り組む事になった。
安史の乱以後、河朔三鎮をはじめとする地方の節度使は中央から独立して藩鎮と呼ばれる事実上の独立政権を打ち立てて国は分裂状態にあった。
更に農村の荒廃も加わって、唐の財政は危機的状況にあった。
楊炎は塩の専売制を成功させて財政を掌握していた劉晏を処刑して実権を得ると、陸贄らの反対を押し切って両税法を導入し、
更に財政収入が宦官に流用される事を禁じて、国家財政を扱う戸部の左蔵庫を充実させた。
また、沈既済・杜佑ら有能な人材を登用した事でその名声が高まりつつあった。
だが、こうした政策は強硬な反発を伴い、貴族・宦官・藩鎮ら既得権益層全てが楊炎排斥に動き出す事になる。
楊炎と対立した徳宗の側近・廬紀が楊炎に対する讒言を行うと、反対勢力もこれに同調する。
楊炎の人気の高まりと劉晏の処刑に不快感を抱いていた徳宗もそれに従い、楊炎は海南島の崖州司馬に左遷され、中途で処刑された。



  • 毛利元就は -- (名無しさん) 2013-06-29 21:43:09
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