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闘牛について(まとめ)

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匿名ユーザー

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  • たいし
「闘牛の歴史」
闘牛は日本各地でも行われている。
新潟では牛の角突き、隠岐では牛突き、宇和島では牛相撲とも呼ばれ、鹿児島県徳之島では牛オーシ、そして当地沖縄では牛オーラセーと呼ばれている。
沖縄で牛の記録が残されているのは、1479年(宗成大王実録)からだとされている。その頃既に闘牛が行われていたかは不明である。
闘牛は農村で自然発生したものであり、現在のような確立された形は明治時代になってからと言われている。
戦前はアブシバレー(畦払い)や原山勝負の日を中心に行われた。
明治の初めには牛佐治という役人がおり鉦を叩き人を集めて闘牛を行ったとの記述もある。
それまでの闘牛は入場無料であった。
娯楽の少ない大衆には待ち遠しい行事であったろう。
明治38年に行われた具志川村(現在は市)間切り合戦は、2日がかりであったと伝えられている。
10組の牛を対戦させるのに1日費やしてしまい、あとの2組は翌日まで持ち越された。
シーの一番(横綱戦)には喜屋武ワイーと汀良小ワイーの対戦であった。喜屋武ワイーが田んぼに落とされて負けたと記録されている。
又、大正8年には石川市で大会が行われ、得得号と新屋アコーが対戦している。
新屋アコーは徳之島から導入した赤毛の牛であった。徳之島では勢威をふるった強豪である。
結果は新屋アコーの勝ち、逃げる得得牛を新屋アコーは石川橋上流まで泳いで追いかけ、若者達が川に飛び込みようやく引き離したと記述されている。
現在のような柵のある闘牛場では無かった為、広場や草原で対戦させていたのがうかがえる。
入場料を徴収するようになったのは1934年(昭和9年)の読谷大会からだと言われている。
当時、闘牛界は楚辺アヨー(牛主、読谷村の池原氏、琉仁さんの祖父)が向かうところ敵無しと言われ、相手がいない状態が続いていた。
この牛を負かす為、徳之島からワナ号を導入したのが読谷村楚辺の比嘉憲永氏(東昇でお馴染み)である。



  • まさし
「闘牛のルール・システム」

牛でのルール(Vol.1)
闘牛は1対1の勝負なのだが、脇に人間の勢子(せこ、沖縄では闘牛士と言われている)がそれぞれついて牛に気合、叱咤を入れている。
相撲みたいに、牛は相手に技をかけて戦っています。(でも相撲ほど多くないが、見分けるのが難しい…)

闘牛でのルール(Vol.2)
勝負は基本的に逃げた方が負けだが、腹取りという技では勝ち負けの大勢がほぼ決まるので、審判たちが勝負を決める。
闘牛士は戦っている牛を引き離しにかかる。興奮している牛を相手するので、引きずられる闘牛士さんも。
勝った牛は勝利を宣言する布をかけてもらい、牛主の家族はなだれ込んで踊り、 観客みんなが勝利の牛にお祝いをする。



  • げんしゅう
「闘牛場の場所・闘牛が行われる頻度」
現在、県内に13の闘牛場があり、闘牛愛好家が組合をつくり定期的(日
曜・祭日)に大会を開いている。
 闘牛場は、今帰仁、本部、名護、石川3カ所、具志川、沖縄市、嘉手納、
宜野湾、知念、石垣、与那国にある。その中で沖縄市営闘牛場がもっとも大きく収容人員1万人であり、年に2回、全島大会が開催されている。

春と秋に行われる大きな大会を「全島大会」と言う。
全島大会は石川(イベント広場)、具志川(安慶名)、沖縄(観光闘牛場)
の3ヶ所で行われるのですが、バスの便では具志川の闘牛場が良いです。
(大会は銃繰りで開催)

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