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黒人
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図像としての黒人
lovelovedogさんとこのコレを読んで、買ったまま放り出してあった『BLACK IMAGES IN THE COMICS: A Visual History』(Fredrick Stromberg、Fantagraphics刊)のことを思い出して引っ張り出してくる。
この本はコミックスに描かれた図像表現としての黒人キャラクターを網羅的に集めたもので、日本マンガからも手塚治虫やかわぐちかいじの描いた「黒人」の図版が収録されている。日本の出版物の感覚からするといわゆる「黒人コミックスキャラクター図鑑」のようなものを想像されるかもしれないが、実際にはそういうものではない。「論文」というほどフォーマルなスタイルではなくエッセイ形式ではあるものの、コミックスに描かれてきた「ステレオタイプな黒人」像の変遷を具体的な図版によって追ったまじめで硬い研究書である。
この本はコミックスに描かれた図像表現としての黒人キャラクターを網羅的に集めたもので、日本マンガからも手塚治虫やかわぐちかいじの描いた「黒人」の図版が収録されている。日本の出版物の感覚からするといわゆる「黒人コミックスキャラクター図鑑」のようなものを想像されるかもしれないが、実際にはそういうものではない。「論文」というほどフォーマルなスタイルではなくエッセイ形式ではあるものの、コミックスに描かれてきた「ステレオタイプな黒人」像の変遷を具体的な図版によって追ったまじめで硬い研究書である。
本書が前提とするのはコミックスを制作するひとびとが真空地帯に生きているわけではないということだ。彼らはある「文化」の中で生きており、文化は彼ら自身の生活を反映したものだ。コミックスの中に描かれてきたイメージを学ぶことによって、私たちは直接、間接にコミックスの作り手たちの現実世界での生活のスナップショットを手に入れることができるかもしれない。私たちの仕事はコミックスがものごとを誇張して描くメディアであることによってよりやりやすくなるだろう。そこではしばしば問題が単純化、ステレオタイプ化され、ときに私たちの住む複雑な世界をより理解しやすくするための試みとなり、ときに効率的で簡潔なコミュニケーション様式となる。その過程でもちろんそれらは周囲の社会の傾向や姿勢を強調し、その観察や研究に利用しやすくしてくれる。ポップカルチャー全般、特にコミックスにおいては、シリアスな美術作品よりも研究者に対してはっきりした時代精神の反映を映し出してくれる。
マンガ家は自分とは異なる人種を描く際に自分が属するのとは異なる集団を差別化することが難しいためにそれを類型化して扱うのだと信じられている。この説にしたがえば個々のマイノリティー集団がはっきりした図像的特質をもって描かれるのは単に個々のアーティストが内面化させている文化的なショートカットの反映であり、それをマンガ家個人の単純な人種差別感情のあらわれとして扱う必要はなくなることになる。こうした前提に立つのなら、私たちはある特定の時代に社会がどのような価値観を受容していたのかについてより興味深い研究をおこなうことができるようになるだろう。
(「PROLOGUE」、Fredrick Stromberg、『BLACK IMAGES IN THE COMICS: A Visual History』、Fantagraphics刊))
こうした性格の研究書であることからじつは本書に収録されている図版の多くは「黒人差別をなくす会」が大騒ぎしそうな図版である。たとえば最近たけくまメモの一連のエントリで紹介されてちょっと話題になったウィンザー・マッケイの『リトルニモ』なんかも相当当時のステレオタイプバリバリな黒人が登場しているし、この点では時代は下るがフランスの『タンタン』(エルジェ)なんかもまるで同じだ。この本はそうした時代時代のコミックスにあらわれた黒人の姿を19世紀末の新聞のエディトリアルカートゥーンから最新の黒人コミックストリップである『ブーンドックス』まで淡々と並べ、解説している。
たぶんこういうものは件のlovelovedogさんのエントリで紹介されていた黒人差別をなくす(デースケドガー</a>)というサイトなら嬉々として「黒人差別をなくす会」的な価値観の珍妙さを笑うための事例として紹介するのだろうが、個人的にはそういうのもどうかと思う。
といってもべつに「黒人差別をなくす会」的な価値観が珍妙ではない、といいたいわけではない。日本人である私個人にとって「黒人差別」という問題があまりにも他人事でしかないのに、それを「表現の自由」を語るためのダシに使うことには、それを「差別」を語るためのダシに使うこと同様にどうも違和感があるのだ。はっきりいって『ちびくろサンボ』を読んだブラックが実際にどう感じるかなんて私には想像もつかない。想像もつかないので「差別だ」というのも「差別じゃない」というのも妥当じゃないと思う、というだけの話だ。
この本の作者フレドリック・ストロムバーグはノルウェーのコミックス研究者で、その辺の感覚がどうなのかが逆に興味深いのだが(ノルウェーという国の人種構成とか)、いうまでもなく出版社のFantagraphicsはアメリカの会社だし、本書に限らず黒人コミックスをテーマにした研究書は何冊か出ていて今後も増えこそすれ減ることはないだろうと思う。それにそもそも問題の『ニモ』や『タンタン』はアメリカでいまも版を重ねているのである。そういう意味ではあきらかに「他人事」ではないアメリカでの状況とあきらかに「他人事」でしかない日本での状況を引き比べて「まったくもっておかしな話だなあ」とは思う。
ただ、この「おかしい」は「weird」の意であって決して「funny」じゃないし、「funny」だと笑う人間の気持ちはわからない。
たぶんこういうものは件のlovelovedogさんのエントリで紹介されていた黒人差別をなくす(デースケドガー</a>)というサイトなら嬉々として「黒人差別をなくす会」的な価値観の珍妙さを笑うための事例として紹介するのだろうが、個人的にはそういうのもどうかと思う。
といってもべつに「黒人差別をなくす会」的な価値観が珍妙ではない、といいたいわけではない。日本人である私個人にとって「黒人差別」という問題があまりにも他人事でしかないのに、それを「表現の自由」を語るためのダシに使うことには、それを「差別」を語るためのダシに使うこと同様にどうも違和感があるのだ。はっきりいって『ちびくろサンボ』を読んだブラックが実際にどう感じるかなんて私には想像もつかない。想像もつかないので「差別だ」というのも「差別じゃない」というのも妥当じゃないと思う、というだけの話だ。
この本の作者フレドリック・ストロムバーグはノルウェーのコミックス研究者で、その辺の感覚がどうなのかが逆に興味深いのだが(ノルウェーという国の人種構成とか)、いうまでもなく出版社のFantagraphicsはアメリカの会社だし、本書に限らず黒人コミックスをテーマにした研究書は何冊か出ていて今後も増えこそすれ減ることはないだろうと思う。それにそもそも問題の『ニモ』や『タンタン』はアメリカでいまも版を重ねているのである。そういう意味ではあきらかに「他人事」ではないアメリカでの状況とあきらかに「他人事」でしかない日本での状況を引き比べて「まったくもっておかしな話だなあ」とは思う。
ただ、この「おかしい」は「weird」の意であって決して「funny」じゃないし、「funny」だと笑う人間の気持ちはわからない。