プレイ日記 > 英雄集結 > 董卓 > 上級 > 魔王董卓の殺伐たる天下取り 第2部

<ここまでのまとめ>
梟雄董卓に率いられた騎馬軍を用いて、何人の武将を殺せるのかをテーマにプレイ日記を書いています。
縛りは以下の通りです。
1、捕まえた武将は一発登用に応じない限り基本的には処断する
2、しかし相性が125~25の武将は3人まで捕虜にでき、1度だけ登用を実行可
3、相性が125~25の武将で登用に失敗した場合は即解放し、再び捕らえた場合は即処断
4、褒賞は半年に1度で、裏切った武将は優先的に捕獲を狙い、捕らえたら即処断
5、主将にはできる限り李儒、華雄、徐栄、李傕、郭汜、樊稠、胡軫、李粛らの初期メンバーを使う
6、鍛冶はたてない(兵器は木獣と井闌1台ずつ使用中、増やす予定はなし)

251年からここまで7年の間に殺した武将は60人で、以下の人たちが封神台ならぬ封将台に入っています。
(犠牲者リスト、すべて処断or戦死した順)
  • 廬植、王匡、馬休、馬岱、馬騰、馬超、馬鉄、馬雲緑、楊氏、韓遂、龐徳、龐会、梁興、張横、朱儁、皇甫嵩(戦死)、成宜、楊秋、李堪、王伉(戦死)、張嶷、楊柏(戦死)、馬玩、羅憲、程銀、侯選、秦宓、呂凱、楊任、楊松、陳寿、陶謙、廖立、董承、何進、呉巨、張松、郭攸之、劉諶、劉岱、王渾、向寵、荀顗、荀勗、王業、藩濬、閻行、馮習、李氏、司馬昭、司馬伷、孔伷、樊建、傅士仁、濮陽興、毌丘甸、楊肇、馬謖、司馬師(戦死)、申儀
(指名手配)
  • 何晏、王韜

もし、みなさんのお好きな武将、お気に入りの武将が入っていたらごめんなさい。また、これからさらに増えていくかもしれませんが、ご諒解くださってお付き合い頂ければありがたくおもいます。

(董卓軍武将名簿)
  • 董卓、李儒、李傕、郭汜、華雄、徐栄、樊稠、胡軫、董旻、牛輔、李粛(明鏡)、董白/成公英、陸凱、楼玄、丁儀/張球、張承、胡遵、閻圃、張衛、張魯、徐質(猛者)、費耀(猛者)、楊昂(猛者)/胡車児、李通、于禁、邵悌(威圧)、張繍、賈詡、鄒氏、張済/桓範、蘇飛、国淵、馬邈、韓忠、張燕、歩隲、諸葛誕、蔡琰、左奕、崔林、董昭、夏侯玄、賈充、太史慈、太史享、温恢


第2部 「中原に鹿を逐う」


第4回

前回は「この際プライドは抜きだ」と董卓忠臣七将(李、郭、華、徐、樊、胡、李粛)ら以外を部隊主将に使ってしまったので、今回はできるだけ自重していきたいと思います。

長安城にて・・・
董卓「皆の者、ご苦労であった。ようやく我らはここ長安にて献帝を擁立し奉ることができた。わしも漢朝の臣(パラでは漢室普通)であるからには、漢の威光(わしの威光)を天下に示さねばならん」
李郭華徐樊「ははーっ」
董卓「だが、外に威光を示すにはまず内が確かでなくてはならん。胡軫、樊稠、牛輔の先日の失態はどういうことだ。司馬懿一部隊にいいようにされ、一度取った長安を失うとは何事であるか」
胡軫「はっ、畏れながら申し上げます。叛将の閻行についてはともかくも、我らは司馬懿隊を壊滅させ、司馬懿にも重傷を負わせましたがあと一歩のところで逃げられたのでございます」
樊稠「左様にござります」
牛輔「おう」
董卓「あと一歩で逃げられたら何も変わらないではないか。そんなことだからお主は統率が70(育成しました)しかないのだ」
胡軫「ははっ・・・(くっそ、我らは司馬懿には勝ち、後詰にやられただけだというに・・・)」
董卓「もうよい、それより李儒よ、今後はいかがいたすのじゃ」
李儒「は。ではまず全体を概観していきましょう。」
董卓「ふむ、申せ」
李儒「はい。まず司馬懿軍は洛陽と宛をもち、当面の敵となります。その先には曹操軍が陳留、許昌、汝南、寿春を支配しております。さらに東は呂布軍が小沛、下邳、北海、濮陽を支配しております。河北は鄴を袁紹軍が維持するのみで、あとはすべて公孫瓚の支配下です。一方で南は劉備軍が新野、江夏、襄陽、江陵、永安をもつ大勢力となっており、荊南は意外にも金旋軍が制覇いたしました。揚州は江南3都市を王朗が支配しており、他は廬江を袁術が、柴桑を孫堅が保つのみです。また益州ですが、南の2都市を孟獲軍が、江州と成都を鄧艾軍が支配しており、我が軍と同盟中の鍾会軍は梓潼のみで、鄧艾軍に押され気味のようです」
董卓「ほう、鍾会が倒れたら困るのではないか。唇やぶれて歯さむしと言うぞ」
徐栄「それでは、それがしが長駆して救援に向かいましょうか」
李儒「いえ、よいのです。鍾会は我らとも相性が近く、さらに鄧艾を嫌悪しております。また鄧艾軍も相性的に同盟できぬ相手ではありません」
李郭華樊「ど、どういうことだってばよ・・・」
李儒「つまり静観した後に鍾会軍の将を加えつつ、鄧艾軍と同盟すればよいのです。鄧艾軍も周囲の劉備や孟獲とは敵ですから、その上に我らまでは相手にしたくないでしょう」
董卓「なるほど、妙案じゃのう。ではそういたそう」
李儒「我が軍はまず洛陽を制し、力を蓄え、それをもって中原と河北を制覇しましょう」
董卓「うむ、中原や河北は騎馬が思う様に使えるしのう。まずは司馬懿軍の相手からじゃな」
李儒「ですがその前に長安の内政や軍備でございます(チラッチラッ」
李郭華徐樊「ビクッ・・・・ドドドド、ズキュゥーン!」
李儒「フフフ、ではまいりましょう。・・・あ、胡軫殿は新入りの方々に城内の案内でもしてあげてくだされ」
胡軫「わ、わかりました・・・・(くやしいっ、でも従っちゃうビクンビクン)」

というやり取りがあったと思うので、今回の我が軍は「内政」、「司馬懿軍撃破」、「中原進出」を目標にしていきます。

257年1月

 我らが董卓軍は長安および上庸でしっかりと腰を据え、内政に取り掛かった。
さらに盛んに能力研究や武将育成も行って、董卓様の愛臣たちを育成していた。
賈詡が加わったとはいえ、開発に時間がかかることはいまさら言うまでもない。
また、上のようなやり取りがあったせいか、途中で上庸の胡軫らの忠誠がかなり下がっていた。流言をやられたのだろうが、1月と7月にしか褒賞はできないので彼らを信じて我慢する。
 ところで、今までプレイヤーは弩兵軍団が最強だと思っていた。反撃もなく、火矢の追加ダメージ、補佐の発動などの点で優れているからである。
しかし今回の集団騎馬戦法もなかなか圧巻の攻撃力をもつことに気付いた。
騎兵という元々の攻撃力の高い兵科で突撃を繰り返して戦死や一騎打ちを狙いつつ、敵を兵器などの本隊から引き剥がすことができ、高い移動力と合わせて非常にスムーズな侵攻ができるからだ。
そして太鼓台の有用性にも改めて気づかされた。
今までは軍楽台を優先的に建てていたが、今回のプレイで騎兵と太鼓台の相性の良さにとても驚かされた。
逆に騎兵の防御力の低さにも気付いた。
これはまぁ愛用している武将たちのせいという理由もあるかもしれないが、相手の戦法を受けた時のダメージが意外と馬鹿にならない。
突撃という戦法の都合上、毎回どうしても相手と隣接することになるためでもあるだろう。
 さて、こんなことを考えながら257年は内政と軍備に追われて暮れていった。
時たまの上庸への劉備軍からの小勢の相手以外は全く兵事がなかった。
この間に捕虜の桓範と蘇飛、在野の黄巾将韓忠、馬邈、そして楼玄からの推挙により「屯田」もちの国淵を登用することに成功していた。
こうして董卓軍の将は38人となった。
 安定城は「威圧」をつけた邵悌に任せ、天水は張承、武威は董白ちゃんに守らせている。
漢中は閻圃と馬邈をおき、彼らが後方で輸送と治安を担当する。
上庸には徐栄、李傕、郭汜、李儒、胡軫など忠臣、いや中心メンバーがいるが今回は留守番。
華雄や張繍、賈詡といった面々が兵力11万となった長安で出撃命令を待っていた。

258年1月

 出撃準備は整ったが、技巧ポイントが5000たまったので、先に技巧研究で精鋭騎兵を開発してから出撃することにした。
期間は90日であるので、4月まで出撃を待つ必要があった。
 4月。いよいよ出撃である。
最初の目標、潼関は名将と名高い羊祜が7000の兵を率いて守っていた。
長安から董旻の井闌隊が出るも攻撃位置までわずかに届かないので、しっかりと護衛の騎馬隊をつける。
華雄+李粛(明鏡) 8000騎、樊稠+国淵 7000騎、張繍+徐質(猛者) 7000騎で董旻+丁儀の井闌隊7000を守らせつつ、関の前に太鼓台を建てる。
そこへ羊祜配下の驍将張燕が騎兵3500で突っ込んできた。
ここに第3次対司馬懿戦の幕が切って落とされた。
 こちらの一番手は張繍である。彼の突撃と共に太鼓が鳴り響く。
 徐質「敵将みつけたぞ、逃げるなかれ。勝負だ」
 張燕「おう、こわっぱが。張飛燕といわれるわしの槍をうけてみろ」
両将の武力はほぼ互角なので非常に良い一騎打ちとなった。
だがしかし、互いのゲージが4分の1くらいになったとき颯爽とあの男が現れる。
 張繍「徐質殿、ここはそれがしにお任せあれ」
張燕もさすがに二人目は相手にしきれず、張繍に捕獲されてしまう。かっこいいです張繍さん。
捕らえた張燕は相性が8なので捕虜にする。
 はじめから潼関に7000で羊祜が籠っていたら苦戦したであろうが、今は3500に減っている。
董旻隊の攻撃によって被害を受け、羊将軍の奮闘もむなしく潼関は落ち、羊祜は歩隲に守られて洛陽へ落ちて行った。
 次なる障害は孟嘗君で有名な函谷関である。
ここは董卓様と因縁深いあの男が守っていた。そう、ご存知、王允である。
どうやら何進軍滅亡時に関の守将で外におり、捕獲されずそのまま司馬懿軍に身を寄せていたようだ。
だが函谷関の守兵はたった3000で4隊の攻撃により1ターンで落ちてしまう。王允は捕らえられ斬られてしまった。
 董卓軍はあっけなく武関、函谷関を抜いた。
函谷関と洛陽の間には陣が二つ防衛線のように並んで建っており、洛陽城には40000の兵がいる。
 激しい戦闘が予想されるので、こちらも長安から本隊を繰り出す。
董卓+張球 12000騎、于禁 6000騎、賈詡+胡車児 6000騎、張済+楼玄 6000騎、李通 6000騎、張衛+桓範 6000騎
という大騎馬軍団が先鋒の4隊に加わって函谷関を越える。
 洛陽からももちろん迎撃があり、大乱戦となった。
そう、狭い土地に密集せざるをえない我が軍に敵は火球をうってきたのだ。
これによってあたり一面は火の海となったが、こちらも負けじと突撃を敢行した。火と騎馬が揃う戦場は戦死日和である。

258年6月

 敵は4000~6000の部隊がいくつも出てきていた。炎の中で両軍がぶつかる。
突撃を開始して2ターン目、最初に戦死したのは敵将の陳到であった。彼は火で負傷していたところに華雄将軍の突撃を受けて死んだ。
次に死んだのは毌丘倹で、彼は猛者の効果で負傷していたところに火が重なって死んだ。
緒戦で2将を失った司馬懿軍では、陳到隊は副将の袁遺が引き継ぎ、毌丘倹隊は顧譚が引き継ぐ。
が、やがて両隊とも壊滅して共に捕獲され、斬られた。
こちらは逆に7月前で忠誠が下がっていた丁儀を司馬懿軍に引き抜かれてしまった。丁儀のバカめ。彼もリスト入りである。
董卓軍は騎馬で押しに押しまくったが、司馬懿本隊と司馬攸隊が強かった。狭くて一斉が使えないので、突撃と騎射でちまちま削って倒した。
結構な被害を受けつつも洛陽城に取りつき、ようやく10月に陥落させた。
この時ふと気づいたことがある。洛陽は賈詡でとどめをさしたのだが、内政施設が今までで一番残ったのだ。
ここまで政治の低い武将たちで城を取っていたので違いに気付かなかったが、奪取後に残る内政施設数は武将の政治力と関係あるのだろうか。
 さて、処断タイムである。落城時は10人以上いたはずだが全ては捕らえられなかったようだ。司馬懿や羊祜などを逃がしている。
捕獲したのは以下の通り。
  • 歩隲、臧覇、何晏、司馬攸、司馬炎、諸葛誕、蔡琰
登用に応じたのは臧覇だけで、相性から歩隲、諸葛誕、蔡琰の3人を捕虜にする。先に捕らえていた張燕は戦闘の間に既に登用していた。
そして、いよいよその時が来た。ずっと狙っていた裏切り者の何晏である。彼に対してだけは気持ちよく一番右の処断ボタンを押せた。
また司馬攸と司馬炎も斬った。
 司馬懿軍は宛を残すのみとなり、董卓様はさらに官爵が進むことに期待しつつ、この年は暮れていった。

259年1月

 はっきり言ってこの年には書くことがほとんどない。なぜなら洛陽の内政しかしていないからだ。
敢えて言えば1月に張魯が遺跡を見つけ、李傕の騎兵適性をSにしたことと、3月にも張魯が廟を見つけて、胡軫に「疾走」をつけられたこと、捕虜を登用したことの3つくらいである。
だがこの間に上庸で劉備軍の主力部隊との戦いがあったので一応書いておく。
 攻めてきたのは、
  • 劉備隊弩兵11000と趙雲隊騎兵6000、関羽隊槍兵6000、関興隊戟兵6000、王平隊衝車6000
という主力でそれぞれ副将が1~2名ついていた。なんと今回は宛を通って陸路でやってきたのだ。
迎撃に出たのは李儒、李傕、郭汜、徐栄、胡軫である。最初は負けると思っていたが、火球と太鼓台と「疾走」を用いて対抗した。
それでも各部隊共に兵を半分以上失い、李傕と李儒が関羽隊に捕らえられるという事態にまでなったがなんとか撃破できた。
「疾走」+「猛者」の胡軫+楊昂のおかげだった。王平隊にいた左奕という武将を捕獲し、登用した。
 また、柴桑の孫堅軍が劉備軍に滅ぼされていた。西の鍾会軍はまだなんとか存続しているようだ。
 董卓軍の洛陽ではまるまる1年以上かかって内政と軍備が終わり、次の宛攻略に向けて動き出した。

260年1月

 先ごろの戦で李傕と李儒は関羽からの一騎打ちの申し出を(なぜか)受け、負けて捕まったが、胡軫の活躍もあり、解放された。
その二人がほうほうの体で洛陽に戻ってきた。配下にやさしい董卓様は二人に名誉挽回の機会を与えた。
 董卓「貴様ら、何をやっておるか。勝てない一騎打ちを受け、しかも一撃で負けるとは」
 李傕「ははっー、面目ございません、董卓様」
 董卓「李儒のおらぬ間、いろいろと困ったので軍師は賈詡に任せてしまったぞ」
 李儒「ははっ・・・(ぐぬぬぬ・・・今に見ておれ)」
 董卓「まあよい、二人とも官職は元の通りにいたすが、その前に命令を下す」
 李儒「なんでございましょう」
 董卓「賈詡よ」
 賈詡「は。お二人にはただちに洛陽から武関に出て、宛を目指して出撃していただきます」
 李儒「ほう、なるほど、誘引のはかりごとですな」
 董卓「さよう。おぬしらが敵を誘っている間に上庸の部隊で電撃的に宛を落とすのだ」
 李傕「はは。かしこまってございます」
 李儒「ですが、我ら二人では・・・」
 董卓「わかっておる。暇そうな奴をつけるから安心せい」
 李儒「ありがとうございます・・・(また脳筋の大将か・・・)、では行ってまいります」
というわけで、武関から侵攻し、宛へ「釣り」を仕掛けることにした。
 3月、李傕+李儒8000騎、樊稠+国淵7000騎、賈詡+胡車児6000騎で武関を取り、そのまま宛に侵攻する。
 宛には40000がいて、大軍が迎撃に出てくる。
司馬懿隊を筆頭に、太史慈隊、張梁隊、呂虔隊、楊済隊などである。こちらの3隊は宛の北の細長い森に入り敵をおびき寄せる。
同時に、既に上庸から出撃して待機していた郭汜の木獣隊、徐栄や胡軫の騎兵が境を越え、宛城に襲い掛かった。
敵も気づき反転する。しかし誘引部隊は追撃しようにも目の前に太史慈隊と張梁隊の槍兵部隊がいて、地形も森のため突破できない。
それでも徐栄隊が楊済隊を撃破し、主将の楊済を斬った。
 同じころ、洛陽には陳留の曹操軍30000が攻めてきていた。軍容はというと、
  • 夏侯淵隊 騎兵7000、程昱隊 戟兵6000、典韋隊 槍兵6000、許褚隊 槍兵6000、曹洪隊 弩兵6000
という精鋭で、こちらも洛陽を落とした主力で迎撃した。
それでも向こうの方が主将の質はやや上なので董卓軍にもそれなりの被害が出て、軍備を改めて行う必要が出てしまった。
洛陽の東は我が軍にはやや戦いにくい場所だったことも大きい。
この戦いでは程昱、その副将の夏侯威、典韋の3将を捕らえ、処断した。
 宛攻めに話を戻す。
6月終わり。城に取りついた郭汜らがもりもりと耐久を削っていく。
そしてついに我が軍は宛城を落とし、ここに司馬懿軍は滅亡した。城内の将はことごとく捕らえられ、引き出された。
ちなみにとどめは胡軫がさしたが、残った内政施設は1つであった・・・orz
 さて、恒例となりつつある処断の時間である。捕獲された司馬懿軍の武将は以下の通り。
  • 司馬懿、司馬孚、司馬朗、司馬望、周旨、羊祜、張春華、王淩、辛毘、呂虔、高堂隆、崔林、董昭、夏侯玄、王祥、王惇、何植、劉辟、そして王韜、丁儀
今回は誰も登用に応じてくれなかったので、3人を選んで捕虜にすることにした。
良将が多いのでとても悩む。相性の数値から崔林、董昭、夏侯玄を捕虜とした。
なので司馬懿、司馬孚、司馬朗、司馬望、周旨、羊祜、張春華、王淩、辛毘、呂虔、高堂隆、王祥、王惇、何植、劉辟を斬り、裏切り者の王韜と丁儀も処断した。
 また、司馬懿軍は滅亡時に出陣武将が6名いた。張梁、杜預、賈充、太史慈、太史享、温恢である。このうち温恢、太史慈、太史享、賈充らは領内にいたので、攻略後、先ほどの捕虜の3名と合わせてすぐに登用した。
強制的に在野になった司馬懿軍の武将を登用できてちょっとずるい気もするが、今回は内政官をたくさん登用することができたので、今後の宛の内政は早く整備できるだろう。
董卓様は五官中郎将となり、西の覇者として天下に威光を示すこととなった。

今回の犠牲者 29人 合計89人
王允、陳到(戦死)、毌丘倹(戦死)、袁遺、顧譚、何晏、司馬攸、司馬炎、楊済、程昱、夏侯威、典韋、司馬懿、司馬孚、司馬朗、司馬望、周旨、羊祜、張春華、王淩、辛毘、呂虔、高堂隆、王祥、王惇、何植、劉辟、王韜、丁儀

指名手配 0人
(何晏、王韜、丁儀ともに処断済み)

加入武将 17人
桓範、蘇飛、国淵、馬邈、韓忠、張燕、歩隲、諸葛誕、蔡琰、左奕、崔林、董昭、夏侯玄、賈充、太史慈、太史享、温恢



第5回

前回、外様武将の起用は自重したいとか言っておいて結局ほとんど変わりませんでした(汗。
すみません。どうしても騎馬Aもちの戦力が足りないのです。
しかし董卓譜代の武将は愛用しているので無事成長中です。

洛陽にて・・・
董卓「ふうむ・・・」
賈詡「おや、いかがなされました、董卓様」
董卓「おう、賈詡か。いやな、だいぶ我が軍の武将も増えてきたから忠誠維持や配置が面倒でな」
賈詡「なるほど。しかしこれから支配都市が増えることを考えると頭数は必要でございます」
董卓「うむ、そこでじゃ。これからは攻め取った城はできるだけ内政をしない方向でいく」
李郭樊「おおっ・・・(ザワザワ)」
董卓「必要な場合を除いて人をおかず、進軍の駐屯地としてのみ使うのじゃ」
賈詡「それなら今くらいの頭数でも足りましょうが、出陣中の守りはどうするのです」
董卓「うむ、そこには守りの将兵もおかず、空城にしてしまうつもりじゃ」
賈詡「すると敵軍が城を簡単にとってしまいますぞ」
董卓「だがな、すると敵はいちいち城に武将を入れて開発しようとするじゃろう」
賈詡「なるほど、そこを一網打尽にして敵軍を弱体化させてしまうのですな」
董卓「さよう。1度の出撃で2城を落とし、2倍の武将を捕らえることができよう」
華雄「おお、戦まつりでございますな。さすが董卓様」
董卓「そうじゃ、戦まつりの捕獲まつりじゃ」
賈詡「ですが、人員については後方都市の治安維持要員と水軍要員は今より数が必要でございます」
董卓「そうか、わかった。ではもう少しだけ登用する必要がありそうじゃな」
賈詡「また、金や兵糧の生産、輸送を考えると宛は開発する必要がありましょう」
董卓「そうじゃな、南は宛と襄陽くらいは内政が必要そうじゃな」
賈詡「では参りましょう・・・(おや、李儒殿がいないな)」

そのころ李儒は上庸近くの港から漢水の流れを睨んでいた・・・
李儒「ううむ、おのれ賈詡め。いまに見ておれ・・・」
胡軫「おやおやおや、これはこれは前の軍師の李儒殿ではありませんか。こんな所でどうなされた」
李儒「こ、胡軫殿か・・・(くそ、こいつめ・・・)、わしは殿から上庸の守りを承っておるのだ」
胡軫「左様でしたか。まあ港を劉備軍と交代で出たり入ったりするだけの簡単なお仕事ですしな」
李儒「くっ、貴殿こそ最近はどうしておるのだ」
胡軫「私ですか。私は先ごろ董卓様に疾走を付けて頂いたのでその試し走りににきているだけですよ」
李儒「さ、左様か(疾走とはなんと良い特技を・・・)」
胡軫「では私は新野攻めの準備で忙しいのでこれで失礼する」
李儒「くっ、くぅ・・・私だって徴収という珍技を、って上庸じゃ意味ないか・・・」

というやり取りがあったので、これからは「内政を控えめにする」ことと「登用は相性だけでなく、慎重に」決めることにします。
そして「遠征して、連戦」していくことにします。

261年1月

 さて、だまして悪いが、この年もほとんど書くことはない。
宛の内政と軍備、数人の武将の登用、上庸で劉備軍とかるく攻防戦をして敵将関彝を討ち取ったくらいだ。
新たに登用した武将は在野にいた張梁、杜預、楊阜という良将3名と「運搬」もちの孫仲、鄧茂、韓徳の3人、さらになぜか適性がオールAになってる張闓である。今回と前回で登用した武将の質は良いと言えるだろう。
 今更気付いたが、董卓の相性1の周辺にはろくな武将がいない。特に政治の高い武将がいないので本来は魏や呉の武将を使うしかない。
けれど王韜や丁儀の二の舞はしたくないので考えて登用しないといけない。

262年1月

 内政もひと段落つき、有能で信頼のおける武将を獲得した董卓軍は再び侵攻を開始した。
第一目標は陳留である。洛陽から次々と出撃し、井闌部隊は虎牢関から出撃させる。
こちらは毎度のことであるが騎馬で、軍容は、
  • 先鋒 張繍+徐質+鄒氏9000騎、華雄+李粛10000騎、太史慈+太史享(連戦)+桓範8000騎
  • 本隊 董卓+張球12000騎、董旻+歩隲 井闌9000、張燕+国淵8000騎、張済+蔡琰8000騎
  • 後詰 于禁7000騎、成公英+馬邈(待伏)6000騎 (この後詰については後述)
というもので先鋒3隊は騎馬適性がSである。
 陳留城は曹操の股肱の臣夏侯淵が20000ほどで守っている。その夏侯淵を筆頭に迎撃軍が出てくる。
夏侯淵 騎兵、郭淮 弩兵、楽進 槍兵、李典 戟兵などがでてくる。
郭淮隊と楽進隊の副将には「言毒」もちの橋瑁と陳珪がおり、結構手間取ってしまった。
敵部隊はなかなかの精鋭なのでこちらも被害をうけつつ突撃で迎撃軍を蹴散らした。
夏侯淵と副将の夏侯恩を斬り、郭淮、楽進、李典の3将を捕虜にする。
 そのまま曹洪の守る陳留の城を落とし、籠城していた武将たちを捕らえた。
曹洪、夏侯和、夏侯恵、傅巽、橋瑁、陳珪を引き出して斬った。
本当はもっと武将がいたのだが捕まらず、逃げられてしまったのだ。

 董卓軍本隊が陳留城を攻めていた頃、第2師団とも言える宛城の徐栄率いる軍団は新野攻めを開始していた。
劉備軍の新野城は老将黄忠が45000で守っていて、宛も先ごろの戦いの損耗を補充して60000である。
このうち6000を留守に残して全7部隊で出撃した。
  • 先鋒 胡軫(疾走)+費耀(猛者)8000騎、樊稠+左奕(連戦)+温恢8000騎、張梁+賈充6000騎(←反則か)
  • 本隊 徐栄+楊昂(猛者)+陸凱9000騎、郭汜+楊阜 木獣8000、李傕+韓徳+杜預9000騎
  • 後詰 賈詡+張闓 6000騎
という軍勢で、留守は臧覇に任せた。
 劉備軍迎撃隊とはいわゆる博望坡での戦いになった。
黄忠の弓兵、徐庶の槍兵、劉封の槍兵、鮑三娘の騎兵、呉蘭の戟兵、雷銅の戟兵などの35000と正面からぶつかる。
博望坡は森が多く突撃が使えないので先鋒部隊はじりじりと宛領の平地まで下がって戦った。
このため緒戦で結構な被害を受け、黄忠や劉封の戦法に苦しんだ。
しかし新参の張梁隊が必殺の「妖術」を放ち、そこからの「猛者」突撃で一方的に敵部隊を撃破していった。
あわれ劉備軍はこの戦いで鮑三娘、徐庶、雷銅、呉蘭の4将を失い、副将の朱異と毌丘秀が捕虜になった。
ほうほうの体で逃げ帰った黄忠らも必死の抵抗をするが新野城はあっけなく郭汜隊によって落とされた。
 新野で捕らえたのは劉封、劉琦、鄧芝、陳震、謝旌、留賛で、謝旌と留賛を一発で登用できた。
なお、先に捕らえていた朱異と毌丘秀も少しして登用できた。
ちなみに陳留で捕らえた曹軍3将は速攻で逃亡していた。守将を置かないと逃げやすいのか。

262年6月

 陳留を落とした董卓軍は軍を返し、そのまま許昌に向かっていた。
許昌は曹操軍の本拠であり、兵も45000ほどいて、有能な将も多いことだろう。
 董卓軍と曹操軍の両部隊は嵩山の南東、道が許昌と宛に分かれている潁川から陽翟のあたりでぶつかった。
こちらの先鋒は張繍隊と華雄隊、張燕隊である。
 敵軍は大将の曹操以下、曹彰や曹純の騎兵、許褚や鮑信の戟兵、方悦や荀彧の弩兵、曹真の槍兵などが出てきた。
兵数ではこちらの方が多いが潁川のあたりは道が細く、森があるので騎馬の戦いには向いていない。
なので許昌領に入ったところですぐに太鼓台を建てる。すると曹操軍は虎牢関方面まで出てきてくれる。
しかしこれでもまだ細い道で戦わざるをえないので、ここで迂回させていた後詰部隊の出番である。
 于禁と成公英の2隊は陳留の迎撃軍と戦った後、城攻めに参加せず、洛陽から武関と宛を通って曹操軍迎撃部隊の背後に出るようにしていたのだ。
これによって我が軍は兵力の多さを活かして両側から突撃を仕掛けることができた。
この攻撃で荀彧隊、鮑信隊、曹彰隊を壊滅させ、曹純隊は残兵わずかとなり、残った曹操隊などは森を伝って許昌まで後退した。
もちろん我が軍も被害を受けていたが、それでも充分な勝利であった。
 さて、ここで・・・

 「やりましたね将軍、我が隊も曹操軍に勝ちましたよ」
 「よせよせ、私は将軍などとは言えん」
 「でも将軍の計略がうまくいったのは大きかったですよ」
 「そうかな、それほどの智将かな私は。ははは。そうだ、それより敵の様子はどうだ」
 「はい、我々が戦った曹純隊は500騎ほどまでに減ったようで、許昌に戻る様子です」
 「そうか、それならよい」
 「ではまた後ほど、馬邈将軍」
 将軍、と兵に呼ばれた男、馬邈は戸惑ったが今度はその言葉を受け入れようとした。
 「ふう、なんでこんなことになったのだ」
 馬邈はつぶやいた。彼の口癖である。
治安担当官の頃からこう言いながら仕事をしていた。こう言うと問題点が見えてくる気がするのだ。
 以前、馬邈は李氏という女性と結婚していた。彼は李氏に招かれて長安の何進軍に仕えるつもりだった。
しかしそこへ向かう途中で何進軍は滅亡し、李氏が死んだことを知った。
茫然自失として進む道を見失っていた馬邈に声をかけたのは漢中太守の閻圃であった。
彼の言葉によって馬邈はよみがえり、李氏の夢であった漢朝の天下を目指していくことに決めた。
馬邈は仇敵とも言える董卓軍に仕官し、漢中や長安、涼州の治安担当官として勤務に励んだ。
あまり優秀とは言えなかったが、彼の熱意に感じた閻圃は馬邈を軍の特技付与枠に推薦してくれたのだ。
そこで馬邈は「待伏」の秘技を習った。が、活用の機会はなかなか来なかった。
 「私は戦いには向いていないのだ」
 馬邈は正直にこう思っていた。彼は優しい性格の男なのだ。
だが董卓軍が中原へ出ることになり、騎馬戦法の使えない森での戦闘を想定した首脳部が軍で唯一「待伏」を習得している馬邈に白羽の矢をたてた。
彼は涼州から一躍洛陽に出て、智将で有名な成公英隊の副将として出陣することになった。
 その成公英隊は陳留戦で森に布陣し、いざ伏兵を使おうとした。
が、騎兵という兵科では伏兵ができないらしくて結局、馬邈の出番はなかった。
 彼はほっとしたが、騎馬では伏兵ができないとなると馬邈は軍に居場所がなくなる。
 「なんでこんなことになったのだ」
 その時もまた彼は独り言をつぶやいた。功名心、安堵感、焦燥感の混じった複雑な気持ちであった。
けれど成公英隊は許昌の挟撃作戦を受け、宛側から曹操軍に攻撃をしかけることになった。
お役御免だと思っていた馬邈ももちろん従軍した。
手柄を立てる好機である。
 相手は曹純隊5000で、成公英隊の計略により混乱した曹純隊は大打撃を受けて壊滅状態となった。
まさに殊勲の活躍である。あとで褒美もあるだろう。
 「こんなにうまくいっていいものだろうか」
 馬邈は考えたが、そんなことは初陣の自分がわかるわけがない、と思い直した。
 今日の戦闘は終わり、辺りでは兵が夕の兵糧の準備をしている。
ふと陣門の方を見ると騎兵がたった今帰着して陣に入ってくるところだった。
500騎ほどだろうか。前職は治安担当官だった馬邈は兵たちをよく観察する癖があった。
 夕暮れである。馬邈は目を細めた。
はっきりとはわからないが、馬邈はその兵たちがどうもおかしい気がした。
なんとなく鎧の色が我が軍のものと違って黒い気がするのだ。
そして、500騎か、と考えた瞬間、馬邈は背中に冷や汗が出るのを感じた。
しまった、と馬邈が思うと同時に黒の500騎が本陣に向けて走り出した。
 「くそっ、敵襲だ。お前たち、私の後ろについてくるのだ」
 周囲の部下たちに叫ぶと馬邈は馬に乗って500騎の方へ走った。
500騎の先頭に旗が立つ。「純」の文字が見える。
 馬邈の部下たちの声で味方はようやく敵襲に気付くも、間に合うのは自分だけだと思った。
 成公英本陣の幕舎の前で自分なりに陣形のようなものを組む。もう500騎が迫ってくる。
 馬邈は剣を抜いた。
 先頭の男と目が合う。思いきり剣を突き出した。
 交錯する。
 風。そして感触があった。
 しかしそれは剣の方にではなく、自分の方に感じるものだった。
腹が熱い。そして視界が夕焼けに染まって霞んでいく。
ぼやける視界の隅から味方が500騎にぶつかるのを見つつ馬邈は体から力が抜けた。
 「なんでこんなことになったのだ」
 馬邈はまた口癖をつぶやいた。
  (「馬邈伝」完)

と、長い描写をしましたが、なんと馬邈が戦死。
500にまで減ったので撤退すると思っていた曹純隊の突撃で馬邈が戦死。
おそらく馬邈についてこんな文章を書こうとする人はいないと思うので何卒お許しください。
曹純隊は突撃の反撃で壊滅するも、主将の曹純を逃がしてしまった。無念なり。
 さて先鋒部隊も許昌前に到達し、曹操隊を壊滅させ、副将の蘇由と典満を処断。さらに張繍隊が方悦隊も撃破して、方悦を処断。
ようやく城攻めにかかる。曹操自身が守るだけあってなかなか固かったが、一斉をかけて削る。
12月、最後は董旻隊の井闌で落とした。
 許昌で捕らえた武将は、
  • 曹昂、曹丕、曹植、夏侯徳、鍾毓、張緝、万彧、陳登
で、肝心の曹操や曹真、荀彧らは逃がしてしまった。まあいいだろう。
鍾毓と張緝を捕虜にして、あとは処断した。

262年11月

 新野の徐栄率いる第2師団は襄陽攻めを開始した。
実は新野では造船所3つと練兵所を作って、楼船を作っていたので少し時間がかかったのだ。
 まずは中廬港を目指す。この港には襄陽に戻った黄忠が12000の兵で固めていた。
この港の攻略には上庸の部隊、李儒の第3師団が当たった。
  • 李儒+胡車児7000騎、李通+蘇飛6000騎、諸葛誕5000騎
という軍勢がこちらも楼船で出撃し、攻撃をしかける。さらに新野軍の軍勢も攻撃に加わる。
船上では黄忠も怖くなく、中廬港はあっという間に耐久が0となった。
 ここで江陵の劉備軍が空になった新野目指して出撃したという情報が入る。
張梁の妖術隊、郭汜の木獣隊と護衛の李傕隊9000騎を残して、残りは新野に戻る。
 襄陽城には20000しか兵がおらず、黄忠隊と呉班隊が迎撃に出てくる。
しかし張梁の活躍と騎馬突撃で両隊はすぐに壊滅し、黄忠隊の副将董厥と呉班を討ち取った。

263年1月

 新野に攻めてきたのは関興隊と関銀屏隊、張苞隊で、湖陽の港を出て水上で迎撃した。
敵部隊には知力が足りておらず、賈詡の計略や朱異と留賛の水軍適性による激突で「猛者」が発動して簡単に全滅させることができた。
この水戦では関興と副将の孫異を捕らえ、処断した。

 襄陽。
 襄陽城ではなおも黄忠が奮闘して守っていたが、2月、ついに力尽きて落城した。
もちろん内政施設は1つしか残らなかった。郭汜のせいなのだろうか。
捕らえた武将は、
  • 黄忠、黄月英、蒯良、許靖、黄祖、劉琮、趙累、趙範、黄皓、孫皓、孫休
という面々で、二皓がいたことにウケた。「覇王」がついている孫休以外を処断。
月英も斬ったから諸葛亮が怒っているだろう。

 同じころ、許昌の董卓軍本隊は気力を回復しつつ、洛陽から兵を補充輸送していた。
2月。出撃し、汝南を攻める。汝南には30000がいる。大将は曹操である。
ここで一計。「長駆」もちの張燕を一度新野に向かわせ、まず新野側から汝南に侵攻する。「釣り」である。
回廊地形に敵部隊が2隊ほど出てきたところで、土塁を作り、土塁越しに騎射で攻撃する。
この間に本隊が許昌から汝南に攻め込むと、城兵は20000に減っており、曹操隊、曹真隊、許褚隊が出てくる。
汝南の北東の森に入った曹操隊と殴り合うのは効率が悪いので、無視して汝南城の兵を削りにかかる。
 5月。回廊側から戻ってきた兵を蹴散らして、汝南城を落とす。
ここで荀彧、陳羣を捕虜にする。しかしすぐに曹操から使者が来たので解放してあげた。
他には曹純、曹爽、裴秀、王異、張悌を捕らえ、王異と張悌を捕虜にして後は処断した。
曹操軍は寿春から建業方面に人数をかけているようで汝南にはあまり武将がいなかった。
まあ曹純を斬れたのでよしとする。
曹操隊は寿春へ撤退していき、これで曹操軍は寿春城を残すのみとなった。

263年6月

 襄陽を取った第2師団の李傕や郭汜と第3師団の李儒の兵力で、江陵の兵力が少なめなのを好機に侵攻を開始した。
江陵の劉備軍は荊南の金旋軍討伐に向かったため城兵は20000もいないのである。
守備の大将はなぜか劉度である。
こちらは、
  • 先発 張梁+賈充8000騎、李傕+孫休(覇王)+毌丘秀(疾走)10000騎、牛輔+諸葛誕8000騎(義兄弟にしました)
  • 本隊 郭汜+楊阜 木獣9000、李儒+胡車児8000騎、李通+蘇飛6000騎
という軍勢で、はっきり言って張梁の「妖術」頼みである。
 江陵からは凌統が出てきた。攪乱と突撃で撃破し、凌統を捕虜に。
江陵の城に取りつき郭汜隊が城を落とす。
太守の劉度以下、賈華、吾彦、高幹、劉璿、張紹を捕らえる。
出陣中だからか、ろくな武将がいない。劉度、賈華、吾彦が登用され、あとの3人を斬った。

263年8月

 空城にしておいた陳留城を曹操軍に取り返されたという報せが入った。
敵の兵力は9000ほどなので、汝南の董卓軍本隊は陳留に戻ることにした。
なぜ寿春まで攻めないのかというと、中原の東を支配する呂布軍と同盟を結んだからである。
その呂布の小沛軍と曹操軍との間で激戦が行われているので、この隙に陳留から河北を覗おうと思う。
 汝南から許昌まで輸送隊で戻り、許昌を成公英隊に任せて陳留へ出撃する。
陳留の守将は郭淮であったので捕らえようとしたがなぜか逃がしてしまった。
それでも曹彰と楊奉を捕虜にして、楊奉を登用した。
統率が低い武将で城を落とすと大魚を逃しやすいようだ。

 10月。兵数と装備を整え、陳留に于禁隊を残し、官渡から楼船にのって黄河を渡る。
11月に袁紹軍の白馬を攻め取り、守将の沮鵠と呂曠を斬って、上陸する。
 鄴では袁紹軍と公孫瓚軍が壺関の東、地図でいうと魏郡から広宗のあたりで激しく戦闘中であった。
華雄、張繍、太史慈の3隊が牽制しつつ、董旻隊と董卓隊で漳河の堰を切って水攻めを行う。
これにより鄴側にいる袁紹軍の部隊がほぼ全滅し、我が軍と公孫瓚軍との戦いになった。
鄴の城は兵数も6000ほどなので董旻に任せ、公孫瓚配下の賀斉、公孫続、公孫康などとぶつかる。
後詰の張燕と張済の部隊も加わって突撃攻撃を行い、敵部隊を全滅させ、敵将公孫康を捕らえて登用した。
 鄴の公孫軍が壊滅した頃、袁紹軍の鄴城もついに落ちた。
12月末。袁紹をはじめ、城内の者はみな捕らえられた。
捕らえた武将は以下の通り、
  • 袁紹、袁熙、袁尚、劉氏、沮授、審配、麹義、辛評、高柔、呂威曠、眭元進、張邈、藩鳳、穆順、曹豹、鄒靖、王桃、陳矯、楊祚、尹賞
陳矯と楊祚、尹賞だけが登用に応じた。
袁紹軍の武将たちは相性的に董卓様とは合わないので残念ながらほぼ全員処断の運びとなった。
ここで気付いたが顔良や文醜、田豊などがいない。
どうやら袁紹軍は公孫瓚軍の平原城を呂布軍と三つ巴で争っており、彼らは出陣していたようだ。
だが袁紹軍は滅んだので彼らの部隊は消滅し、離散してしまった。

 我が軍はこの3年間で陳留を2回と許昌、汝南、新野、襄陽、江陵、そして鄴の7城を落とした。
まる3年間戦い続けたが、残念なことに(?)、戦死は馬邈だけだった。
戦死について、ここまでのプレイを振り返って気付いたのだが、戦死を発生させた時の突撃した武将(加害者)を思い出すとみな騎馬適性がSなのだ。
華雄、徐栄がこのプレイ日記でも何度か戦死を発生させたが彼らは騎馬Sであり、今回の馬邈を殺した曹純も騎馬Sである。
またプレイヤーがこれまでプレイした記憶を振り返っても呂布、馬超、龐徳、文醜、夏侯惇が戦死を発生させていて、逆に騎馬Aの武将では一度も戦死が起きていないことに気付いた。
というわけでこれからは董卓の愛臣たちの騎馬適性を上げていく必要があることに気付いたのだ。
 そんなことを考えながら、董卓様の官職は大将軍にまで進んだのであった。

今回の犠牲者 61人 合計 150人
  • 関彝、夏侯淵、夏侯恩、曹洪、夏侯和、夏侯恵、傅巽、橋瑁、陳珪、鮑三娘、徐庶、雷銅、呉蘭、劉封、劉琦、鄧芝、陳震、★馬邈(戦死)、曹昂、曹丕、曹植、夏侯徳、万彧、陳登、董厥、呉班、黄忠、黄月英、蒯良、許靖、黄祖、劉琮、趙累、趙範、黄皓、孫皓、曹純、曹爽、裴秀、高幹、劉璿、張紹、沮鵠、呂曠、袁紹、袁熙、袁尚、劉氏、沮授、審配、麹義、辛評、高柔、呂威曠、眭元進、張邈、藩鳳、穆順、曹豹、鄒靖、王桃

指名手配 なし

新加入武将 23人
  • 張梁、杜預、楊阜、孫仲、鄧茂、韓徳、張闓、朱異、謝旌、留賛、毌丘秀、鍾毓、張緝、張悌、王異、凌統、劉度、賈華、吾彦、楊奉、公孫康、陳矯、楊祚



第6回へ続く
(次ページに董卓軍中心メンバーの能力表を載せたいと思います)
董卓/上級/魔王董卓の殺伐たる天下取り 第3部

  • 頑張れ。設定は『戦死多い』ですか? -- 名無しさん (2011-07-18 16:17:40)
  • ありがとうございます。はい、「多い」に設定しています。かれこれ50~60回は突撃をしていますが戦死はあまり起こりませんね。 -- 董卓の日記著者 (2011-07-18 17:25:19)
  • まあ、死んでいくのは遠方の無名な武将たちだもんなあ・・・ -- 名無しさん (2011-07-18 18:24:14)
  • そうですね、後で知らないうちに死んでる武将をチェックしないとだめかもしれません。全部で670人もいるので大変でしょうけど。 -- 董卓の日記著者 (2011-07-19 00:29:40)
  • 現在の董卓軍の古参の武将の能力を教えてください。 -- 名無しさん (2011-07-21 13:47:20)
  • コメントありがとうございます。わかりました。ちょっと待っててください。 -- 董卓の日記著者 (2011-07-22 00:17:56)
  • とうとう味方に戦死者出ちゃったか…。 -- 名無しさん (2011-07-22 16:51:16)
  • もしかして騎馬Sの武将じゃないと戦死させることはできないのかな?だとしたら新たな発見だね -- 名無しさん (2011-07-22 17:28:22)
  • そうじゃなくて武力の関係な気がする -- 名無しさん (2011-07-22 18:00:22)
  • 今のところ武力、騎馬適性のどちらが必要条件なのかわかりませんが、確かに騎馬Sは高武力武将ばかりですね。このプレイの要旨なのでもっと検証したいと思います。 -- 董卓の日記著者 (2011-07-23 13:45:04)
  • 今、騎馬Aの凌統で戦死を発生させました。よって騎馬適性は必要条件でなく、曹純の事例から兵数も関係ないことがわかりました。武力が重要だということになります。 -- 董卓の日記著者 (2011-07-26 10:01:07)
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